人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

貼り紙と箱

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

しばらく前から動静をうかがっているヤキトリ屋とサンマー麺屋だが、ヤキトリ屋はなくなっていた貼り紙がまた貼ってあった。手書きではないところをみると息子の嫁か孫にでもパソコン制作してもらったとみえる。じいさん、なるほどそういえばまったく孤独の陰がなかった。店も9時には閉めてしまうわけだ。
この貼り紙、貼ってあったりなかったりで、気づいてからでもこれで3回目くらいになる。ぼくが通るのはだいたい午前中なので貼っていない時は営業している可能性はなきにしもあらずだが、「しばらく」という副詞はそんな短気なものじゃないだろう。
ということはじいさん(一応お断りしておくがぼくはお年寄りに対する蔑称としてじいさんと呼んでいるのではない。ヤキトリ屋の年寄りのおやじさんの略称としてじいさんと呼んでいるのだ)は貼り紙の文面通りずっと店を休んでいる。去年からやっているモンハンが終らないからだ。
ゲームが終るのが先かわしの命が先か、と無駄に効率悪い能力と武器を鍛えてしまったことを戦闘ごとに後悔しながら、せめてあと20年若かったらと思う。じいさんがやり残したことは他にもある。麻薬とか強姦とか殺人とか。確かにそれは無法かもしれない。でも「こーちゃん」の椅子にはそういった客も座るのだ。

そんなわけですっかり秋のメランコリーに沈むじいさんだが、1週間ほどかかるにせよ剥がれてしまったことに気づいて貼り直しているからには、じいさん本人か息子の嫁か孫かがそれをやっているわけだ。ほとんどいらぬ心配と言ってよい。貼り紙などなくてもシャッターが下りていれば「今日は休みか。じいさんだもんな」で客は納得する。それより貼ってあったりなかったりする貼り紙の方がよほど不気味だ。貼り紙の文面も現状・今後について具体的には何も触れておらず不気味だ。
そこで考えられるのはふたつ。まず先に推測した通りモンハンに夢中、または客が置いていった少年マンガ誌を生まれて初めて読んで自分でも描き始めたら隠れた才能が開花してしまった(でもヤキトリ屋は念のため残しておく)。それから(ふたつだっけ?細かいことは気にしない)これが本命だが、

●これは一種のパフォーマンス・アートである
●しかもこのバカバカしいアートに家族が協力している

というものだ。唖然。

サンマー麺屋のショーケース、撮影成功。