人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蒲原有明詩集『有明集』(明治41年=1908年)より

(蒲原有明<明治8年=1875年生~昭和27年=1952年没>)
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智慧の相者は我を見て


智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。

噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、――
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。

眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、

その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、――
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。

(「文章世界」明治40年6月発表)

月しろ


淀(よど)み流れぬわが胸に憂(うれ)ひ惱みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黄昏(たそがれ)の影をやどせる
池水(いけみづ)に映るは暗き古宮(ふるみや)か。

石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、
沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。

花の思ひをさながらの祷(いのり)の言葉、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世ならざる縁(えにし)こそ不思議のちから、

追憶(おもひで)の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘(なごり)の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。

(「文庫」明治40年6月発表・初出題名「月魂(つきしろ)」)

茉莉花


咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映(うつ)る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎ぬえ嬌なまめけるその匂ひ。

魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、――君が腕(かひな)に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。

また或宵は君見えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の
衣(きぬ)ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、

茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほほゑみ)はわがの痍(きず)を
もとめ來て沁(し)みて薫(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。

(「新思潮」明治40年10月発表)


 蒲原 有明(かんばら ありあけ・明治8年=1875年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)は、東京麹町(現在の千代田区)生まれの日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。イギリスのロマン派詩人D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として明治30年代の新体詩(文語自由詩)の代表的な詩人となり、第1詩集『草わかば』1902(明治35年)、第2詩集『獨弦哀歌』1903(明治36年)、第3詩集『春鳥集』1905(明治38年)の3詩集は森鴎外の激賞を受けました。ですが最大の達成を示した第4詩集『有明集』1908(明治41年)は技巧の難解さから、口語自由詩運動に移っていた当時の新進詩人たちから一斉に批判され、私生活の問題もあって作品発表は激減してしまいます。改訂版全詩集に新作詩集を加えた『有明詩集』1922(大正11年)以降は旧作の改作に没頭し、改訂版選詩集『有明詩抄』1928(昭和3年)、『蒲原有明詩集』1935(昭和10年)、『定本春鳥集』1947(昭和22年)、『有明全詩抄』1950(昭和25年)に至るまで自作の改作を続けました。1952年(昭和27年)に『有明詩集』以来初めて全詩集の初版内容を復刻した『蒲原有明全詩集』の刊行を許可しましたが、同年、同書の校了前に77歳で逝去しました。萩原朔太郎が終生、有明を明治最高の革新的詩人としてその後継者を自負していたことでも知られています。

 今回は『有明集』全48編・訳詩4編から、詩集巻頭の連作ソネット(14行詩)「豹の血」8篇中、傑作と名高い3篇をご紹介しました。テキストは後年の改稿によらず、『有明集』初版によりました。非常に難解な印象を受けるかもしれませんが「智慧の相者は我を見て」は幻覚下での自問自答の詩、「月しろ」と「茉莉花」は恋愛詩、特に「茉莉花」は今で言う風俗店通いを詠った詩です。この店が阿片窟を兼ねていたことも暗示されており、熱愛する芸妓との薄情で刹那的な愛を頽廃的に格調高い文語詩に詠い上げたアクロバット的な技巧の詩で、文語詩ならではの音韻の豊かさ、余韻の深さでは明治の文語現代詩の究極に達したものでした。「月しろ」の第2連の2行、「石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、/沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、」の、「i」音の連続によって凄まじい崩壊感を示す重韻は天才の言語感覚です。この完成度の高さをつき崩すように有明の次の世代の詩人からは口語自由詩の運動が始まったので、有明の詩は日本語実験の究極の達成とともに時代から見捨てられたのです。そうした意味で有明の詩集、特に『春鳥集』と『有明集』は空前絶後の位置を日本の現代詩の中に占めています。

ロックな「冬の散歩道」

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サイモン&ガーファンクル Simon & Garfunkel - 冬の散歩道 A Hazy Shade of Winter (Paul Simon) (Colubia, October 1966) : https://youtu.be/coKMcGqGnPY

 この曲はサイモン&ガーファンクルのサード・アルバム『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム(Parsley, Sage, Rosemary and Thyme)』制作中のセッションで録音され、同アルバムには収録されずシングル独自の楽曲として1966年10月24日に同アルバムと同時発売されたものです。『パセリ・セージ~』は全米アルバム・チャート最高位4位のヒット作になりましたが「冬の散歩道」はシングル・チャート最高位13位にとどまり、『パセリ・セージ~』収録の代表曲「スカボロー・フェア/詠唱(Scarborough Fair/Canticle)」「早く家へ帰りたい(Homeward Bound)」「59番街橋の歌 (フィーリン・グルーヴィー)(The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」「エミリー・エミリー(For Emily, Whenever I May Find Her)」などの方が高い人気を博しました。サイモン&ガーファンクルは次作の映画サウンドトラック・アルバム『卒業-オリジナル・サウンドトラック(The Graduate)』(Colubia, February 1968)を全米アルバム・チャート最高位1位に送りこんだあと、本格的な第四作目のアルバム『ブックエンド(Bookends)』(Colubia, April 1968)を発表、「冬の散歩道」は『卒業-オリジナル・サウンドトラック』収録曲「ミセス・ロビンソン(Mrs. Robinson)」の再録音ヴァージョンとともに『ブックエンド』に収録されました。全米アルバム・チャートでは『卒業-オリジナル・サウンドトラック』の1位を『ブックエンド』が引き継ぐ形で連続7週間の1位になり、また『ブックエンド』はサイモン&ガーファンクル初のイギリスでのNo.1ヒット・アルバムになっています。

 この曲は日本でもCMやドラマ挿入歌(実質的に主題歌)、ザ・バングルスによる1987年のカヴァーの大ヒット(全米2位)などでのちに初発売時を上回るサイモン&ガーファンクルの人気曲になりましたが、サイモン&ガーファンクルといえば美しいメロディーの楽曲、美声のコーラスのフォーク・ロック(しかもボブ・ディランに代表される反体制派ではない、内省的な作風)で抒情的かつ上品なイメージがあり、英米ロックなどビートルズストーンズでもうるさい曲は嫌、という女子中学生・女子高校生のファンが根強くついていたものです。それでなかなか気がつかないのですが、「冬の散歩道」は12弦ギターのリフや頭打ちのリズムに顕著なようにモータウンのアーティストに典型的な'60年代のR&Bのアレンジとリズムをアイディアとした楽曲であり、楽器の音色やニュアンス次第ではもっとハードなR&B系ロック曲になってもおかしくありません。フォー・トップスの「Reach Out I'll Be There」やローリング・ストーンズの「Satisfaction」とリズム構造は同じで、四つ打ちで頭打ちするドラムスはまったく同じです。

 そのようにこの「冬の散歩道」は、もともとアルドン系ソングライターを目指していたというポール・サイモンの職人芸的な作曲が光る楽曲です。黒人音楽を下敷きにしたロックの正統的な発想をしっかり踏まえています。サイモンはのちにアメリカのポップス界ではいち早くレゲエを導入し、'80年代にはアフロ・ビートに着目したワールド・ミュージック指向で大成功を収めますが、黒っぽさのまるでない洗練されたポップスの次元でR&B、フォルクローレ、レゲエ、ワールド・ミュージックをまったく実験性を感じさせず白人ポップスになじませてしまうというのがユダヤ系白人ミュージシャン、サイモンの職人芸でもあれば、種を明かせば非白人音楽の漂白化ではないかと批判されるゆえんにもなっています。ともあれ「冬の散歩道」が初リリース当初よりも年を経るごとに人気曲になったのは曲想とリズム構造にR&Bからの巧妙な換骨奪胎があったからであり、サイモンの才気の大勝利を認めずにはいられません。こういうところがちょっと鼻につく、小憎らしい、ちょこざいなという気もしないではありませんが、サイモンほどの達者さでこれをやってのけたミュージシャンはいないと思うとお手上げするしかないではありませんか。

サン・ラ Sun Ra and His Space Arkestra - ホワット・プラネット・イズ・ディス What Planet is This? (Leo, 2006)

