人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

吉岡実(1919-1990)の詩から五篇

(吉岡実<大正8年=1919年生~平成2年=1990年没>20歳・50歳)
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ルイス・キャロルを探す方法

[ わがアリスへの接近 ]

三人の少女
アリス・マードック
アリス・ジェーン・ドンキン
アリス・コンスタンス・ウェストマコット
彼女らの眼は何を見ているのか?
彼方にかかる縄梯子
のびたりちぢんだりするカタツムリ
刈りとられるマーガレットの黄と白の花の庭で
彼女らの脚は囲まれている
どこからそれは筒のようにのぞくことができるのか?
「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がっていたら いうところはないんだがね」*
彼女らの心はものみなの上を
自転車で通る
チーズのチェシャ州の森
氷塊をギザギザの鋸の刃で挽く大男が好き
鞄のなかは鏡でなく
肉化された下着
歴史家の父の死体にニスをかけて
床の下の世界から
旅する渓のみどりの水をくぐる
一人の少女を捕えよ
なやましく長い髪
眠っている時は永遠の花嫁の歯のように
ときどきひらかれる
言語格子
鉛筆をなめながら
わが少女アリス・リデル
それは仮称にすぎない
〈私〉の外にいて
あらゆる少女のなかのただひとりの少女!
きみはものの上を通らずに
灰と焔の最後にきた
それでいてきみは濡れている
雨そのもの
ニラ畑へ行隠れの
鳩の羽の血
影があるようでなく
ただ見つけ出さなければならない浄福の犯罪
大理石の内面を載れ
アイリス・紅い縞・秋・アリス
リデル!

*[ ルイス・キャロル鏡の国のアリス』岡田忠軒訳より ]

(詩集『サフラン摘み』昭和51年=1976年より)

聖少女

少女こそぼくらの仮想の敵だよ!
夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる
あいまいな愛のかたち
中身は何で出来ているのか?
プラスチック
紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ
あらゆる肉のなかにある
永遠の一角獣をさがすんだ!
地下鉄に乗り
哺乳瓶を持って
ぼくら仮想の老人の遥かな白骨のアーチをくぐり
冬ごもる棲家へ
ハンス・ベルメールの人形
その球体の少女の腹部と
関節に関係をつけ
ねじるねじる
茂るススキ・かるかや
天気がよくなるにしたがって
サソリ座が出る
言葉の次に
他人殺しの弟が生まれるよ!

(詩集『神秘的な時代の詩』昭和49年=1974年より)

桃-或はヴィクトリー

水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の体力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
その動きをしばらくは見よ!
他人の痒くなっていく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
蛍光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
タツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー

(詩集『静かな家』昭和43年=1968年より)

劇のためのト書の試み

それまでは普通のサイズ
ある日ある夜から不当に家のすべての家具調度が変化する
リズムにのって 暗い月曜日の風のなかで
音楽はユーモレスク
視覚的に大きなコップ 大きな歯ブラシ
天井までとどく洋服ダンス
部屋いっぱいのテーブル
家族四人が匿れるトマト
父・洋服が大きくて波うち会社に出られず
兄・靴が大きくてラセン巻き
妹・月経帯が大きくてキララいろ
母・大きな容器の持ち運びで疲れてたおれる
父に電話がかかる
拡声器のように大きな声が父の不正な仕事をあばく
兄は女を孕ます罪をあばかれる
電話機の闇
妹は火山口のような水洗便所のふちで
恋人の名を呼ぶ
母はどうしているか 母は催眠錠の下にいる
塀の外はどうなっているのか 洗濯物で見えぬ
ある日ある朝から順調にサイズが小さくなる
小さな鏡 小さな寝台
小さなパン 観念のような
妹《わたしは飢えているわ》
兄《何があったのだろう この窓の外で
火事や地震じゃない 別の出来事が
ぼくたちの罪じゃない》
夕暮から地平の上のほろびの技術
かたむく灯
かたむく煙突
かたむく家
父母の死骸は回転している洋服ダンスの中
兄妹はレンガの上に腰かけ
雨が降っている
ふくらむスポンジの世界
兄《とにかくぬれないところ どこがあるだろう》
兄妹立ちあがる未来の形で
聞こえる?
恋するツバメの鳴き声

(『吉岡実詩集』昭和42年=1967年より、発表1962年)

静物

夜はいっそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが
星のある海をぬけだし
皿のうえで
ひそかに解体する
灯りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
その皿のくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる

(詩集『静物』昭和30年=1955年より)


