(1)
図版のうち下のふたつが去年の巣、今年はひとつになってしまって排水管の上で狭苦しそうな造りなのが図版上だ。
どうしてこうなったか。去年のふたつは整骨院と化粧品店の店頭の庇に巣を造っていたのだが、秋頃にどちらも店頭を改装してしまった(それまでは古い巣も残っていた)。整骨院は庇がなくなり、化粧品店も巣を造るほどの幅はない。そこでなんとか排水管の上に巣を造った。
もうひと家族の行方も気になる。が、数年前は駅前の銀行の店頭に巣造りしている一家があったから(去年かおととしからなくなった。おととしは春の3か月間入院していたのでわからない)、去年の2組のうちどちらかが銀行からの引っ越し組なんじゃないか、と歯科衛生士のYさんと話した覚えがある。中年男が若い女性と挨拶がわりに当たり障りのない世間話をするのも気を使うんですよ。
(2)
去年も燕の巣の記事を書いた。ブログを始めたのは5月からだったから、時期的には今年より遅い。気づいてから1週間ほどで巣立ってしまった覚えがある。
ぼくは幼児~小学生時代を過ごした父の勤める洋服店の店舗兼社宅に毎年燕が巣造りに来たのが思い出になっている。それで燕にはなんとなく尊敬的イメージがあるのだ。
燕も人間の都合で巣を転々としてたいへんだな、と思う一方、5分と離れていないところに広大な自然公園があり、駅前を離れれば巣など造り放題の住宅地がある。なぜひとけの多い商店街の店に巣を造るか?おそらく人間がいる場所には天敵が来ないからだろう。燕は燕で、人間なんかセコムみたいなものとしか思っちゃいないのだ。
(3)
人が禽獣を愛する心理とはいったいなんなのか、哺乳類、とりわけ家畜動物ならわかるが、鳥類や両棲類、爬虫類、哺乳類でもまったく人になつかないもの、それらを愛玩動物とし、または景物として慈しむのはいったいどういうことなのか。なにしろ共通の話題も関心もなにもないのだ。
それは心が通じないからだ、と喝破したのが川端康成(1899-1972)の短篇小説「禽獣」1933だった。このエッセイ風の不思議な短篇はストーリーらしいストーリーはない。ペットが死ぬ。感情もなく次のペットを飼う。これを人間関係まで拡大すると愛のない関係こそが自由と愛玩の前提になる。作家も社会的には禽獣的存在にすぎない。川端はこの認識を生涯変えなかった。