人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ワパスー Wapassou - ルートヴィヒ2世 Ludwig, un roi pour l'eternite (Crypto, 1979)

ワパスー - ルートヴィヒ2世 (Crypto, 1979)

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ワパスー Wapassou - ルートヴィヒ2世 Ludwig, un roi pour l'eternite (Crypto, 1979) Full Album : https://youtu.be/9WQUB-6cKGM
Recorded & Mixed at Omega Studio, Strasbourg, November 1978
Released by Disques RCA / Crypto ZAL 6477, 1978
Sound Engendered by Francis Adams & Fernand Landmann
Produced by Jean-Claude Pogmant
Music by Freddy Brua except as indicated
Arrangements by Wapassou
Lac de Strasbourg 1886 by Richard Wagner
L'adieu au loi : Music by Freddy Brua and Arrangements and Directions by Marc Dolsi

(Face 1)

A1. ルートヴィヒ2世・永遠の狂王 Ludwig, Un Roi Pour l'eternite - 18:00

(Face 2)

B1. ルートヴィヒ2世・永遠の狂王 Ludwig, un roi pour l'eternite (suite) - 16:02
B2. スターンベルグの湖・1886年 Lac de Starnberg 1886 (Richard Wagner) - 1:16
B3. 国王への告別 L'adieu au roi - 2:10

(1994 CD Bonus track)

4. ヌーボー・ロマンへの讚歌 Hymne Au Nouveau Romantisme

  • 6:25

[ Wapassou ]

Freddy Brua - claviers
Karin Nickerl - guitares et basse
Jacques Lichti - violon
Giselle Landmann - light-show
Fernand Landmann - son
et.
Veronique Nickerl - chant
Marc Dolisi - ARP synthesizer on "L'adieu au roi"

(Original Crypto "Ludwig, un roi pour l'eternite" LP Liner Cover & Face 1 Label)

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 自主制作盤でまだ習作的なデビュー作『ニンフの泉』1974、インディー・レーベルながらメジャー配給のクリプト・ディスクに移ってLPのAB面を通してアルバム全1曲の大作に規模を拡大し一気に作風を確立した第2作『ミサ・ニ短調』1976、第3作『サランボー』1977までワパスーのアルバムはどれも良いですが、最高傑作を上げるなら『ミサ・ニ短調』『サランボー』に継ぐ三部作の最終作になった本作『ルートヴィヒ2世』でしょう。構成はAB面を通して35分におよぶアルバム・タイトル曲「ルートヴィヒ2世・永遠の狂王」がくり広げられ、ワーグナーの『パルシファル』の一節をモチーフとした1分16秒の小品「スターンベルグの湖・1886年」を挟み(これはルートヴィヒ2世が溺死した変死体で発見された湖と没年を示します)、最後にゲスト参加のマルク・ドルシにアープ・シンセサイザーとアレンジの協力を仰いだ2分10秒の小品「国王への告別」で終わります。アルバム全編がシームレス(曲間なし)なので末尾の2曲も実際はタイトル曲「ルートヴィヒ2世・永遠の狂王」のコーダ部分をなし、ルートヴィヒ2世が寵愛したワーグナーのモチーフとマルク・ドルシのゲスト参加をクレジットするために一応曲として分けられた、と言っていいでしょう。また本作は1994年の初CD化に当たって6分25秒の未発表曲「ヌーボー・ロマンへの讚歌」が追加されましたが、作風は本編と変わらずややリズミックで、アンコール的に収まっているので違和感はありません。この追加曲によってさらに雄大な規模を感じさせるアルバムになっているので、未発表曲の追加も妥当でしょう。またワパスーの『ミサ・ニ短調』以来の大作は2分~4分、6分の楽章を連続させることで成り立っているので、リズミックな仕上がりになった「ヌーボー・ロマンへの讚歌」は本編の中間部への収まりには不適当とされオミットされた楽章と推測できます。『ミサ・ニ短調』の冒頭モチーフが自主制作盤の『ニンフの泉』の1曲からの転用だったように、本作冒頭2分間のモチーフは前作『サランボー』のB面「パート2」の8分40秒台からの2分間で既出していますが、テーマを奏でるキーボードの音色とアレンジがまったく違うため一聴してすぐにはわかりません。『サランボー』ではその楽章からさらに大きく展開するので経過部分として聴き流してしまうからですが、本作冒頭では同じモチーフがこんな音色聴いたことがない、と仰天するようなアープ・シンセサイザーの音色設定で奏でられます。コード進行を暗示する26秒を過ぎてからこの主旋律は出てくるのですが、あまりに突拍子もない音色なのでこの26秒目から最初の楽章の終わる冒頭2分間で意識は持っていかれます。ワパスーの音楽は本質的にはトリップ・ミュージックで、'70年代の使用機材からインストルメンタルプログレッシヴ・ロック的に聴けもしますが、本作はドイツ分領時代のバイエルンの「狂王」ルートヴィヒ2世への葬送曲であり、テーマ的にも現代ミサ曲『ミサ・ニ短調』、古代カラタゴ戦争の悲劇の巫女への挽歌『サランボー』を継ぐものです。