サン・ラ - ホワット・プラネット・イズ・ディス (Leo, 2006)

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サン・ラ Sun Ra and His Space Arkestra - ホワット・プラネット・イズ・ディス What Planet is This? (Leo, 2006) : https://youtu.be/StUnGZ_whX8
Recorded live in New York, July 6, 1973
Originally Released by Leo/Golden Years of New Jazz, GY 24/25 (2CD), 2006
Also Released by Vinyl Lovers 900632 (2LP), Russia, 2009
All written & arranged by Sun Ra, expect as noted.
(CD1)
1-1. Untitled Improvisation - 5:30
1-2. Astro Black - 3:04
1-3. Discipline 27 - 7:29
1-4. Untitled Improvisation - 28:18
1-5. Space is the Place - 10:27
1-6. Enlightenment (Sun Ra, Dotson) - 3:39
1-7. Love in Outer Space - 10:29
(CD 2)
2-1. The Shadow World - 20:42
2-2. Watusa, Egyptian March - 8:54
2-3. Discipline 27-II (incl. What Planet is This? / The Universe Sent me to Converse with You / My Brother the Sun) - 17:39
Total Time 1:56:16

[ Sun Ra and His Space Arkestra ]

Sun Ra - piano, mini-moog, organ, declamation
John Gilmore - tenor sax, percussion, voice
Marshall Allen - alto sax, oboe, flute, percussion, cowbell, voice
Danny Davis - alto sax, flute, percussion, voice
Larry Northington - alto sax, percussion, voice
Eloe Omoe - bass clarinet, bassoon, percussion, voice
Danny Ray Thompson - baritone sax, flute, percussion, voice
Pat Laurdine Patrick - baritone sax, oboe, voice
James Jacson - bassoon, flute, percussion, voice
Akh Tal Ebah - trumpet, fluegelhorn, megaphone, percussion, voice
Kwame Hadi - trumpet, percussion, voice
Dick Griffin, Charles Stephens - trombone, percussion, voice
Hakim Jami - tuba, percussion
Alzo Wright - cello, percussion
Ronnie Boykins - bass
Lex Humphries, Aye Aton - drums
Atakatune - congas, tympani
Odun - congas
Harry Richards - percussion
June Tyson - voice, declamation, percussion, dance
Judith Holton, Ruth Wright, Cheryl Banks - voice, dance

(Original Leo "What Planet is This?" CD Inner Sheet, Liner Cover & Dlsc 1 Label)
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 21人編成のサン・ラ・アーケストラに歌姫ジューン・タイソンを含む4人の女性コーラス&ダンサー隊で行われた本作のコンサートは1973年7月6日のニューヨークというだけで会場不明のようですが、ライヴ収録後33年経った発掘盤としてはなかなかの内容を誇るものです。セットリストも前1972年録音、1973年発売の最新作『Astro Black』のアルバム・タイトル曲を「Saturnian Queen」タイソン妃がアカペラで歌うわくわくするような1曲目から始まり、『Astro Black』同様前1972年録音、1973年発売の最新スタジオ盤『Discipline 27-II』『Space is the Place』からの代表曲に、1971年のライヴ名盤『世界の終焉』に含まれた1966年の名盤『Magic City』からの「The Shadow World」、「Watusa」、この時期のライヴ定番曲「Love in Outer Space」にアーケストラ'50年代最初期からのアンセム的ヴォーカル曲「Enlightenment」もタイソンのリード・ヴォーカルでメンバー全員がコーラスとパーカッションに回って演っている、さらにライヴならではの長尺集団即興曲、パーカッション・アンサンブルも聴ける、と申し分ない選曲と、1973年当時のゴスペル・ファンク色の強い最新アレンジ~サウンドに統一されたアーケストラが聴けます。

 会場(ライヴ主催者)側の録音か、サン・ラ側の録音か不明ですが、主催者側録音だったら会場は判明していたでしょうから観客入りのラジオ放送用ライヴか、サン・ラの自主制作レーベル、サターン用にバンド自身がリリース候補の予備録音をしていたのではないかと思われる、後からミキシングし直したとは思えないバランスのミックスですが、オーディエンス・エアーを抑えてミキサー卓からのサウンドボード録音と推測されるクリアな音質ながら緊張感と臨場感をくっきり捉えた、即時発売されていたらこれもサン・ラの代表的なライヴ名盤に数えられたに違いない見事な発掘ライヴです。

 1-4「Untitled Improvisation」ではサン・ラの暴走する無伴奏シンセサイザー・ソロから雪崩れこむ天才バリトンサックス奏者パット・パトリックのソロやトランペット奏者アカー・タル・エバーのメガフォン・ヴォイス・パフォーマンスも聴け、ベースとドラムスも'60年代アーケストラを支えた豪腕ベーシストのロニー・ボイキンス、重鎮レックス・ハンフリーズとひさびさに'60年代後半のアーケストラを躍進させたかつての中心メンバーが揃っています。特にボイキンスがレギュラーから外れて臨時参加のファミリー・メンバーになってからは、サン・ラのオルガンかサックス陣の強化によるベースレス編成か、パット・パトリックがやむなくエレクトリック・ベースに廻るスタジオ録音やライヴも多かったので、ボイキンスの復帰(とハンフリーズとの強力なコンビネーション)だけでもバンドの音がぐっと締まり、軽やかでありながら重心は低いサウンドの安定感があります。

 おそらくサン・ラとサン・ラ・アーケストラにとっては本作程度の水準のライヴは日常茶飯事で、このくらいならいつでも演れるという自信があってこそ本作もお蔵入りになっていたマスターテープだったのでしょう。実際サン・ラ没後に発掘発売された未発表ライヴ盤は録音状態こそまちまち、未編集による冗長さこそ玉に瑕でこそあれ、ほとんどが本作で聴ける水準に達しています。'70年代~'80年代のサン・ラは50代後半~70代にもなっていたのですが、年間4枚~8枚のアルバム制作・発売は当たり前だったので、本作も発表の時期を逃した1作ということでしょう。さらに生前お蔵入りになったスタジオ録音盤も多く、それらも十分に発表されるだけの内容を誇ります。本作もサン・ラにとってはルーティン・ワークだったでしょうが、並みのミュージシャンにとっては一世一代のパフォーマンスと呼べるほどのアルバムです。まだまだサン・ラには本作と同等以上の未発表音源が埋蔵されていて、毎年のように発掘発売されていると思うと、あまりの無尽蔵な創作力について行けない思いがするほどです。

蒲原有明『春鳥集』明治38年(1905年)より

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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日のおちぼ


日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、
殘りたる、誰(たれ)か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段(きざはし)を、
月の宮――にほひの奧を、
かくて將(は)た蹈(ふ)めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。

過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて
音もなく滅えてはゆけど、
やしなひのこれやその露、
美稻(うましね)のたねにこそあれ、――
そを棄てて運命(さだめ)の啓示(さとし)、
星領(し)らす鑰(かぎ)を得むとか。

えしれざる刹那(せつな)のゆくへ
いづこぞと誰か定めむ、
犧牲(にへ)の身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
底ふかく黒暗(くらやみ)とざし、
ひとつ火(び)の影にも遇はじ。
痛きかな、これをおもへば
古夢(ふるゆめ)の痍(きず)こそ消えね、
永劫(とことは)よ、脊に負ふつばさ、
彩羽(あやは)もてしばしは掩(おほ)へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫(しづく)むすばむ。

(初出・明治37年=1904年1月「新聲」)

魂の夜


午後四時まへ――黄(き)なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代(ちかつよ)の
榮(さかえ)の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生(せい)の戸も。

かくてぞいやはてに
あき人(びと)、負債(おひめ)ある
身の、足たづたづと
出でゆくそびらより、
黄金(こがね)の音走り
傳へぬ、こは虚(むな)し、
きらめく富(とみ)のうた、
惱みの岸嘲(あざ)み
輝く波のこゑ。

見よ、籍册(ほさつ)の金字(きんじ)――
星なり、運命の
卷々(まき/\)音もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償(つぐな)ふたよりなさ、
囚獄(ひとや)の暗やみふかき
死しの墟(つか)、――いかならむ、
嗚呼、その魂(たま)の夜よる。