 昭和の現代詩の中で吉岡実(大正8年=1919年生~平成2年=1990年没)の詩がどれほど異彩を放っていたか、いかにすごいものだったかは、作品そのものを読んでいただければわかります。数週前に代表詩集『僧侶』(昭和33年=1958年)から表題作をご紹介しましたが、今回選んだ5篇は特に吉岡実にとっては代表作というほどでもないものです。この詩人にとってはこれがアヴェレージ作というのも念頭においてください。吉岡実にとっては特に力作でも何でもないのがこれなのです。あえて逆年順に上げましたが、まるでルイス・ブニュエルの『黄金時代』『昇天峠』のようなユーモアと悪意に満ちた悪夢的世界です。吉岡実は戦後に詩集『静物』(昭和30年=1955年)で注目され、次の詩集『僧侶』が決定的な出世作となり、晩年まで数回の作風の変化もすべて成功し、没後もますます評価が高まっている詩人です。

 吉岡実は作風の実験にも意識的で、およそ生涯に4期の変化があり、そのいずれもが成功しています。冒頭にご紹介した詩篇は1974年発表、大反響を呼び、日本での「アリス」(ルイス・キャロル)ブームの火つけ役となり、収録詩集『サフラン摘み』が刊行されるとたちまちベストセラーになり各種文学賞を受賞しました。吉岡実の作風のなかでは第三期を代表する作品です。おそらく、というか確実にこのアリス詩篇ウラジミール・ナボコフの長篇小説「ロリータ」1956から着想を得ており、ロリコンという言葉が定着したのもそれ以降のことでした。少女の名前へのフェティシズムに注目してください。「三人の少女/アリス・マードック/アリス・ジェーン・ドンキン/アリス・コンスタンス・ウェストマコット」はシェークスピアの『マクベス』の三人の予言者魔女になぞらえたものであり、これが言葉使いの魔女少女なのは実在のイギリス女流作家の名前のもじり(アイリス・マードックは言うまでもなく、「アリス・コンスタンス・ウェストマコット」はアガサ・クリスティ推理小説以外のロマンス小説での別名です)からも明白です。吉岡は同年輩の鮎川信夫(1920-1986)と共に戦後現代詩の2大潮流を創った詩人とも言え、モダニズムや兵役体験など重なる経歴もこの二人には多く、吉岡は先に戦後詩をリードしていた鮎川を敬愛し愛読していました。鮎川も吉岡の力量と若手詩人への影響力を認めていました。しかし両者の詩は、同世代でこれほどかけ離れた詩人はいないと言っていいほどです。

 ここでは逆年順に吉岡実の詩を並べ、吉岡の作風は四期(習作期除く)に及ぶと述べましたが、詩集タイトルにもなった「静物」は戦後に改めてデビューした吉岡の出発点となった静的な作風の時期の作品です。次の詩集『僧侶』からは吉岡はグロテスクなユーモアの横溢する詩に進み、「劇のためのト書の試み」「桃-或はヴィクトリー」は『僧侶』から始まった第2期の作風の頂点に達した時期のものです。吉岡は'60年代あいっぱいまでは詩に句読点も引用符も感嘆符・疑問符やダッシュなどの記号表示も使わない詩人でしたが(「劇のためのト書の試み」は引用符を使った稀な例です)、'70年代以降吉岡は逆に感嘆符・疑問符や引用を過剰なまでに多用して異様な効果を上げる詩に作風を拡張します。「聖少女」やアリス詩篇がその時期の作風を示します。吉岡は'80年代にはさらに絵文字のようなタイポグラフィーを多用して紙面自体が曼荼羅模様になるような作風に進展し、さらに長編詩化も押し進めますが、この第4期の詩は紙面自体を再現しなくては引用の意味をなさなくなるので今回はご紹介を見送りました。作風の変化と言っても吉岡実の場合は従来の手法を段階的に拡張させるような進展を見せてきたので、グロテスクで生理的(肉体的・器官的)誇張を伴ったユーモアは一貫しており、一読して吉岡実の詩とわかる言語センスは晩年まで衰えを見せませんでした。鮎川信夫吉岡実とも戦前の文学少年時代から西脇順三郎に傾倒し、生涯西脇に最大の敬意を払っていましたが、西脇順三郎から継承したものは鮎川と吉岡ではほとんど重ならない点でも、また見かけの上では西脇の詩はまったく鮎川とも吉岡とも違っていたことでも、現代詩の可能性はまだまだ開拓の余地があるのを感じさせられます。西脇順三郎吉岡実の詩は読んでいる間は他の詩人など読まなくてもいい、これ以上の詩を書く必要などないような充実感があり、他方鮎川信夫の詩はここから何かを始めなくてはと読者を焦らせるような切迫感に満ちています。それは詩の優劣ではなくて、詩にはそうした指向の広がりがあるということでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)