 本作の題材となっているルートヴィヒ2世(Ludwig II.・1845年8月25日生~1886年6月13日没、第4代バイエルン国王在位1864年1886年)についてはそれこそ森鴎外からルキノ・ヴィスコンティにいたるまで多くの文学・芸術作品によって語られているので、手軽にウィキペディアにでも当たられればその奇人ぶり、「狂王」と呼ばれるゆえんが簡単に調べられます。ジーバーベルグのパロディ的な伝記映画のようにドイツ人自身には19世紀分領制時代のドイツならではの極端な悪趣味を示すシンボルとしてもとらえられていますが、ワパスーの本作は物語的な発想ではないのでそういう地方国の王様がいた、というくらいでいいでしょう。本作ではゲストに女性ギタリストの妹が呼ばれ、バンドはライトショウ担当、エンジニア担当のメンバーが正式参加となっていますから本作をライヴで再現するにはライトショウとエンジニアが不可欠だったとバンド自身がアピールしており、裏ジャケットにもこの2人は正式メンバーとして写真が掲載されています。つまりこのアルバムは一種の舞台音楽として制作されたもので、俳優のいない無言劇(女声スキャットは入りますが、これまでのワパスー作品の中でスキャット・パートはもっとも切りつめられ、その代わり集中して効果的に用いられています)としてライヴ演奏されたのでしょう。デビュー作では女性ギタリスト自身が歌っていましたが、編集によってさまざまな楽章がつなぎ合わされているにしても録音自体は楽章ごとにほとんどオーヴァーダビングなしに録音され、そこで女性ギタリストの実妹スキャット参加や、コーダ曲のみのアープ・シンセサイザーのゲスト参加が必要とされたと推定されます。ライヴではバンド・メンバー5人(うち2人は専任スタッフ)のみで本作全編が再現されていたようです。

 ワパスーの演奏力はミュージシャンとしてはこれ以上拙くては音楽にならないほどで、センスとアイディアによってのみ成立しているようなものでした。また一般的にファンタジー(幻想性)とイマジネーション(想像力)ではファンタジーだけでは作品にならず、作品の成立にはより意識的なイマジネーションが不可欠ですが、その点でもワパスーはファンタジーとイマジネーションの分化が明確ではなく、必ずしもイマジネーションの強さによって成り立っている音楽とは言えませんでした。センスとアイディア頼りの音楽作品ならではの弱点と強みがワパスーのアルバムには混在しており、その意味では非常に限界と制約を抱えた存在だったと言えそうです。自主制作盤のデビュー作のみにドラマーのゲストを迎え、クリプト三部作ではベースもドラムスも入らない音楽に徹底していたのはワパスーの力量ではベースとドラムスを伴うアンサンブルが不可能だったことにもよるでしょう。楽想は多彩ですが決して豊富とは言えないのもモチーフの重複使用に表れています。しかし本作ではすべてがプラスに働き、一世一代とも言えるアルバムを作り上げたのです。クリプトを離れた次作ではドラマーを正式メンバーとし、またソウル色の強い女性ヴォーカリストを迎えましたが、ワパスーの個性は霧散してしまいます。ワパスーはかろうじて'80年代半ばに本格的なロック指向のギタリストを迎えて最終作を出しましたが、クリプト三部作までのユニークな個性を取り戻すことはできませんでした。アマチュアリズムの産物というよりも、本作のワパスーの達成は印象派より前のフランス音楽、カミーユ・サン=サーンスセザール・フランク、ガブリエル・フォレら教会音楽系の作曲家の音楽を思わせる慎ましいもので、アーリア系のアングロ・サクソン~ゲルマン的発想による英米ロックやドイツの電子音楽とはまったく異なる感性を感じさせます。多楽章構成なのに組曲的な構築性をほとんど感じさせず悠然と流れていく点でもいわゆるプログレッシヴ・ロック、シンフォニック・ロックとはまったく違う浮遊感と自発的な流動性に富んだもので、『ミサ・ニ短調』『サランボー』そして本作と三作を重ねてようやく十分な達成を見たものでした。ワパスーが職人的なミュージシャンの集まりならば本作を最後に行き詰まることもなかった代わりに、クリプト三部作のような音楽を作り出すこともできなかったでしょう。本作はそういったバンドの畢生の一作です。また本作は冒頭2分間のモチーフだけでも不朽の作品になっています。本作を生み出すためだけにワパスーは存在していたと言っても悔いの残らないものです。それで十分ではないでしょうか。

西脇順三郎連作長編詩「体裁のいい風景」(大正15年=1926年作)

西脇順三郎(明治17年=1894年生~昭和57年=1982年没)
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 西脇順三郎(明治17年=1894年生~昭和57年=1982年没)が初めて日本語詩に着手したのは應義塾大学英文学科教授に就任した大正15年(1926年)4月以降のことで、大正15年7月の「三田文学」に4篇同時掲載された詩篇「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」であり、西脇はすでに32歳になっていました。これらは日本語の処女詩集「Ambarvalia」(椎の木社・昭和8年=1933年9月刊、40歳)に収録されましたが。同詩集に収録洩れとなった大正15年~昭和2年(1928年)の詩篇は戦後ようやく刊行された第2詩集の長篇連作詩『旅人かえらず』と処女詩集の改作『あむばるわりあ』(同時刊行、東京出版・昭和22年=1947年8月刊、54歳)に続く詩集「近代の寓話」(創元社・昭和28年=1953年10月刊、60歳)の巻末の拾遺編に収録されました。この『近代の寓話』巻末に拾遺として収められた「修辞学」(昭和2年5月「三田文学」)、「自然詩人ドルペンの悲しみ」(昭和2年7月「三田文学」)、「体裁のいい景色」(大正15年11月「三田文学」)、「ESTETIRQUE FORMAINE」(昭和2年5月「三田文学」)はいずれも詩人生前の定本全詩集からは外されるとともに、西脇の意を汲んで没後の全詩集でも外されることになります。第一詩集『Ambarvaria』は詩集刊行直前に一気に書かれた作品が多く含みますが、大正15年~昭和5年の作品からも散文詩『馥郁タル火夫』、長詩「悲歌」、長編劇詩「紙芝居Shylockiade」、連作長篇詩「失楽園」などの名篇が収録されています。確かに「体裁のいい景色」や「自然詩人ドルペンの悲しみ」ら拾遺詩篇4篇は『Ambarvaria』収録作品からは一段落ちる出来映えなのですが、西脇順三郎は詩人には珍しく生前未発表・詩集未収録作品がほとんどない人でした。