(初出・明治38年=1905年3月「精華」)

誰かは心伏せざる


煙は鈍(にば)む日に、
映(うつ)りて、くらきむらさき、
ながれぬ、霜の壓(お)す
弓かとひくく撓(たわ)みぬ。

悶(もだ)ゆるけぶり、世の
底なるいぶきか壞(く)ゑくゑ
うづまき去るかなた、
ねびてぞ墜つる日黄(き)なる。

夕ぞらよどむとき、
靜かに、重おもし、すさまじ、
巷(ちまた)を空(むな)ぐるま
まろびてゆくに似たらず。

見よ、今煤すすばめる
「工廠(こうしやう)」いくむねどよみ、
その脊(せ)をめぐらすや
いさ、かの天(あめ)の耀光(えうくわう)。

聖なるちからには
后土(おほつち)とどろき、蒸して
騰(あが)れるゆげには
うるはし花こそこもれ。――

かからむ花はまた
世になし、ひらめくひかり
遽(には)かに窓を洩れ、
強き香(か)照らす束のま。

鳥啼(な)く――ああ鐵槌(つち)の
ひびきよ、かぎろひけぶる
ただなか、戰(たたかひ)の
胸肉(むなじし)刻む聲なり。

誰かはこのほとり
ゆく時こころ伏せざる、――
痍(きず)にか、身に逼(せま)る
道にか、高き御名(みな)にか。

(初出原題「工廠」・明治37年12月「婦人界」、以上3篇詩集『春鳥集』明治38年7月より)


 蒲原有明(1876-1952)の第3詩集『春鳥集』は日本初の象徴主義詩集と名高い作品集ですが、詩集中でももっとも毀誉褒貶を生んだ詩篇「朝なり」に見られる通り自然主義的な題材を多く含む詩集でもあります。詩集巻頭詩「日のおちぼ」は第4詩集『有明集』に連なる内省的抒情詩の形態をとった象徴主義詩ですが、この詩の五七調の柔軟さは藤村、晩翠らやや年長の詩人、また有明のライヴァル的存在だった薄田泣菫の七五調中心の韻律よりも口語自由詩に近い発想によるもので、「日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、/殘りたる、誰(たれ)か味ひ、/こぼれたる、誰かひろひし、/かくて世は過ぎてもゆくか。」は有明の詩としてはもっとも平易な語彙と修辞によって優れた音楽性を実現しています。萩原朔太郎は手酌で一杯やりながら「有明はいいな」と有明の詩を愛唱してやまなかったと伝えられますが、師事した白秋以上に有明の詩から萩原朔太郎の詩に直接流れこんだのがこうした有明の詩の音楽性なのは間違いなく、「日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、/殘りたる、誰(たれ)か味ひ、」で効いている「i」音の母音韻への鋭さは有明や萩原のような詩人ならではのものです。

 他方『春鳥集』は「朝なり」系統の自然主義象徴詩も含んでいて、夕方から閉店後の夜にかけての銀行を詠った「魂の夜」、やはり夕方から夜のとばりが下りる工場を詠った「誰かは心伏せざる」は具体的な銀行の情景、工場の情景を叙述しながらそれらが詩人の心象風景に転じていく過程を作品化したものです。この2篇は自然主義詩としては「朝なり」よりも対象の把握力のあいまいさによって弱く、また心象風景から象徴詩に展開する必然も弱く、必ずしも成功作とは見なせない、あと一歩のところで焦点を欠いた印象を受ける詩です。「朝なり」がいかに際どいところで成功作になっていたかを思わせる仕上がりで、それは朝の用水路の情景の自然さと銀行、工場といった意欲的ながら作為的な題材の差にもよるでしょう。有明は麹町(千代田区)生まれの都会人でしたが、岡山生まれの泣菫、また長崎生まれの北原白秋兵庫県生まれの三木露風がこなしたような都会的感覚にかけては生まれながらに都会になじんていたようなところがあり、群馬県生まれの萩原朔太郎が想像力の中で都会に焦がれたような熱っぽさよりも水道橋の陸軍工場(現東京ドーム)脇の用水路や銀行、工場といった題材に距離をつかみかねていたと思えるような隔靴掻痒さが残ります。「朝なり」では日常的な用水路の溝水にたまたま上手く鬱積した気分が合致さたのですが、「魂の夜」「誰かは心伏せざる」ではまずテーマありきでそれなりに形をなしたものの、有明自身の心象は題材と必ずしも一致しなかった観があり、結果的にこれらの詩は白秋、露風、また萩原朔太郎らの都会情景の詩の先駆をなしはしたものの、有明の詩としては消化不良気味な意欲作にとどまります。まだ都市をテーマにするには日本の明治の詩は勇み足だったと言うべきで、泣菫は賢明にも多層的な抒情詩の場合は古代や中世、近世と現代との重ね合わせによって「公孫樹下にたちて」や「ああ大和にしあらしかば」「望郷の歌」のように地誌的想像力によって近代的な都市感覚を巧妙に避けたロマン主義詩に力量を発揮していました。有明の本領は「日のおちぼ」のようなより抽象的な心象詩にあり、第4詩集『有明集』で詩集の中心となるのは「日のおちぼ」の延長線上にある幻視者的想像力を働かせた抒情詩です。しかし成功しなかった作品にもその実験性によって働く魅力があり、「朝なり」「魂の夜」「誰かは心伏せざる」の系統によって有明の詩が十全な発展を見せていたらと思わせられもするので、のちの白秋の詩集や萩原朔太郎の詩集には有明の詩では可能性にとどまっていた一面の実現が確かにあることから、有明の試みには十分予見的な働きがあったと認められるものでしょう。また有明は生涯自作の改訂を続けた詩人でしたが、実験的な作品ほど後年の全詩集・選詩集では改訂の度合いも大きくなっています。何よりも有明自身が自作に満足していなかったのが改作過程からはうかがわれ、特に詩集『春鳥集』は数次に渡って全面的に改作を重ねられています。そのあたりも有明という詩人の特異な性格を示すだけに、軽々と結論を出すのがためらわれるのです。

裸のラリーズ Les Rallizes Denudes - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー Heavier Than A Death In The Family (Ain't Group Sounds, 1995)

裸のラリーズ - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー (Ain't Group Sounds, 1995)

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裸のラリーズ Les Rallizes Denudes - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー Heavier Than A Death In The Family (Ain't Group Sounds, 1995) : https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nkEgwujzjAPfnoycWHv2W0748II9V3Z0k
Recorded 'le 12 mars 1977 a Tachikawa' (立川市民教育会館).
Expect Track 5 recorded live in 1973, unknown place, unknown date.
Compilation released by Ain't Group Sounds (2LP, 1CD) # AGS-1, 1995
Reissued by Phoenix Records UK, ASHCD3037, 2010
Originally Released (expect track 5) as the album "'77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version" Private Press, Rivista Inc. SIXE-0400, August 15, 1991 (expect C2: Track 5)
All Songs written by Takashi Mizutani
Arranged by Les Rallizes Denudes
(Side 1)
A1(Track 1). 夜より深く Strung Out Deeper Than The Night - 15:32
(Side 2)
B1(Track 2). 夜の収穫者たち The Night Collectors - 8:30
B2(Track 3). 夜、暗殺者の夜 Night of The Assassins - 12:04
(Side 3)
C1(Track 4). ENTER THE MIRROR Enter The Mirror - 11:30
C2(Track 5). 造花の原野 People Can Choose - 10:34
(Side 4)
D1(Track 6). 氷の炎 Ice Fire - 16:12

[ 裸のラリーズ Les Rallizes Denudes ]

Mizutani (水谷孝) - Lead Guitar, Vocals
Nakamura Takeshi (中村武司) - Electric Guitar (expect C2)
Hiroshi (楢崎裕史) - Bass (expect C2)
Mimaki Toshirou (三巻俊郎) - Drums (expect C2)
Track C2 were second guitar, bass, drums unknown.

