人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

永井荷風訳ランボー詩集

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実は筆者は荷風には心酔していた時期もあればすっかり興醒めしていた時期もあり、現在は全体的な評価は留保したい気持でいる。荷風の文体の現代性はかなり偶然で、当時の小説家としてはかなり粗雑と言ってよく、それがかえって荷風の文体を長持ちするものにした。だからそれは弟子の谷崎潤一郎のように「名文の長持ち」とは違う。
荷風の文語は当時としては露骨な悪文だか、装飾が少ない分かえって現代でも詩として読めるものになっている。ボードレールをはじめとする荷風の訳詩が見識を感じさせるゆえんがそこにある。当時の末期新体詩とも、端緒についたばかりの口語自由詩とも異なる斬新で明晰な文体は荷風の抜群な言語感覚とフランス詩理解を語るものだ。
訳詩集「珊瑚集」は冒頭からボードレール7篇、ランボー1篇、ヴェルレーヌ7篇と続く。マラルメがないが、これは上田敏堀口大學ももて余したくらいだから仕方ない。荷風が唯一選んだランボーがこの詩篇なのは論議を呼んできた。

『そぞろあるき』
アルチュウル・ランボオ
永井荷風

蒼き夏の夜や、
麦の香に酔ひ野草をふみて
小みちを行かば、
心はゆめみ、我足さわやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴みすべし。
われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛、
魂の底に湧出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
(「珊瑚集」1913より)

ランボー(1854-1891)は少年時代から詩作を始め、20歳で「地獄の季節」「イルミナシオン」の2大詩集を残して詩作と決別、37歳の急逝まで地中海で武器商人となった。荷風が選んだのは初々しい少年詩人の頃の作品で、あまり重視されない1篇でもある。
この訳詩も初々しさを伝えてあまりある。ボードレールにもヴェルレーヌマラルメにもこんな可愛い詩はない。そこだ。
1980年代はちょっとした荷風リヴァイヴァルで、大物批評家の江藤淳磯田光一、小説家・野口冨士男荷風論が刊行されたが、異色の一冊に詩人・飯島耕一の「永井荷風論」1982がある。荷風を、もっと広い感受性を持った作家と考えられないか、と問いかけた一冊だった。