 西脇順三郎の登場前の現代詩史をおおまかにまとめると、源流は高村光太郎の『道程』(大正3年=1914年)と萩原朔太郎の『月に吠える』(大正6年=1917年)に置かれます。金子光晴の『こがね虫』(大正12年=1923年)や宮澤賢治の『春と修羅』(大正13年1924年)も高村・萩原の系譜に生まれてきた詩集です。一方突然変異的な詩集として山村暮鳥の『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年)があり、大正時代の総合と昭和詩への展開を目指して萩原恭次郎の『死刑宣告』(大正14年=1925年)、吉田一穂の『海の聖母』(大正15年=1926年)、草野心平の『第百階級』(昭和3年=1928年)、三好達治の『測量船』(昭和5年=1930年)が刊行されています。これがだいたい治安維持法時代前(ファシズム時代以前)の現代詩の見取り図と言えるでしょう。その中にあって、西脇順三郎はまるで異邦人のように登場しました。従来の日本の詩の概念では詩ですらないような詩でデビューしたのです。西脇順三郎の日本語による詩作発表は大正15年から始まり、すでに32歳の西脇は以前からそれらの詩を英語詩・フランス語詩で書いていたので、大正15年~翌昭和2年(1927年)の諸作はどれも日本語詩による処女作と言って良いものでした。西脇は意図して外国語の直訳的文体を用い、さらに誇張した表現を採っています。「秋という術語を用いる季節が来ると」「一個の青年が」などこの時期の詩では全編にわたって用いられているこの文体は、日本の詩では従来禁じ手だった発想で、手法としてはパロディに当たります。また内容も従来の詩では抒情的に扱われていた題材をヨーロッパ的設定によって卑近に滑稽化しています。このふざけた発想はダダイズム的な反知性、アナーキズム的な反体制とも異なるものでした。西脇の詩集『Ambarvalia』は西脇が師と仰ぐ萩原朔太郎から斬新さ、詩質の高さを評価されながらもディレッタント(趣味人)、「感覚脱落症」と批判もされ、それに応えて西脇は自作を正統的な萩原の発展であると自負していました。大正15年(1926年)11月の「三田文学」に全34章が一挙発表された連作長編詩「体裁のいい景色(人間時代の遺留品)」は冗長さ・完成度の低さから詩集『Ambarvalia』には収録されなかったと思われる試作的なものですが、この連作長編詩の真価はまさにその試作性にあり、戦後の詩集『近代の寓話』にかろうじて拾われるだけの価値はあったのです。またこれほどに諧謔のみに徹した詩から西脇順三郎が出発したのにはそれだけでも大きな意義があったと言えるでしょう。これは西脇順三郎以外には誰にも書けなかった詩であることも確かです。

「体裁のいい景色」

(人間時代の遺留品)

 西脇順三郎

 (1)

やっぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である

 (2)

湖畔になるべく簡単な時計を据付けてから
おれはおれのパナマ帽子の下で
盛んに饒舌ってみても
割合に面白くない

 (3)

郵便集配人がひとり公園を通過する
いずこへ行くのか
何等の反響もない

 (4)

青いマンゴウの果実が冷静な空気を破り
ねむたき鉛筆を脅迫する
赤道地方は大体においてテキパキしていない

 (5)

快活なる杉の樹は
どうにも手がつけられん
実にむずかしい

 (6)

鈴蘭の如き一名の愛妻を膝にして
メートルグラスの中にジン酒を高くかざして
盛んに幸福を祝う暴落は
三色版なれども我が哀れなる膏薬の如き
壁に垂れたること久し
青黒き滑稽なる我が生命は
鳳仙花のようにかなり貧弱に笑う

 (7)

結婚をした女の人が沢山歩いている
気の弱い人は皆な驚く

 (8)

頭の明晰ということは悪いことである
けれども上級の女学生はそれを大変に愛する

 (9)

ミレーの晩鐘の中にいる青年が
穿いているズボンの様に筋がついていないで
ブクブクして青ぼったいのは
悪いことである

 (10)

女の人が富裕な重苦しい世界を
到る処へ運んでいかなければならないことは
今いっぺん真面目に考えて見なければならない

 (11)

銅銭を水に漬けてから使用する方が
礼節に富んだ世界である
然し
沈黙は軽薄なことである
影はあまりに鮮明で面白くない
山の中で寂莫が待っているとは
厄介なやつである

 (12)

随分ナマイキな男が
ステッキを振りまわしつつ
木造の家に入って行ってしまった

 (13)

夕日が親戚の家を照らしている
滑稽な自然現象である

 (14)

一個の丈夫な男が二階の窓から
自己の胸像をさらけ出して
桜んぼの如き慘憺たる色彩を浴びる

 (15)

夕暮が来ると
樹木が柔かに呼吸する
或はバルコンからガランスローズの地平線をみる
或は星なんかが温順な言葉をかける
実になっていない組織である

 (16)