(Compilation Ain't Group Sounds "Heavier Than A Death In The Family" LP Inner Cover & Liner Cover)
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 本作は120枚を越える裸のラリーズのアルバム中もっとも入手しやすい輸入盤のロングセラーになっており、ジュリアン・コープの日本のロック研究書『ジャップロック・サンプラー(Japrock Sampler)』2007では「ジャップロック・トップ50」のうち1位のフラワー・トラベリン・バンド『SATORI』(Atlantic, 1971)、2位のスピード・グルー&シンキ『イヴ-前夜-』(Atlantic, 1971)に次ぐ日本のロック名盤3位に上げられており、現在では世界的に日本のロックならではの古典的傑作として欧米リスナーからも絶大な人気を誇るアルバムです。コープの「ジャップロック」名盤リストは4位がファー・イースト・ファミリー・バンド『多元宇宙への旅』'76、5位がJ・A・シーザー『国境巡礼歌』'73、6位がLOVE LIVE LIFE + ONE『Love Will Make A Better You』'71、7位が佐藤允彦サウンドブレーカーズ『恍惚の昭和元禄』'71、8位が芸能山城組『恐山』'76、9位が小杉武久『キャッチ・ウェイブ』'75、10位がJ・A・シーザー邪宗門』'72で、11位がファーラウト『日本人』'73、12位が裸のラリーズ『Blind Baby Has Its Mothers Eyes』2003、13位が東京キッドブラザース『書を捨てよ街へ出よう』'71、14位がファー・イースト・ファミリー・バンド『NIPPONJIN』'75、15位がスピード・グルー&シンキ『スピード・グルー&シンキ』'72とコープの独断的趣味による偏向したものですが、ジュリアン・コープによる『ジャップロック・サンプラー』の影響は大きく、21世紀の欧米諸国のクラシック・ロック・リスナーの嗜好に一致したために、同書のコープの評価が指標になって輸入盤がリリースされロングセラーを続けるという事態になっています。

 本作は1991年にバンド自身による初のフルアルバムの公式リリースとなった『'67-'69 STUDIO et LIVE』、『MIZUTANI '70』『77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』の3作からもっとも評価の高い『77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』の収録曲を1枚のCD(LPでは2枚組)に収めるために曲目を組み替えて再収録したもので、タイトルは伝説的アメリカ作家ジェームズ・エイジー唯一の長編小説『家族の中の死(Death in The Family)』から採ったものでしょう。2枚組CD『'77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』では、

(Disc One)
1-1. Enter The Mirror - 11:30
1-2. 夜、暗殺者の夜 - 12:04
1-3. 氷の炎 - 16:12
1-4. 記憶は遠い - 11:35
(Disc Two)
2-1. 夜より深く - 15:32
2-2. 夜の収穫者たち - 8:30
2-3. The Last One - 25:24

 という収録曲のうち、1-4「記憶は遠い」と2-3「The Last One」を削り、Side C2(Track 5)に1973年のライヴ音源から「造花の原野(People Can Choose)」を足したものです。「造花の原野」は公式リリースの3作には収録されておらず、本作に採られたのは同曲のもっとも早い時期のライヴ音源で、のちにこの曲はぐっとbpmを落としたダウナーなヴァージョンにアレンジされますが、初演に近いこの1973年の音源ではホークウィンド1971年のアルバム『宇宙の探求(In Search of Space)』収録曲「Masters of The Universe」を原型としたとはっきりわかるアレンジで演奏されており、この名演を収録して「夜より深く」と長大な「The Last One」をオミットして曲順を組み替えたことで、本作収録中5曲は『'77 Live』から採りながら異なる印象のアルバム、スタジオ盤に近い性格の作品性の高いアルバムになっているのが、入手のしやすさも含めて本作を2CDの『'77 Live』よりも1枚のCDに凝縮して完成度の高い作品として人気を誇っている理由でしょう。「夜、暗殺者の夜」がリトル・ペギー・マーチの「I Will Follow Him」、さらにそれをパロディにしたアモン・デュールIIの1972年のアルバム『バビロンの祭り(Carnival in Babylon)』収録曲「Hawknose Harlequin」(これはメンバーがかけもちしていたホークウィンドに捧げた曲でもあります)から発想された曲なのも明瞭であり、アモン・デュールII(西ドイツ)~ホークウィンド(イギリス)~裸のラリーズ(日本)とアイディアのバトンが渡されたのを示す選曲にもなっています。

 そんな具合に、本作はバンド黙認のコンピレーション兼再リリースのアルバムながら、1967年の結成から1998年の活動停止まで、30年間に3作の公式アルバム(それもようやく1991年になって旧録音を、同時に自主制作盤の限定発売で!)しか残さなかった日本のアンダーグラウンド・ロックを代表するバンド、しかも欧米諸国では(日本のリスナーにさえも)伝説的なサイケデリック・ギター最大のバンドとされている裸のラリーズの、意図せずして代表作となったアルバムです。バンド側では一切関知せず、著作権登録がされていないために勝手に編集されたアルバムが代表作となるという事態はラリーズ以外のバンドには考えられません。ザ・ドアーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジャックス、13thフロア・エレベーターズやスーサイド、クロームに匹敵するモンスター級のサイケデリック・バンド、さらにカンの『Monster Movie』'69、アモン・デュール『Psychedelic Underground』'69、タンジェリン・ドリーム『Electronic Meditation』'70、アモン・デュールII『Yeti』'70、グル・グル『UFO』'70、アシュ・ラ・テンペルAsh Ra Tempel』'71と並ぶアシッド・ロック史上に燦然と輝くアルバムです。裸のラリーズ水谷孝氏のレッドゾーンを振り切ったギター、他のバンドではまず考えられない、地の底からささやきかけてくるようなヴォーカルをぜひご体験ください。

降る雪やプロコル・ハルムの「青い影」

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プロコル・ハルム Procol Harum - 青い影 A Winte Shade Of Pale (Deram/, May 1967) : https://youtu.be/z0vCwGUZe1I

 下七五が決まった俳句でもっとも有名なものには中村草田男(1901-1983)の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年=1931年)がありますが、一転して「バンド名込みで上五をつければ俳句になるタイトル」として冗談のネタにされるのが1967年イギリスのNo.1ヒット(全米最高位5位、ヨーロッパ諸国・南米のほとんどでトップ3ヒット)、「プロコル・ハルムの『青い影』」でございます。特に'60年代ポップスに興味などない方でも何らかの機会にお聴きになったことがあるでしょう。日本でもユーロビート以前のディスコ(死語に近いですが)ではチーク・タイム(これも死語)の定番曲だったそうで、有名曲で誰でも知ってるのに歌メロはR&Bなのでタイトルの部分しか歌えないことでも有名な曲です。ちなみに「青い影」とは名邦題で、「Shade Of Pale」とはかすれた影、おぼろげな影、うっすらとした影というのが正確だそうですから「青い影」と決めたのは日本のレコード会社のセンスでした。もっともプロコル・ハルムに先立って日本の誇るブルー・コメッツが「青い瞳」「ブルー・シャトウ」を始めとする、バンド名にひっかけた「青い」シリーズを連発していたので、いかにも'60年代ポップス界らしい邦題のつけ方という気もします。またタイトル通りこれは冬の憂鬱を歌った曲で、ジョン・レノンが「生涯でベスト3に入る好きな曲」とまで発言したこと(ジョンのことだから後で撤回したかもしれませんが)でも知られます。

 歌メロがトーキング・ブルース調の「歌えない」ものなのにキャッチャーで大ヒットしたのは特徴的なオルガンで、これはオルガン奏者のマシュー・フィッシャーがバッハの『管弦楽組曲第3番「G線上のアリア」』から引用したものでした。18世紀初頭の曲ですから著作権上の問題はありません。プロコル・ハルムはこの曲がデビュー曲で、同年デビューのピンク・フロイドやザ・ナイス、メンバー・チェンジして再デビューのムーディー・ブルースと並んでイギリスのサイケデリック・ロックプログレッシヴ・ロックの開祖とされることになりました。ただしプロコル・ハルムの場合はリード・ヴォーカルでピアノ、作曲を手がけるゲイリー・ブルッカーと専属作詞家のキース・リードのみが発足当時のメンバーで、セッション・メンバーのオルガン奏者マシュー・フィッシャーはこの曲が大ヒットしたことから正式にメンバーに加わり(のちに脱退)、アルバム制作が始まってからメンバーが招集された「作られたバンド」でした。日本でも渋好みのファンの多いバンドでしたが、日本公演の際にブルッカーがMCで「日本人には歌詞などわかるまい!」と発言したことから嫌いになったファンも多いと言われます。

