人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

西脇順三郎「馥郁タル火夫」(昭和2年=1927年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)

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「馥郁タル火夫」

 西脇順三郎

 ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に椅りかゝりて如何に滑らかなる没食子が戯れるかを見よ!
 集合的な意味に於て非常に殆ど紫なるさうして非常に正当なる延期!ヴエラスケスと猟鳥とその他すべてのもの。
 魚狗の囀る有効なる時期に遥に向方にアクロポリスを眺めつゝ幼少の足を延してその爪を新鮮にせしは一個の胡桃の中でなく一個の漂布者の頭の上である。
 間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらんとする水牛を!
 口蓋をたゝいて我を呼ぶ者あらば我はひそかに去らんとする。けれども又しても口中へ金貨を投ずるものあり。我はどならんとすれども我の声はあまりにアンヂエリコの訪れにすぎない。躓きたれども永遠は余りについてかまびすし。
 色彩りたる破風よりクルブシを出す者あれば呼びて彼の名称を問ふ。彼はやはりシシリイの料理人であつた。
 堤防を下らんとする時我が頸を吹くものがある。それは我が従僕なりき。汝すみやかに家に帰りて汝の妻を愛せよ!
 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。
 或は窓掛の後ろより掌をかざすものあれども睡眠は薔薇色にして蔓の如きものに過ぎない。
 我は我の首飾をかけて慌しくパイプに火をつけて麦の祭礼に走る。
 なぜならば巌に水の上に頤を出す。呵梨勒を隠す。
 筒の如き家の内面に撫子花をもちたる男!
 ランプの笠に関して演説するものてはない然し使節に関して記述せんとするものだ。窓に椅りかゝり音楽として休息する萎縮病者の足をアラセイトウとしてひつぱるのである。
 繁殖の神よ!夢遊病者の前に断崖をつくりたまへよ!オレアンダの花の火。
 桃色の永遠に咽びて魚をつらんとする。僧正ベンボーが女の如くさゝやけばゴンドラは滑る。
 忽然たるアカシアの花よ!我はオドコロンを飲んだ。
 死よさらば!
 善良な継続性を有する金曜日に、水管パイプを捧げて眺望の方へ向かんとする時、橋の上より呼ぶものあれば非常に急ぎて足を全部アムブロジアの上にもち上げる。すべては頤である。人は頤の如く完全にならんとする。安息する暇もなく微笑する額を天鵞絨の中に包む。
 コズメチツクは解けて眼に入りたれば直に従僕を呼びたり。
 脳髄はチキンカツレツに向つて永遠に戦慄する。やがて又我が頭部を杏子をもつてたゝくものあり。花瓶の表面にうつるものがある。それは夕餐より帰りしピートロの踵。我これを憐みをもつてみんとすれどもあまりにアマラントの眼である。
 来たらんか、火よ。

(昭和2年=1927年12月・同人誌「馥郁タル火夫ヨ」序文)


 今回の「馥郁タル火夫」は西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が西脇教授を慕う慶應大学の学生の創刊した同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」の序文として書き下ろした詩篇で、のちに前半が「LE MONDE ANCIEN」(古代世界)、後半が「LE MONDE MODERNE」(現代世界)に分かれた西脇順三郎の日本語の第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月刊)の後半をなす「LE MONDE MODERNE」の巻頭に置かれて収録されました。西脇順三郎は英文学科教授でしたが英語、フランス語、イタリア語、ラテン語ギリシャ語、古代支那語にも堪能だったので、学科を問わず慶應大学学生とその関係の青年詩人たちに最新の文学思潮の教示を請われていたのです。1号で終わった同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」は特にフランス象徴詩~現代シュルレアリスム詩に傾倒している青年詩人たちの集まりでした。西脇は同人詩誌名を求められて「馥郁タル火夫ヨ」と提案し、序文を請われて自動手記的なシュルレアリスム詩の見本みたいなものでいいかと確かめ、翌日にはこの「シュルレアリスム詩の見本」を書き上げてきたそうです。昭和2年に日本の現代詩がどんなものだったかはこれまでにさまざまな詩人の詩をご紹介してきましたが、この同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」序文改め「馥郁タル火夫」(詩集『Ambarvalia』収録の際に改題)は日本語の破壊と再構築の度合いでは空前のものと言ってよく、口語脈と文語脈が無遠慮に混淆されてもいればギリシャ文学、ローマ文学、ルネッサンス文学から容赦なく固有名詞が引用され(「僧正ベンボー」も実在のルネッサンス文学者名です)、かと思えば「何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。」とは当時の実際の慶應大学敷地内での情景だそうです。しかしそれは内輪受けの冗談を狙ったものにとどまらず着想の諧謔の効果のためであり、「脳髄はチキンカツレツに向つて永遠に戦慄する。」という絶妙のクライマックスに向かってユーモアがとぐろを巻いていきます。そしてこの序文詩はタイトル通り「来たらんか、火よ。」と火夫の呼びかけで終わるので、自動手記どころか見事な一貫性と完成度を達成しています。この詩篇ものちに西脇順三郎自身による引用箇所の解題や註釈がありますが、わからないならわからないまま修辞のスパイラルに巻きこまれればいいので、西脇順三郎の詩は読者の理解度を顧慮しない底抜けのユーモアに満ちあるふれたものです。この機関銃のようなギャグの連発に馴れてくれば、「馥郁タル火夫」は語感の連想でたたみかけてくるリズムに面白さのある詩というのがわかります。それは今日の日本語ラップの比ではない革新的なものだったのです。