秋という術語を用いる時間が来ると
草木はみな葉巻の様な色彩になる
なんとキモチの悪い現実である

 (17)

気候がよくなるとイラグサの花が発生している
三メートル位の坂をのぼって
だんだんと校長の方へ近づく

 (18)

シルクハットをかむって樹木をみていると
頭が重くなる

 (19)

洋服屋の様にテーブルの上に座って
口笛をふくと
ペルシャがダンダンと好きになる
なにしろバラの花が沢山あり過ぎるので
窮迫した人はバラの花を駱駝の朝飯にする
なにしろガスタンクの中にシャーベットを
貯蔵して夕暮が来ると洗濯をしたり
飲んだりするなんて
随分真面目になってしまう

 (20)

進軍ラッパをとどろかしてからフチなし眼鏡をかけて
パイプに火をつける瞬間は忽然たるものである
そうして自画像が極端によく出来ている

 (21)

王様の誕生日にハモニカを吹奏して
勲章をもらった偉人は
サマルカンドの郊外に開業している得業士である
彼の義父はアラビアに初めて
茄子を輸入した公証人であった

 (22)

蒸し暑い朝の十時頃路端の草の上に
腰かけて女優の絵葉書を五、六百枚位懐から出すことは
大体に於て崇高なる魔術師である

 (23)

薄弱なる頭髪を有する男の人物が
モミジの樹に小さいセミが付着しているのを
聴いている
なんと幸福なる緑の弊害である

 (24)

真赤なクツシタを穿いてブラブラ散歩に出たけれども
公園に廻り我が余りに清きクツシタをはきかえる
其の崇厳なる音楽

 (25)

カイロの街で知合になった
一名のドクトル・メジキネと共に
シカモーの並木をウロウロとして
昨夜噴水のあまりにヤカマシきため睡眠不足を
来せしを悲しみ合った
ピラミッドによりかかり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使は銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかなる現実であるよ

 (26)

古い帽子の内面を淋しがるようじぁ
駄目だ まだ精密でない
ツクシンボウの中で精霊の夢をみんとして
寒暖計の水銀球を愛するのである
何んにつけても
愛らしき春が革靴の下で鳴るのである

 (27)

牧場の様にこと程そんなに質素な庭に
貿易風が吹く頃は
尖んがった頭蓋骨と顎が
整列する
こんなものはおれの兵隊には不適切である
又彼等はおれの軍楽隊に入って貰うには
余りにムラサキのヒゲがある
それから第一に彼等はメロンが好きでないから困る

 (28)

女性的にクニャクニャした空を
菩提樹が足をハリ上げて蹴る強烈なる正午に
若き猶太人をのせた自動車が
凱旋門を通過し伊太利料理へと進行す
キャンティよ汝は……

 (29)

脳髄の旋転が非常に重い
そうして具体的に渋いのは海岸線である
太陽太陽が出るのである
香水の商売をしているヘブライ人が
ナギのいい砂漠の上に額をこすりつけて
礼拝する

 (30)

《熱帯の孤島にある洋館の一室
中央にただひとり藤椅子の上に
船長の細長い顔した令嬢が座っていた
崇厳なる処女の無口とその高価なる大絨毯のため
一青年は紙煙草の灰を落す場所なく遂に
自殺をした》
なんたる猛烈たる日中であるよ
しかしそうでもないよ

 (31)

死人の机の中から
紙煙草の銀紙で造った大なるボールを発掘した。
なんたるハイマートクンストであるよ

 (32)

平らべったい山脈に
フロックコートをきて立つ
そうしてシノノメを待つ
三脚と杖は
実に清潔なる影をなげることになる
なんと偉大なる感情家で天然の法則はある

 (33)

世界がつまらないから
泰西名画を一枚ずつ見ていると
遂に一人の癇癪もちの男が
郷里の崖に祝福を与えている

 (34)

割合に体裁のいい景色の前で
混沌として気が小さくなってしまう瞳孔の中に
激烈に繁殖するフユウシアの花を見よ
あの巴里の青年は
綿の帽子の中で指を変に屈折さす
郵便局と樹があるのみ
脳髄はデコボコとして
痛い

(大正15年=1926年11月「三田文学」、仮名づかいは詩集『近代の寓話』収録時の新仮名づかいに拠りました。)

エルモ・ホープ Elmo Hope - ヒアズ・ホープ!&ハイ・ホープ!Here's Hope ! & High Hope ! (Celebrity, Beacon, 1962)

エルモ・ホープ - ヒアズ・ホープ!&ハイ・ホープ!(Beacon, Celebrity, 1962)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ヒアズ・ホープ!Here's Hope ! (Celebrity, 1962)
Recorded in New York, 1961
Released by Celebrity Records LP 209, 1962
Produced & Published by Joe Davis
All compositions by Elmo Hope

(Side 1)

A1. Hot Sauce - 3:32
A2. When the Groove Is Low - 4:59
A3. De-Dah : https://youtu.be/CPkK8c-BN0Y - 4:26

(Side 2)

B1. Abdullah - 3:45
B2. Freffie - 3:37
B3. Stars over Marakesh : https://youtu.be/-Q2amsyJVTk - 6:44

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
Paul Chambers - bass
Philly Joe Jones - drums

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ハイ・ホープ!High Hope ! (Beacon, 1962)
Recorded in New York, 1961
Released by Beacon Records LP 401, 1962
Produced & Published by Joe Davis
All compositions by Elmo Hope

(Side 1)

A1. Chips - 4:56
A2. Moe's Bluff : https://youtu.be/JJKrC24bHTA - 4:19
A3. Happy Hour - 4:03