 バッハのフーガの引用は他のバンドにも「クラシック楽曲の引用」として影響を与え、のちにフィッシャーとブルッカーの間でどちらがこのアイディアを出したか著作権訴訟にもなりましたが、「青い影」など誰がやっても同じとインストルメンタル・ヴァージョンでこの曲のパロディをやったのが、ブリティッシュ・ロック界きってのドラマー、ジョン・ハイズマンの結成したジャズ・ロック・バンド「コロシアム」のデビュー・アルバムに収録されています。もちろんコロシアムのオリジナル曲としてです。それがこれ、タイトルからして「青い影」をおちょくった「ビーウェア・ザ・アイデス・オブ・マーチ(Beware the Idea of March)」です。
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コロシアム Colosseum - ビーウェア・ザ・アイデス・オブ・マーチ Beware the Idea of March (From the album "Those Who Are About to Die Salute You", Fontana, May 1969) : https://youtu.be/Hj-eRjEMVwk

 しかし「青い影」を下敷きにした曲で、はっきり「青い影」を元ネタにしたとわかりながら、美しいメロディーと歌詞で日本語ロックの名曲となったのはザ・ハプニングス・フォーのデビュー曲「あなたが欲しい」でしょう。もともと博多のジャズ・クラブのピアノ・トリオがグループ・サウンズ・ブームに乗ってヴォーカリストを入れてロック化したというギターレスのキーボード・バンドですが、作詞作曲編曲を手がけるキーボード奏者・クニ河内氏の才能とぺぺ吉弘・チト河内氏の優れたベースとドラムス、バンドボーイから抜擢されたというトメ北川さんのソウルフルなヴォーカルで、「青い影」を下敷きにしながら独自の立派な日本語ロックの創造に成功したこの名曲は、「青い影」のリリースからわずか半年で日本からプロコル・ハルムに応えたアンサー・ソングでもあり、昭和42年(1967年)にこんな日本のロックがあったという歴史的な楽曲です。ロック・バンドでありながらギターレス・トリオという楽器編成はザ・ナイスより先駆けています。「青い影」から2年後のコロシアムのパロディよりもはるかに優れたこの曲を、ぜひお聴きください。なお'60年代ポップスの冬の曲といえばサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道(A Hazy Shade of Winter)」(1966年10月)も落とせませんが、それはまた今度。
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ザ・ハプニングス・フォー - あなたが欲しい (東芝Express/Capitol, November 1967) : https://youtu.be/hIQd3dX6dVA

蒲原有明詩集『獨弦哀歌』明治36年(1903年)より

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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あだならまし


道なき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途みち倦みて行くによるか。
星影夜天(やてん)の宿(しゆく)にかがやけども
時劫(じごふ)の激浪(おほなみ)刻む柱見えず、
ましてや靡(しな)へ起き伏す靈の野のべ
沁しみ入るさびしさいかで人傳へむ。

君今いのちのかよひ路(ぢ)馳せゆくとき
夕影(ゆふかげ)たちまち動き涙涸れて、
短かき生(せい)の泉は盡き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌聲(うたごゑ)ともにあだならまし。

(初出・明治34年=1901年8月「明星」)

靜かに今見よ


靜かに今見よ、園の白壁(しらかべ)にぞ
楊(やなぎ)の一つ樹枝(こえだ)の影映(うつ)れる。
その影忽ち滅えぬ、――かの蒼波(あをなみ)
かくこそ海原闇き底に潜め。
影また漸く明り射す光の
眩(まばゆ)く白く纒ふをながめいれば、
かつ墮(お)ちかつ浮び來るそのきそひに
滿ちまた涸れゆくこころ禁(とど)めかねつ。

運命深き轍(わだち)の痕(あと)傳へて
見えざる車響けば、宴樂(うたげ)にほひ、
歌聲輟(や)むも束の間、おもへばげに
こは世に痛き鞭笞(しもと)や壁なるかげ――
むちうて、汝(いまし)虚(むな)しく見えなせども
花園榮なき日にもこは無窮(とこしへ)

(初出原題「静かに見よ」・明治34年9月「明星」)

君も過ぎぬ


遽(には)かにわが身變(かは)りぬ、否さらずば
聲なき歡樂(よろこび)手をば高くあげて、
『見よこの過ぎ行く影を、いざ』と指(さ)すか、
遷轉(せんてん)無窮(むきゆう)の夢ぞ卷きて披(ひら)く。
流るるこの甃石(いしだたみ)、都大路
酒の香、衣(きぬ)の色(いろ)彩(あや)みだれうかぶ、――
あやしや此處にもしばし彼の自然の
高嶺(たかね)の、大野(おほの)の力こもりぬらし。

嗚呼喧噪(けんさう)の巷も今し見れば、
往きかふ人影淡き光帶びて
あかつき朝日纒へる雲に似たり。
臈(らふ)たき人よ、この時かしこを君、
極熱(ごくねつ)豐麗ほうれい)の土しばし抽ぬきて
花草匂ふがごとく君も過ぎぬ。

(初出・明治34年9月「明星」、以上3篇詩集『獨弦哀歌』明治36年1903年5月より)


 明治時代の詩人で誰が良いといえば蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)になります。有明薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。しかし有明の詩は豊かな音楽性を誇る作風や格調の高さ、内省的な観照性では泣菫を上回り、北村透谷や島崎藤村らによって始められた明治の文語自由詩は有明によって極められたと言ってよいものです。自身も啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外(1862-1922)は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩は島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」にインスパイアされた作品で素朴な感動を湛え、人口に膾炙した「牡蠣の殼」がすでに第1詩集『草わかば』に含まれており、明治時代の有明の4詩集は鴎外のみならず北原白秋(1885t1942)、萩原朔太郎(1886-1942)、日夏耿之介(1890-1971)らも生涯激賞してやまなかったもので、『有明集』以降の新作や訳詩を収めて全詩集を改作・改訂した有明初の全詩集『有明詩集』は白秋が創設した出版社のアルスから大正11年(1922年)6月に刊行され、大正14年(1925年)5月には改訂5版が刊行されるロングセラーになっています。有明はその後も昭和3年(1928年)11月の岩波文庫版『有明詩抄』、昭和5年(1930年)7月の『現代詩人全集・蒲原有明集』、昭和10年(1935年)8月の新潮文庫版『蒲原有明集』、昭和22年(1947年)8月の『春鳥集改訂版』、昭和25年(1950年)7月の『有明全詩抄』と詩集再刊のたびに新作の追加と全詩集の改訂を行い、昭和27年(1952年)2月3日に数75歳の長寿で逝去しましたが、3月刊行の新潮文庫版の新版『蒲原有明詩集』の序文が絶筆となり、新版新潮文庫蒲原有明詩集』もさらに改訂が加えられたものでした。

