人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

中西梅花「出放題」(『新體梅花詩集』明治24年=1891年刊より)

『新體梅花詩集』明治24年(1891年)3月10日・博文館刊。
四六判・序文22頁、目次4頁、本文104頁、跋2頁。(ダストジャケット・本体表紙)
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 日本の現代詩の起点は北村透谷(明治元年=1868年生~明治27年=1894年)5月16日縊死自殺・享年25歳)の存在が真っ先に上げられますが、透谷の同時代詩人・中西梅花(慶応2年=1866生~明治29年=1898年)もまた、当時前例のない明治日本の現代詩を作り上げた詩人でした。梅花・中西幹男もまた透谷と同様に江戸の没落士族(透谷は小田原でしたが)の生まれでしたが、西洋文化啓蒙期の明治20年代の文学者ではキリスト教とも英文学からも影響されなかった数少ない存在です。梅花の学歴は不明ですが、幸田露伴(1867-1947)を中心とした「根岸派」の文学者との関わりが深く、根岸派は漢文学・日本古典の系譜を重視した流派でしたから西洋文学からの影響の稀薄さも頷けます。明治22年(1889年)初頭(透谷の『楚囚之詩』は同年4月)に読売新聞文芸部に入社した21歳の梅花は7月から文芸欄に記事、小説、詩を次々と発表します。ところが翌明治23年(1990年)3月には親しい露伴のライバルでもあった大家・尾崎紅葉(1867-1903)の新作連載が紅葉の強要から大活字の組版になったことに抗議して文芸部主筆坪内逍遥(1859-1935)と衝突、翌4月に根岸派の関西旅行に随行するも、翌5月の帰京以後は勤務先の新聞社に出社しなくなり、事実上なし崩しの退社になりました。明治の大新聞「国民新聞」主宰の大ジャーナリスト徳富蘇峰(1863-1957)の好意で同紙の寄稿家になりますが、半年足らずで同年9月~11月には突然美濃の僧院に隠棲してしまいます。12月帰京、翌明治24年(1891年)3月に、24歳にして明治22年以来の既発表作品に僧院隠棲時の新作を加えた初の著書の詩集『新體梅花詩集』を森鴎外(根岸派との親好から)、森田思軒(根岸派)、徳富蘇峰の序文、幸田露伴の跋文(後書き)で蘇峰の顔が利く大手出版社・博文館から刊行しましたが、結局この詩集が梅花の遺作になりました。生活苦から逍遥、蘇峰、思軒らに就職先の斡旋を懇願するも、これまでの不安定な職歴から信用を得られず就職先はなく、作品発表も同年8月の詩「ものぐるい」、11月の少年読物「柔軟男子(第四回)」を最後に文壇からの消息を断ち、精神病院の入退院と僧院への隠棲をくり返しながら明治31年(1898年)9月3日に実家で亡くなったと旧知の文人たちに知られたのも没後数年を経てからでした。享年31歳でした。

 唯一の著書『新體梅花詩集』は全22編(うち漢詩の訳詩3編)を収めていますが、梅花の文業にはほか詩集未収録詩編数編、記事・批評が数編、新聞連載全10回程度の短編小説が未完作品含めて10編ほどあり、坪内逍遥宛て書簡が公開されていますがすべて単行本未刊行のままです。全集にまとめても全1巻・400頁にも満たない分量でしょうが、梅花を透谷と比肩する明治20年代初頭の二大反骨的詩人との評価は日本現代詩の研究者には大正時代には定着し、現在まで伝承されているものの、あまりに特異な作風のマイナー詩人で一般的な読者に読まれる内容ではないため、著作集も全集も刊行されておらず、明治文学や現代詩の研究者向けに復刻されているのみです。ご紹介する「出放題」は明治23年(1890年、梅花24歳)秋の僧院隠棲時創作の詩集書き下ろし作品で、『新體梅花詩集』でも長さは明治23年1月既発表の力作長編詩「霊魂」に迫り、また詩集刊行直前に先行発表された巻頭作品「九十九の姆」は「出放題」「霊魂」の3倍強もあり同作だけで詩集の三分の一を占める長編物語詩です。『新體梅花詩集』全22編は「九十九の姆」「霊魂」「出放題」の3編で6割近い紙幅が割かれており、中でも梅花の代名詞になっている作品が「出放題」です。漢文脈で拮屈な欧文翻訳体の『楚囚之詩』(北村透谷)、しなやかな雅文体の『於母影』(森鴎外と新声社)の翌年に、早くも『新體梅花詩集』、なかんずく「出放題」が書かれているのは狂い咲きで済まされるでしょうか。梅花は一枚の肖像写真すら残されていないのです。なお「出放題」はタイポグラフィーの詩でもあり、原文では縦横無尽な文字下げの改行によって文字が乱れに乱れて配置されているのですが、その配列が再現されていなかったら中央揃えにします。梅花の原文もほぼ中央揃えの改行を基本的タイポグラフィーにしています。この奔放で一見無内容な「出放題」が130年前に書かれた日本の最初期の現代詩で、かつまた24歳の詩人畢生の遺稿詩集の代表作なのを思うと、ムードだけの空疎な心情抒情詩か安易な標語もどきの色紙詩くらいしか人口に膾炙しない日本の現代詩の不幸はいまだ続いているように痛感されます。