(Side 2)

B1. Mo Is On - 4:28
B2. Maybe So - 4:37
B3. Crazy : https://youtu.be/KaT0sfakGTI - 4:15

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
Paul Chambers - bass (Side 1)
Philly Joe Jones - drums (Side 1)
Butch Warren - bass (Side 2)
Granville T. Hogan - drums (Side 2)

(Original Beacon "High Hope !" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 ニューヨーク出身の不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)は1957年には前年に組合から謹慎処分を受けて仕事を求めてロサンゼルスに渡りましたが、ロサンゼルスでも1957年10月~1959年8月までに5回のレコーディング・セッションしか仕事にありつけず、LP3枚半(うち自己名義1作)を残したのみで行き詰まり、当地で再婚した12歳年下の夫人の出産、乳児の成長を待ってようやく1961年にニューヨークに戻りました。組合の謹慎期間が5年間だったのもありますが、1961年には'40年代からR&Bやゴスペルのレコードを出していたBeacon Records、Celebrity Records、Granville Records社長のジョー・デイヴィスの下でビーコンとセレブリティ用に1枚ずつのアルバムをトリオ編成で録音することになります。ホープが前科者で執行猶予期間ぎりぎりだったため録音年月日は意図的に隠蔽され、慎重を期して発売は翌1962年になりました。1961年にごく一部のプレス分のみ出回った、との説もありますが、何しろR&Bの小インディー・レーベルですから正確な記録が残っておらず、またジャケット写真も同一時の撮影が明らかなように実質何日かかって録音されたか、別テイクやアルバム未収録曲の録音もあったかも定かではないのです。プレス枚数は当時の最小ロットだった300枚にも満たないのではないかと言われ、またジャズのレーベルからのリリースではなかったためにまったく注目されず、『ハイ・ホープ!』はLP再発されるまで1985年まで廃盤になり、『ヒアズ・ホープ!』の再発売は初CD化でもある1992年までかかりました。しかもこの2枚はどちらもAB面3曲ずつの6曲ずつ収録なのはともかく10インチLP並みのAB面合わせて27分あまりしかなく、カップリングされた2イン1CDでも全12曲トータル54分しかありません。2作ともこのセピア色の使い回し写真のジャケットは一周回って「このジャケットなら中身はいいぞ」と辛酸なめたリスナーの琴線に触れるものですが、良く言って無欲、悪く言えば売る気のまるで感じられないジャケットと収録時間の短さになったのは、もともとSPレコードや10インチLPしか作ってこなかったR&Bの、しかも社長一人で三つもレーベルを経営しているこの会社ならではであり、さらに問題となるのは2作ともジャケットに「Featuring Elmo Hope Plays His Original Composition」と全曲オリジナル曲なのが謳ってありますが、レコードには「All Songs by Elmo Hope (Joe Davis Music) - ASCAP」と全曲の著作権登録をビーコン&セレブリティ社長ジョー・デイヴィスの会社名義で新曲として登録していることです。

 この2作はセレブリティからの『ヒアズ・ホープ!』が全6曲ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)で、ビーコンからの『ハイ・ホープ!』が全6曲中A面3曲チェンバースとフィリー・ジョー、B面3曲がブッチ・ウォレン(ベース)、G・T・ホーガン(ドラムス)であることから、発売の前後は明確ではありませんが(『ハイ・ホープ!』の方が1961年リリース説もありますが)、旧知のフィリー・ジョーとチェンバースとのトリオで9曲を録音し、どうせならあと3曲足して6曲ずつ2枚に分けようとウォレン、ホーガンとのトリオで3曲追加録音されたと推定されています。そしてセレブリティ&ビーコン社長のジョー・デイヴィスは自分の会社名義で新曲として著作権登録したのですが、実は収録の全12曲がすでにホープのレコーディングに残された旧作の再レコーディングで、いわば新録音によるホープ・オリジナル曲のベスト盤のようなものでした。その出典は一応最近のロサンゼルス時代の新曲は避けて、ホープのジャズ・デビューになったブルー・ノート・レコーズでの1953年録音・1954年録音曲の大半をトリオ編成で再レコーディングしています。
(1)*Lou Donaldson & Clifford Brother Quintet "New Faces, New Sounds" (Blue Note BLP 5030, 1954) : Recorded June 9, 1953
『Here's Hope !』A3「De-Dah」
『High Hope !』
(2)*Elmo Hope Trio "New Faces, New Sounds" (Blue Note BLP 5029, 1954) : Recorded June 18, 1953
『Here's Hope !』B2「Freffie」, B3「Stars over Marakesh」
『High Hope !』A3「Happy Hour」, B1「Mo Is On」,
(3)*Elmo Hope Quintet "Elmo Hope Quintet Volume. 2" (Blue Note BLP 5044, 1954) : Recorded May 9, 1954
『Here's Hope !』A1「Hot Sauce」, A2「When the Groove Is Low (Originally Titled "Abdullah")」, B1「Abdullah (Originally Titled "Low Tide")」,
『High Hope !』A1「Chips」, B2「Maybe So」, B3「Crazy」
(4)*Lou Donaldson Sextet "Lou Donaldson Sextet Volume. 2" (Blue Note BLP 5055, 1955) : Recorded August 22, 1954
『High Hope !』A2「Moe's Bluff」