 有明は上記の通り生涯に渡って既発表作品の改作と断続的な新作発表を続けたので、『有明集』以降の新作も悠に詩集2冊分相当はあるといえ、30歳の第4詩集『有明集』までの全詩集の改訂を75歳の逝去直前まで行っていた特異な経歴は有明と同世代の詩人にも類を見ないもので、有明研究の単行本論集も長文の有明論を含む日夏耿之介『明治大正詩史』(昭和4年)、矢野峰人蒲原有明研究』(昭和23年・昭和16年刊行予定の内容が戦時事情から出版の遅れたもの)、長文の有明論を含む窪田般弥『日本の象徴詩人』(昭和38年)、松村緑『蒲原有明論考』(昭和40年)、蒲原有明評伝を含む河合醉茗夫人の島本久恵『明治詩人傳』(昭和42年)、安東次男による詳細な註釈が付された中央公論社『日本の詩歌・第2巻』(昭和44年)、雑誌「現代詩手帖」増頁特集号「特集・蒲原有明」(昭和51年10月)、先駆的現代詩人としての有明を論じ画期的な長編論考となった渋沢孝輔蒲原有明論』(昭和55年)と精緻な論考に欠きません。晩年近くに偶然近況が知られたことから自伝的長編小説『夢は呼び交す』が刊行(昭和22年)されたのも有明研究を促すことになり、同自伝の刊行によって有明土井晩翠とともに日本芸術院会員に迎えられています。有明没後の昭和29年に初めて『草わかば』『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』がのちの改作によらず初版本を底本に創元社の『現代日本詩人全集』に収められ、創元社版では『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』に収められた訳詩は割愛されていましたが、昭和32年筑摩書房版『現代日本文學全集』や昭和42年の筑摩書房版『明治文學全集』、昭和43年の講談社版『日本現代文學全集』では有明の明治時代の4詩集全編が訳詩も含めて収録されました。河出書房から昭和32年に刊行された『定本蒲原有明全詩集』は有明生前の最終改訂版が採用され、雑誌掲載時から初版詩集、有明生前の全詩集・選詩集ごとのヴァリアント(改訂異稿)がまとめられています。現在有明の詩は初版詩集収録型が最善とされているので、日夏耿之介の論考以来、矢野峰人、松村緑、島本久恵らも日夏の指摘を是としています。実作者の立場から(日夏も実作者でしたが)アルス版『有明詩集』以降の改訂稿、『有明集』以降の新詩集に再評価を促したのが安東次男や渋沢孝輔で、安東の註釈や渋沢の論考では数次に渡る改訂稿や『有明集』以降の新詩集が目を向けられていますが、その辺は初版詩集による翻刻を味読してから立ち入らないとなかなかわからない領域でしょう。今回は第3詩集『獨弦哀歌』から佳作を3篇上げました。いずれも高度な達成を見せてあまりあり、今日読むと北原白秋の『邪宗門』や三木露風の『廃園』が有明の存在を脅かして引退同然に追いやったのは何かの間違いではないかと思われるほどです。文語や稀語によってこれらの詩は一見難解になっていますが、漢語と倭語(やまとことば)の配分によって有明の詩が湛える音楽性は文語自由詩型ならではの美しさがあり、それは明治30年代~明治40年代につかの間に日本の現代詩に咲いた花でした。大正以降100年来の日本の詩人はもはや有明のようには文語詩を咲かせることはできません。ただ読んで歎息するしかないこれらの詩の美しさはあまりに急速な文化状況にあって有明本人をも置き去りにするようなものでした。有明が生涯自作を改作し続けたのも同じ理由からだったに違いなく、有明の栄光も悲劇もそこに同居していたのです。

サン・ラ究極の一曲!

サン・ラ・アーケストラ・フィーチャリング・ジューン・タイソン - ゼイル・カム・バック (Various)

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サン・ラ・アーケストラ・フィーチャリング・ジューン・タイソン Sun Ra Arkestra Featuring June Tyson - ゼイル・カム・バック They'll Come Back (Word & Music by Sun Ra) (Modern Harmonic, 2019) : https://youtu.be/ScupBPz2C90
From the Compilation Album "The Saturnian Queen of The Sun Ra Arkestra", Modern Harmonic MHCD-014, November 29, 2019

 デトロイトの伝説的プロト・パンク・バンドのMC5や、クイーンの「レディオ・ガガ」から源氏名を採ったレディ・ガガがサン・ラのオリジナル・ヴォーカル曲「Rocket Number 9」を改作してカヴァーしているのは以前に触れましたが、今回ご紹介するサン・ラのオリジナル・ヴォーカル曲はクイーンの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」の元ネタです。とは半分冗談・半分本当(盗作提訴したら二審くらいまでは上がったでしょう)で、そのくらいサン・ラにはキャッチャーなアンセム的ヴォーカル曲もあるというのが今回の本題です。サン・ラ・アーケストラに女性ヴォーカリストのジューン・タイソン(1936-1992)が参加し、やがてレギュラー・メンバーになったのは1968年~1969年にかけてのことでしたが、当初サン・ラ(1914-1993)は女性メンバーの正式参加(それまでにも一時的参加の女性メンバーはいましたが)には難色を示していました。バンド内での色恋沙汰を懸念してですが、アーケストラの演奏と渡りあえるタイソンの実力と、タイソンがすでにアーケストラの音響・ステージの専属スタッフの夫人だったことから問題なかろうとタイソンは正式メンバーとなり、1971年のヨーロッパ~エジプト・ツアーからライヴにも参加するようになります。以降タイソンは1992年11月に乳癌で逝去するまでアーケストラのヴォーカリストを勤め、1992年7月4日に行われたアメリカ独立記念日の無料フェスティヴァルがタイソン最後のステージになりました。一昨年2019年11月にリリースされたコンピレーションCD『The Saturnian Queen of The Sun Ra Arkestra』はタイソンがリード・ヴォーカルを勤めたサン・ラ・アーケストラの楽曲を集めた初のアルバムで、全17曲のうち未発表テイク5曲、既発表ながら短縮編集されてリリースされていた曲の無編集テイク1曲を含む、これまで同様の企画(アーケストラ以外でのタイソンの録音を軸にアーケストラからの曲を加えた編集盤はありましたが)がなかったのがむしろ意外な編集盤です。またこのアルバムで、収録時期は不明ながら、1971年以来ステージではコンサート中盤の区切りに歌われ、'80年代以降はエンディングまたはアンコール・ナンバーとして歌われてきた名曲「They'll Come Back」の未発表テイクが発掘・収録されたのも収穫でした。この曲はタイソン生前の20年間(そして没後も後任ヴォーカリストによって)アーケストラのライヴではタイソンのリード・ヴォーカルにメンバーの合唱、パーカッションと手拍子・足踏みだけのアカペラで歌われることになりましたが、初発表時にはインストルメンタル曲で、ライヴ・レパートリーに採用されるに当たってサン・ラ自身によって作詞されたものです。

◎Sun Ra and his Solar-Myth Arkestra - They'll Come Back (BYG, 1971) : https://youtu.be/3kbntjmJKMg
Recorded at Arkestra's Rehearsal Space, Between 1968-1970
From the Album "The Solar-Myth Approach, Vol.1", Disques BYG Actuel 40-529340, 1971

 もともとこの曲がインストルメンタル・ヴァージョンでも完成度が高く、人類の遺伝子に直接伝わってくるような純粋で雄大な曲想を持つ曲なのはスタジオ録音版からも伝わってきます。アーケストラのオーケストレーションもまるで億単位の時間の中で生まれては消えてゆく無限の生命の営みのはかなさを葬送する天上の音楽のような和声を奏で、これほど美しい曲はあるだろうかと涙が浮かびます。この曲はほとんどジャズやブルース、ゴスペルを越えて黒人音楽のルーツそのものを感じさせる伝承歌の域に達しており、またサン・ラもアーケストラのアンサンブルによるビッグバンド・ヴァージョンはこの完璧な初録音だけでやり尽くした思いがあったのでしょう。同ヴァージョンを収録したアルバム『The Solar-Myth Approach, Vol.1』はフランスのアンダーグラウンド音楽専門レーベルBYGの依頼に応じて提供した未発表曲集で、1968年~1970年録音と時期もメンバーも特定できませんが、この「They'll Come Back」1曲・4分弱だけでもアルバム1枚分以上の密度があります。「They'll Come Back」の前では白人ポピュラー音楽の「明日に架ける橋」や「レット・イット・ビー」「イマジン」などは児戯に思えるほどです。1971年、歌姫ジューン・タイソンをメンバーに加えたサン・ラ・アーケストラはヨーロッパ諸国のみならずエジプト公演まで含む長期の海外公演を行います。YouTube上にアップされているものから1971年ツアーの「They'll Come Back」を引きました。すでにこの曲はジューン・タイソンのアカペラ・ヴォーカル曲にアップデイトされています。以降もこの曲はアーケストラの歌姫ジューン・タイソンのソロ・ヴォーカル曲としてアカペラで歌い継がれます。ヴォーカリストのアカペラでもジューン・タイソンのソロではなくサン・ラ・アーケストラのサウンドになっているのは驚異的なことです。サン・ラにとってもタイソンにとっても最晩年のライヴ・アルバム『Friendly Galaxy』で聴けるライヴ・テイクはメンバーの大合唱とパーカッション・アンサンブルを交えて6分あまりに及ぶ最高のヴァージョンで、この時期すでにサン・ラは不整脈脳梗塞による病状から半身不随になって車椅子でステージを勤めており、初期アーケストラ以来のメンバーたちもしばしば入退院を余儀なくされ、タイソンも翌年に逝去するので、サン・ラ生前のアーケストラの最後は刻々と近づいていました。病床のタイソンが抜けた1992年10月21日の1時間程度のステージがサン・ラ最後のライヴ出演になり(翌月ジューン・タイソンは逝去します)、郷里で療養生活に入ったサン・ラは1年半の闘病後1993年5月30日に逝去しました。79歳の誕生日(5月22日)を迎えて1週間後のことでした。葬儀・埋葬式ではアーケストラの現存メンバーが追悼演奏し、ヴォーカル曲の「Interstellar Low Ways」「We Travel The Space Ways」、そして「They'll Come Back」が歌われました。