出放題   中西梅花

きのふは過ぎぬ、明日は未(いま)だし、
   君に若(も)し、
  肉あらば、食はせ給へや、
   君に若し、
  酒あらば、飲ませ給へや、
    世の中は、
   今日の外(ほか)、唯現在の今日の外、
 明日も明後日も無きものを、
あらば其(そ)は、あだなる名のみ、
あらば其は、むなしき名のみ、
          世の中は、
     唯おもしろきものなるを、
      其おもしろきものとては、
    唯現在の今日のほか、
 明日も明後日も無きものを」
   我酒瓶にあり、飲めや人、
   我琴棚にあり、弾けや人、
 酔はゞ我、其の酔の国に住み、
 弾かば我、其の声の国に住み、
   住まば我、其の酔となり、
   住まば我、其の声となり、
  其の酔の、我なるか、
  其の我の、声なるか、
   其の声の、我なるか、
   其の我の、声なるか、
彼もなく、又我も無き其の時は、
 夢と見て夢ならじ、
  夢ならば其の夢は、
 誰も云ふ夢ならで、
   夢ならぬ夢ならめ、
  夢アゝ夢なるかな、
       夢なるかな」
  醒めたりと云ふ其の人の酔へるは、
  酔へると云ふ其の人の醒たるが如(ごと)、
 是を説かば、非中是あり、
 非を説かば、是中非あり、
    我が馬をもて彼の馬を説かんより、
    彼の馬をもて彼の馬を説け、
    彼の指をもて我が指を説かんより、
    我が指をもて我が指を説け、
  世の中は、唯一指なるをや、
  世の中は、唯一馬なるをや」
 君見ずや、
天地(あめつち)は笛なるぞ、唯大きな笛なるぞ、
   吹くは抑(そ)も何者ぞ、
    見えねどもかたちとて、
    唯明らかに見えねども、
   春来れば、花うるはしく、
   秋去れば、雪おもしろし、
  進むとは如何なるを退くと見て、
  進むなるか、其は能(よく)も得知らねど、
   進むと云ふ世の中に、
    進むと云ふ世の人の、
   夏暑く冬さぶしとぞ云ふ、
    其の道理(ことはり)は合点けど、
               肯へど、
 おしひろめ、押詰むれば、
    世の中は、唯一指なるをや、
    世の中は、唯一馬なるをや」
天地は笛なるぞ、唯大きな笛なるぞ、
   吹くは抑も何者ぞ、
    何者とは得知らねど、
   糸にあたれば糸に、
   竹にあたれば竹に、
   金にあたれば金に、
   石にあたれば石に、
  山に、
  河に、
  海に、
 数えても数えつくせぬ其のものは、
 吹きゝたり吹きあたる其のかぜは、
              其の音は、
   幾千万と数へても数へ尽せぬが如、
   世のなかの差別とし云へるものを、
   是非としも云へるものを、
   差別して数へなば、
   其を数へつくせぬがごと、
   又数へつくされじ」
 ふりかへれば、我が年は、
 かぞふれば、我がとしは、
   四五千年にやなりぬ覧(らん)、
    進みきたりぬ、我が知恵は、
    殖てきたりぬ、我が知恵は、
      進みきたればこそ、
      ふえきたればこそ、
    名も無きに名をつけて、
     理学、哲学、猫、杓子(しやくし)、
  アハゝ、アッ、ハッ、ハ、
    我が知恵は凄まじ、
    わが知恵はえらし、
     それでこそ理学、哲学、猫、杓子、
      唯いろ/\に名を付て、
      序無き穴によつ這ひて、
     頭は、蜘蛛の囲に、
     顔は、かはほりに、
      息もたへ/\迷ふ人、
     あはれ/\、アナあはれ」
 見来たれば、我が身世に出でゝ、
 白糸の有無をだに知らぬ、
 えぞ知らぬ、まだ幼頃(おさな)より、
   今は頭に霜ふりて、
    アハゝ、アッ、ハッ、ハ、
    まだ霜などは降らねども、
    四五千年の今日が日まで、
   石は石、花は花、竹は竹、
  花が石にも咲きはせじ、
  竹が花にもなりはせじ、
   わからぬものゝ詮索を、
   分からぬものに為(させ)るとは、
  アハゝ、アッ、ハッ、ハ、
   唯笑へ、笑ふて遊べ、
          世の中は、
   唯現在の今日の外、
明日も明後日も無きものを、
 止れや蝶々、菜の花へ止れ、
      菜の葉があいたら、
 よしの先へ止まれ、
  止まるところを忘れなば、
猫に追はれし蝶々の、
荘子は夢にうなされややせん」

(『新體梅花詩集』博文館・明治24年=1891年3月、詩集書き下ろし)

(かな遣いは原文のまま、漢字は当用略字体に改め、送りがなを一部補いました)
(旧稿を改題・手直ししました)