 ブルー・ノートでの4枚はすべて10インチLPでしたが、(1)では全6曲中4曲、(2)では全9曲(うちスタンダード1曲オリジナル盤未収録)中7曲(うち1曲「Carvin' The Rock」がクインテット編成の1からのトリオ編成での再演)、(3)では全6曲中全6曲、(4)では全4曲中1曲の新作オリジナル曲を披露していましたから、ブルー・ノートでは4回のセッション(うち2回はホープ自作名義)でホープは25曲を録音、20曲(うち1曲のみクインテットとトリオでの重複再演なので実際は19曲)ものオリジナル曲を残してきたことになります。しかしインディーのブルー・ノートでは著作権登録はミュージシャン自身に任せていたらしく(サヴォイやプレスティッジはオリジナル曲著作権ごと買い取りでした)、ブルー・ノートにとっては良心的な措置で著作権アーセナルに任せていたのですが、ビーコン&セレブリティ社長のジョー・デイヴィスはホープ著作権登録を済ませていないのに目をつけてホープのブルー・ノート時代のオリジナル曲19曲中12曲を再録音させ、自分の「Joe Davis Music」社に新曲として著作権登録してしまったのです。ブルー・ノートでのホープの録音はドナルドソン&ブラウン・クインテット、ドナルドソン・セクステットが12インチLPで再発売されていただけでホープ自身のトリオの(2)とクインテットの(3)は12インチLP・リイシューされずに廃盤になっていましたから、ジャズの熱心なリスナーにとっては稀少廃盤からの再演、普段R&Bを聴いているビーコン&セレブリティのリスナーにとってはまったくの新曲集として本作をリリースするのは二重にも三重にもお得な企画(旧録音のブルー・ノート盤の売り上げからも楽曲印税が入ってくる!)でした。追加録音3曲のウォレン、ホーガンもハード・バップの中堅実力派ジャズマンですし、旧友フィリー・ジョーとチェンバースは泣く子も黙るマイルス・デイヴィスの最強ドラマー&ベーシストです。これらのジャズマンがホープ5年ぶりのニューヨーク・カムバックじゃないか、ロサンゼルスでも4年間パッとしなかったそうじゃないかとおそらく飲み代程度のギャラでレコーディングを引き受けたと思うとジャズマン同士の友情に泣けてきます。メンバーたちはブルー・ノート時代のホープのアルバムを聴き返してきて、じゃ張り切って行くかと再録音に臨んだのでしょう。録音段階ではセレブリティの『ヒアズ・ホープ!』、ビーコンの『ハイ・ホープ!』に振り分けられるとも考えずブルー・ノート盤よりも気合の入った演奏をと存分に力を奮ったはずです。

 その結果本作は、ホープのロサンゼルス時代の名盤『エルモ・ホープ・トリオ』よりもさらに力強く、自信に満ちて、しかも負け犬キャリアをたどってきたホープの負け犬の遠吠えのようなテンションが実力以上の力を発揮させたような傑作二部作になりました。ここで聴かれる曲はブルー・ノート時代のオリジナル曲の再演ばかりですが、その後の結果的に尻すぼみになったようなプレスティッジ時代、糠に釘を打つように何をやっても空振りになったロサンゼルス時代から一転して、これまでのホープには聴けなかったほどの強靭かつ歯切れの良いピアノ・トリオ演奏が聴けます。チェンバースのベース、フィリー・ジョーのドラムスに対しても一歩も引かないほどで、旧作の再演なのがまったく弱点になっておらず、ここで初めて思い通りの演奏ができたかのように溌剌としたピアノが聴けます。先輩のセロニアス・モンクや幼なじみの学友バド・パウエルとは遠く引き離されてきたホープがここではモンクやパウエルにもひけをとらない強靭なスタイルを初めて実現してみせたので、ロサンゼルス時代の名盤『エルモ・ホープ・トリオ』もどこか食い足りないホープの軽さをウエスト・コーストの名手たちと組んで上手く生かしたところに良さがありましたが、逆に解せばベースのジミー・ボンド、ドラムスのフランク・バトラーがホープから力みのないプレイを引き出したとも言えるアルバムでした。『ヒアズ・ホープ!』『ハイ・ホープ!』のホープは本来ホープが目指していただろう硬派なビ・バップ・ピアノに紆余曲折してようやくたどり着いた達成であり、フィリー・ジョー&チェンバース組との録音とウォレン&ホーガン組との録音で落差がないのがこの硬派路線をホープ自身がはっきり主導した証しになっています。R&Bのレーベル制作のジャズのピアノ・トリオ作という事情もあるからか低予算だったに違いないにもかかわらず録音はクリアで十分な迫力があり、ニューヨーク復帰第1弾にして会心作と呼べるだけの傑作に仕上がっています。ただしこの2枚は合わせて1作と見ないとホープ・スタンダードの総決算の意図をなさない難点があり、また前述してきたような制作事情からただでさえ不遇ピアニストだったホープのアルバム中でも当初から見向きもされなかったどころか、リリースされていたことすら長い間気づかれなかったアルバムでもあります。ホープの全アルバムを聴くとこの2作がいかにホープの楽歴でピークをなしているかが沁みてくるのですが、同時にこれはもっとも注目されず聴いている人も少ないアルバムなので、結局成功作なのか失敗作なのかわからないような微妙な位置にあります。ホープの場合はこれほどの傑作を作っても決定的な評価には結びつかなかったので、ホープのキャリアとアルバムについて詳細に調べれば調べるほどおそらく他のレーベルでこの趣向のアルバムを作ったとしても時代錯誤のレッテルを貼られておおむね無視されるのがせいぜいだったのではないか、と思えてもくるのです。この生前葬のようなアルバムのあとホープは1961年中にさらに2作を作り、1962年には麻薬逮捕で収監され、2963年には服役仲間だったジャズマンと『Sounds From Rikers Island』(ライカーズ島はニューヨークの麻薬犯更正施設のある島です)を作り、その後は細々と散発的なライヴで生計を立てます。ピアノ・トリオによる1966年3月8日録音の5曲、5月9日録音の10曲はホープ最後の録音になり、今度は正真正銘の生前葬的録音になったばかりかホープ没後の1977年までリリースされないお蔵入りアルバムになり、健康を害していたホープは1967年5月19日に逝去しますが、その直後のジョン・コルトレーンの急逝(7月17日)に隠れてまったく注目されませんでした。なお今回の『ヒアズ・ホープ!』『ハイ・ホープ!』に全曲のリンクを貼れなかったのは大いに無念で、つまりこの2作はそれほど人気がない、ということです。リンクを引けた4曲はいずれも快演ですから、せめてものサンプルとしてよすがをしのんでいただけたら幸いです。