◎Sun Ra & His Intergalactic Solar Research Arkestra - They'll Come Back (Live in Delft, Holland 1971 Part 2) : http://youtu.be/VwVchG2xK6s
Recorded live at Technische Hogeschool, Nieuwe Aula, Delft, The Netherlands November 11, 71
From TV Broadcast (Sound only)

◎Sun Ra Arkestra - They'll Come Back (Transparency, 2010) : https://youtu.be/zZeSsoRVvFI
Recorded live at Tearro Giulio Caesar, Rome, Italy, May 3, 1981
From the Album "Live In Rome", Transparency Records 0315 (2CD), 2010

◎Sun Ra - Friendly Galaxy (Leo, 1993) : https://youtu.be/TI6b5BY4HxI
Recorded live at Banlieues Bleus, Salles des Fetes Marie, Montreuil, France, 11 April 1991
From the album "Friendly Galaxy", Leo Records LR188, 1993

 サン・ラ没後もアーケストラはサン・ラの遺志を継ぎ、サックス・セクションの重鎮だったマーシャル・アレン(1924-)をリーダーとして新旧メンバー混成でコンサート活動、レコーディング活動を続け、今年96歳を迎えてなお現役のアレンを中心にほぼ毎年の海外公演、アメリカ国内公演を行っています。最後は現在のメンバーによるサン・ラ・アーケストラの「They'll Come Back」の2019年4月、ウィーンのコンサートでの客席撮影映像を引きます。現在の女性リード・ヴォーカリストの隣に立って歌っているのが昨年、95歳のマーシャル・アレンです。観客撮影とはいえ映像の説得力は絶大で、タイソンとサン・ラもこのようにしてステージに立っていたのかと彷彿させる感動的な動画です。

◎Marshall Allen's Sun Ra Arkestra - They'll Come Back (Audience Shooting Movie, Live in Vienna, April 28, 2019) : https://youtu.be/qLkoWkj04SE

蒲原有明「牡蠣の殻」「甕の水」(創元社『蒲原有明全詩集』より)

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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牡蠣の殼


牡蠣(かき)の殼(から)なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨(ひと)りあやふく限ある
そのおもひこそ悲しけれ

身はこれ盲目(めしひ)すべもなく
巖(いはほ)のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮(しほ)のみちひをおぼゆめり

いかに黎明(あさあけ)あさ汐(じほ)の
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼

たとへ夕づついと清き
光は浪の穗に照りて
遠野(とほの)が鴿(はと)の面影に
似たりとてはた何ならむ

痛いたましきかなわたづみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど

されど一度(ひとたび)あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎(くだ)けざるべき

(初出・明治34年=1901年5月「明星」、詩集『草わかば』より)

甕の水


甕(かめ)の水濁りて古し、
このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、
甕の水、
惜しげなき逸(はや)りごころに。

音鈍(にぶ)し、水はあへなく、
あざれたる溝(みぞ)に這ひ寄り、
音鈍し、
呟(つぶ)やける「夢」のくちばみ。

去(い)ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
噫(ああ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

耀(かがや)きぬ雲の夕映(ゆふばえ)、
いやはての甕の雫(しづく)に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。

「戀」なりや、雫の珠(たま)は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇(くら)きに沈む。

夜(よ)となりき、嘆くも果敢(はか)な、
空しかる甕を抱(いだ)きて、
夜(よ)となりき、
あやなくもこころぞ渇く。

(初出・明治40年=1907年1月「ひぐるま」、詩集『有明集』より)


 蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)
もまた薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩としては例外的に人口に膾炙した「牡蠣の殼」は第1詩集『草わかば』にあって素朴な感動を湛えた名作で、有明には島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」(のちに歌曲化されましたが、作曲・放送・レコード発売は昭和11年=1936年です)が念頭にあったと推定されています。しかし詩としては有明の「牡蠣の殻」は「椰子の実」より格段に渋いもので、この渋さは同じ音楽的な性格の詩であっても歌われるよりも淡々と朗読されるにふさわしいものであり、萩原朔太郎は生涯有明を敬愛していましたが、晩年には自宅の縁側でお銚子を傾けながら有明の詩を飽きずに暗唱し、「有明はいいな」とひとりごちていたという証言があります。

 巻頭の部「豹の血」から劇的で強烈な象徴主義詩が並ぶ第4詩集『有明集』は今日定評がある通り日本の象徴主義詩として最高峰を極めた、異様な共感覚に溢れた傑作詩集ですが、その中にあってもっとも地味な部類に入る詩集中盤の詩篇も佳作揃いであり、「甕の水」はしみじみ良い詩です。小津安二郎の映画『晩春』には壺の長いショットがありますが、さすがに詩で「甕甕甕甕甕……」と書くと高橋新吉になってしまいますからそれなりに甕をめぐる描写や心象が書かれているのですが、小島信夫の小説で精神的な危機感に見舞われた主人公が「甕の中に水がある……それは自明のことなのだろうか」と悩む描写があった記憶がありますが、小島信夫の小説の60年あまり前に「甕の水」をとっかかりにして何とも言葉にし難い感覚をこの詩は確かに定着しています。それは自然主義詩でもなければ象徴主義的抒情詩でもなく、このように書かれなければ霧消してしまったようなある一定の感覚であり、翻訳詩にはなく有明自身が現実から見出した一種の現象で、文語自由詩の体裁を採りながら文語によって縛られず、やや誇大な物言いになるのを承知で言えばおそらく生命の原初から生けるものが抱いてきた実存の虚数のような感覚です。有明が実際に精神的危機から来る神秘体験を経験し、また『有明集』創作時から結果的には文筆活動の引退を迫られるほどの重鬱にきったのがこの詩と無関係とは言えないでしょうが、「空しかる甕を抱きて、/夜となりき、/あやなくもこころぞ渇く。」という認識の状態に置かれた有明がほどなく詩を辞めてしまうのは回避できないことだったのを示すリアリティがここにあり、外国語詩に翻訳してもこの詩の本質は欠落しないでしょうが、日本語詩としてはこの「甕の水」に書かれた以外の文体でこれを再現することは不可能でしょう。「牡蠣の殻」と「甕の水」を結ぶテーマはひとすじのもので、それは薄田泣菫の「村娘」と「鳰の淨め」が結ばれているのと一見似ていますが、泣菫が「村娘」と「鳰の淨め」で書いたテーマは藤村の『若菜集』の「六人の乙女」から引き継ぎ、やがて立原道造に流れていくようなものでした。有明の「牡蠣の殻」はまだしも模倣者の現れる余地がありますが、「甕の水」では失語の一歩手前で書かれたような詩であり、さらに恐ろしいことに有明の詩には「甕の水」と同等かそれ以上の地点で破綻ぎりぎりに成立した詩がいくつも上げられます。おそらく賢明な泣菫は、有明のような地点には立ち入らないことで積極的にエッセイストに転身したのでしょうが、有明は生涯自作をより深い混迷に向けて改作し続けたのです。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド The Velvet Underground - ローディッド Loaded (Cotillion, 1970)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド - ローディッド (Cotillion, 1970)