西脇順三郎「馥郁タル火夫」(昭和2年=1927年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)

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「馥郁タル火夫」

 西脇順三郎

 ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に椅りかゝりて如何に滑らかなる没食子が戯れるかを見よ!
 集合的な意味に於て非常に殆ど紫なるさうして非常に正当なる延期!ヴエラスケスと猟鳥とその他すべてのもの。
 魚狗の囀る有効なる時期に遥に向方にアクロポリスを眺めつゝ幼少の足を延してその爪を新鮮にせしは一個の胡桃の中でなく一個の漂布者の頭の上である。
 間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらんとする水牛を!
 口蓋をたゝいて我を呼ぶ者あらば我はひそかに去らんとする。けれども又しても口中へ金貨を投ずるものあり。我はどならんとすれども我の声はあまりにアンヂエリコの訪れにすぎない。躓きたれども永遠は余りについてかまびすし。
 色彩りたる破風よりクルブシを出す者あれば呼びて彼の名称を問ふ。彼はやはりシシリイの料理人であつた。
 堤防を下らんとする時我が頸を吹くものがある。それは我が従僕なりき。汝すみやかに家に帰りて汝の妻を愛せよ!
 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。
 或は窓掛の後ろより掌をかざすものあれども睡眠は薔薇色にして蔓の如きものに過ぎない。
 我は我の首飾をかけて慌しくパイプに火をつけて麦の祭礼に走る。
 なぜならば巌に水の上に頤を出す。呵梨勒を隠す。
 筒の如き家の内面に撫子花をもちたる男!
 ランプの笠に関して演説するものてはない然し使節に関して記述せんとするものだ。窓に椅りかゝり音楽として休息する萎縮病者の足をアラセイトウとしてひつぱるのである。
 繁殖の神よ!夢遊病者の前に断崖をつくりたまへよ!オレアンダの花の火。
 桃色の永遠に咽びて魚をつらんとする。僧正ベンボーが女の如くさゝやけばゴンドラは滑る。
 忽然たるアカシアの花よ!我はオドコロンを飲んだ。
 死よさらば!
 善良な継続性を有する金曜日に、水管パイプを捧げて眺望の方へ向かんとする時、橋の上より呼ぶものあれば非常に急ぎて足を全部アムブロジアの上にもち上げる。すべては頤である。人は頤の如く完全にならんとする。安息する暇もなく微笑する額を天鵞絨の中に包む。
 コズメチツクは解けて眼に入りたれば直に従僕を呼びたり。
 脳髄はチキンカツレツに向つて永遠に戦慄する。やがて又我が頭部を杏子をもつてたゝくものあり。花瓶の表面にうつるものがある。それは夕餐より帰りしピートロの踵。我これを憐みをもつてみんとすれどもあまりにアマラントの眼である。
 来たらんか、火よ。

(昭和2年=1927年12月・同人誌「馥郁タル火夫ヨ」序文)


 今回の「馥郁タル火夫」は西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が西脇教授を慕う慶應大学の学生の創刊した同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」の序文として書き下ろした詩篇で、のちに前半が「LE MONDE ANCIEN」(古代世界)、後半が「LE MONDE MODERNE」(現代世界)に分かれた西脇順三郎の日本語の第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月刊)の後半をなす「LE MONDE MODERNE」の巻頭に置かれて収録されました。西脇順三郎は英文学科教授でしたが英語、フランス語、イタリア語、ラテン語ギリシャ語、古代支那語にも堪能だったので、学科を問わず慶應大学学生とその関係の青年詩人たちに最新の文学思潮の教示を請われていたのです。1号で終わった同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」は特にフランス象徴詩~現代シュルレアリスム詩に傾倒している青年詩人たちの集まりでした。西脇は同人詩誌名を求められて「馥郁タル火夫ヨ」と提案し、序文を請われて自動手記的なシュルレアリスム詩の見本みたいなものでいいかと確かめ、翌日にはこの「シュルレアリスム詩の見本」を書き上げてきたそうです。昭和2年に日本の現代詩がどんなものだったかはこれまでにさまざまな詩人の詩をご紹介してきましたが、この同人詩誌「馥郁タル火夫ヨ」序文改め「馥郁タル火夫」(詩集『Ambarvalia』収録の際に改題)は日本語の破壊と再構築の度合いでは空前のものと言ってよく、口語脈と文語脈が無遠慮に混淆されてもいればギリシャ文学、ローマ文学、ルネッサンス文学から容赦なく固有名詞が引用され(「僧正ベンボー」も実在のルネッサンス文学者名です)、かと思えば「何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。」とは当時の実際の慶應大学敷地内での情景だそうです。しかしそれは内輪受けの冗談を狙ったものにとどまらず着想の諧謔の効果のためであり、「脳髄はチキンカツレツに向つて永遠に戦慄する。」という絶妙のクライマックスに向かってユーモアがとぐろを巻いていきます。そしてこの序文詩はタイトル通り「来たらんか、火よ。」と火夫の呼びかけで終わるので、自動手記どころか見事な一貫性と完成度を達成しています。この詩篇ものちに西脇順三郎自身による引用箇所の解題や註釈がありますが、わからないならわからないまま修辞のスパイラルに巻きこまれればいいので、西脇順三郎の詩は読者の理解度を顧慮しない底抜けのユーモアに満ちあるふれたものです。この機関銃のようなギャグの連発に馴れてくれば、「馥郁タル火夫」は語感の連想でたたみかけてくるリズムに面白さのある詩というのがわかります。それは今日の日本語ラップの比ではない革新的なものだったのです。