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ヴェルヴェット・アンダーグラウンド The Velvet Underground - ローディッド Loaded (Cotillion, 1970) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLsQfpW7FBkHwJFQwZJyrQUGIS2nA38PDP
Recorded at Atlantic Studios, New York, April - July, 1970
Released by Atlantic Records Cotillion SD 9034, September 1970
Produced by Geoffrey Haslam, Shel Kagan & The Velvet Underground
All the selection are by The Velvet Underground (Lou Reed)
(Side One)
A1. Who Loves the Sun - 2:45
A2. Sweet Jane - 4:06
A3. Rock & Roll - 4:44
A4. Cool It Down - 3:06
A5. New Age - 5:11
(Side Two)
B1. Head Held High - 2:58
B2. Lonesome Cowboy Bill - 2:45
B3. I Found a Reason - 4:17
B4. Train Round the Bend - 3:22
B5. Oh! Sweet Nuthin' - 7:29

[ The Velvet Underground ]

Lou Reed - vocals (A2, A3, A4, B1, B4), guitars
Starling Morrison - guitars
Doug Yule - organ, bass, vocals (A1, A5, B2, B3, B5)
Maureen Tucker - drtms, percussion
Bill Yule - drums

(Original Cotillion "Loaded" LP Liner Cover & Side One Label)
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 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの全アルバムやバンドの歴史についてはセカンド・アルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』をご紹介した際に概略をまとめましたので、そちらをご参照ください。本作はリーダーのルー・リード在籍時の最後のスタジオ・アルバムで、全作詞作曲ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとなっています。アルバム発表前月にリードが脱退したためバンド名義の作詞作曲表示になったもので、のちリードからの訴訟により全作詞作曲ルー・リード著作権登録が改められました。リード脱退後、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは1968年12月録音の第3作『The Velvet Underground』から参加したダグ・ユールがリーダーになって、1974年まで断続的な活動を続けます。その間にルー・リードはソロ・アーティストとして大成功を収めたので、長らくリード脱退後のヴェルヴェットはなかったことにされてしまっていたほどでした。本作制作の時点でリードは脱退の意志を固めており、マネジメントがリード脱退後もユールをリーダーに替えてヴェルヴェット・アンダーグラウンドの継続を決めていたことから(裏ジャケットでスタジオ作業中のショットに写っているのもユール一人です)半数の曲ではすでにダグ・ユールがリード・ヴォーカルに起用されており、さらに主流ロックに近づいたストリート感覚のロックンロール・アルバムに仕上げられていることから、本作はダークでシニカル、背徳的で頽廃的なサウンドだった初期2作のヴェルヴェットから、脱力したようなバッド・トリップ感に移ったサード・アルバムを挟んでさらにポップ化したアルバムとして賛否両論あるものでした。現在ではルー・リード在籍時のヴェルヴェット・アンダーグラウンドのスタジオ盤4作はいずれ劣らぬ名盤と認められており、本作『ローディッド』はポップ化の限界ゆえに4作中でも際立ったアルバムと目されています。本作収録の「Sweet Jane」「Rock & Roll」は多くのカヴァーを生み、生涯ルー・リードの代表曲としてライヴの定番曲となった名曲です。

 バンドは1969年5月~10月にライヴ巡業の合間を縫ってMGMレコーズのための次のアルバムの録音を行いますが、結局それらはMGMによる契約打ち切りで未発表デモテープの段階のまま終わることになります。ヴェルヴェットの再評価の高まりによって1985年にもなって発表されたのが未発表曲集『VU』『Another View』の2枚です。アトランティック・レコーズ傘下のコティリオン・レコーズに移籍したバンドはMGMに残した未発表曲は取り下げ(のち多くはルー・リードのソロ・アーティスト・デビューになるアルバムで再録音されます)、移籍後の新曲のデモテープ作りからリハーサルを始めます。それが1969年末と1970年4月のセッションでしたが、4月後半から7月にかけての『Loaded』収録テイクのレコーディングはオリジナル・メンバーのドラマー、モーリン・タッカーが産休のためにバンドを一時脱退し、ダグ・ユールの弟の高校生ドラマーのビル・ユールが勤めました(産休明け後タッカーはバンドに復帰、タッカーの再脱退後ビル・ユールは再加入します)。ボーナス・トラック入りの『ローディッド』の2CDデラックス・エディションではアルバム2枚分のレパートリーから『ローディッド』が完成したのが明らかにされ、ソロ活動に移る直前の時期にいかにルー・リードが多作で、創作力に満ちていたかが知られることになりました。同じニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのバンドでもヴェルヴェットはファッグスやパールズ・ビフォア・スワイン、ゴッズなどより純粋にプロフェッショナルなミュージシャン集団であり、はっきりと楽曲と演奏で勝負できるグループでした。全アルバムの高い音楽的水準がそれを示してあまりあります。特に正攻法のロックンロールで成功作となった本作『ローディッド』はファッグスやゴッズには作り得ないものでした。もちろんこれはファッグスやパールズ、ゴッズらの魅力を十分に認めた上での話です。

 オリジナル・メンバーでリードと双頭リーダーだったジョン・ケイルに代わってダグ・ユールが加入したサード・アルバムと本作『ローディッド』はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの作風の転機が明確に現れた問題作ですが、ヴェルヴェットの4作のアルバムはいずれも収録曲の全曲がのちのアーティストによってカヴァーされ、どのからも半数近くの曲がロック・スタンダードになっています。『The Velvet Underground』では「Candy Says」「What Goes On」を始めA面全曲とB1、『Loaded』では特に「Sweet Jane」「Rock & Roll」の2曲は生涯ルー・リードのライヴ・レパートリーになったのは前述の通りです。「Candy Says」や「Who Loves The Sun」に続いて『ローディッド』でリードがダグ・ユールにリード・ヴォーカルを取らせた曲も変声期前のリードのような声質が曲想に合っており、女性ドラマーのモーリン・タッカーに歌わせた曲もチャーミングです。デビュー・アルバムとセカンド・アルバムの作風からは打って変わって内省的なムードになったサード・アルバムと、さらに一転してポップで明快なロック・アルバムになった『ローディッド』ですが、未発表曲集『VU』とさらにその拾遺曲集『Another View』はともあれ(曲単位では聴き応えのあるアルバムですが、寄せ集めなので統一感で劣るのは仕方ありません)、ヴェルヴェットはオリジナル・アルバム4作ともそのアルバムならではの魅力があり、どのアルバムにもこれこそヴェルヴェットの最高傑作として熱愛する支持者がついています。聴き飽きることのない耐久性はそうした意外なほどの音楽的な幅の広さにあり、一見シンプル極まりないのも装飾的要素の少ない、自由な大らかさによるもので、4作すべてを聴くとそれがよくわかります。おそらくそれは同時代よりも後世のリスナーの方がよりはっきりと判別できるのです。

 なお本作はLP時代にはA2「Sweet Jane」とA5「New Age」は短縮ヴァージョンとなっており、リマスター前のCD化ではLPマスター通りの短縮版、リマスターCDでは全長版となっていて、LP時代からのリスナーにはリマスター前のCDの方が馴染めるも、より音質が向上し、かつアルバム1枚分相当の未発表ボーナス・トラックを聴くにはリマスター版を買わねばならない厄介な事情があります。LP時代の多くの名盤が同様の事情にあり何枚も同じアルバムをだぶり買いしなければならないのは贅沢な悩みでもあれば、LPそのままのマスターを使用した版の廃盤も招く事態にもなっており、歴史的作品の場合はいた仕方ないとは言えなるべくならオリジナル・フォーム通りの復刻も望ましいところです。