ワパスー Wapassou - サランボー Salammbo D'apres l'oeuvre de Gustave Flaubert. (Crypto, 1977)

ワパスー - サランボー (Crypto, 1978)

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ワパスー Wapassou - サランボー Salammbo D'apres l'oeuvre de Gustave Flaubert. (Crypto, 1977) Full Album : https://youtu.be/B59Fz1Uzsp4 : https://youtu.be/JUCmEyPtsuY
Recorded at Studio 16 d'Antibes, Septembre 1977.
Released by Disques RCA / Crypto ZAL 6437, 1977
Recording Engendered by Fernand Landmann
Produced by Jean-Claude Pognant
Composed by Freddy Brua

(Face 1)

A1. サランボー・パート1 Salammbo (1re partie) - 18:04

(Face 2)

B1. サランボー・パート2 Salammbo (2e partie) - 19:05

[ Wapassou ]

Freddy Brua - claviers
Karin Nickerl - guitares et basse
Jacques Lichti - violon
et.
Monique Fizelson, Jean-Pierre Massiera - chant

(Original Crypto "Salammbo" LP Liner Cover & Face 1 Label)

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 ワパスーのサード・アルバムの本作は前作『ミサ・ニ短調(Messe en re mineur)』に続くクリプト・レーベル三部作の2作目で、クリプトはアンジュのマネジメントで成功したジャン=クロード・ポニャンが設立したインディー・レーベルでしたが、前作はワーナー=WEA・レコーズから配給され、本作と三部作最後の『ルートヴィッヒ2世(Ludwig, un roi pour l'eternite)』1979はRCA=ヴィクター・レコーズからの配給になりました。クリプトはカルペ・ディエム、アトランティーデ、アンジュ・フォロワーのモナ・リザなどのアルバムもリリースしていましたが、フランスでは英米スタイルのサイケデリック・ロックハード・ロックプログレッシヴ・ロックの国産バンドはドイツやイタリアよりやや遅れてデビューしたとはいえ、また所属・制作はインディー・レーベルだったとはいえ、よくワパスーのような非商業的音楽性のバンドがメジャー流通に乗ったものです。ワパスーはストラスブールで1972年に結成され、1974年に自主制作盤でデビューしたバンドで、クリプト・レーベルでの三部作のうち最初の『ミサ・ニ短調』1976と『ルートヴィッヒ2世』1979は年代は確かなのですが、本作は1977年発売説と1978年発売説の2通りがあり、ジャケットのデータ欄には1977年9月録音、著作登録1977年とありますから原盤完成と著作権登録、ジャケットとLPのプレスは1977年内に終わっていたとしても市場に流通したのは翌1978年初頭だったので各種媒体で1977年説と1978年説の2説にデータが分かれたと思われます。『ミサ・ニ短調』の録音が1976年7月、本作が1977年9月録音、次作『ルートヴィッヒ2世』の録音が1978年11月ですから『ミサ・ニ短調』は1976年晩秋、『ルートヴィッヒ2世』は1979年早春で妥当として、9月録音の本作のリリースが年内だったか年をまたいだかは微妙ですが、ぎりぎりクリスマス・シーズンまでには間に合わせた可能性も高いので今回は一応1977年発売説を採っておきました。

 本作は『ギュスターヴ・フローベールの作品より』と原題の副題にある通り、19世紀のフランス小説家フローベール(1821-1880)の、『ボヴァリー夫人』1857に続く第2長編小説『サランボー』1862のイメージ・アルバムを想定して制作されたものです。フローベールは生涯に長編小説5作(最終作は未完)、短編小説集1冊しか書かなかった寡作家でしたが、1行書くのに1日考えるというほど彫心鏤骨の文学者で、小説6冊がすべて異なる作風・題材という身を削るようなタイプの作家でした。社会小説的なリアリズムの不倫小説『ボヴァリー夫人』の次作に当たる『サランボー』は古代カルタゴの戦争と巫女の運命を精密な歴史考証によって描いた大歴史ロマンで、これは日本では大正2年(1913年)にニーチェ全集の翻訳者・生田長江によって口語と文語を混淆した凝った苦心の翻訳で刊行され、横光利一出世作となった邪馬台国卑弥呼の物語「日輪」(大正12年=1923年)に題材・文体とも直接の影響源になりました。

 そんな大層な長編小説をモチーフにしたプログレッシヴ・ロックのトータル・アルバムというとさぞ大仰なものが予想されますが、本作はA面のパート1冒頭、B面のパート2冒頭に男声による短いテキスト朗読とSEが入るだけで、特にダイナミックな楽章構成も感じさせないキーボード、ヴァイオリン、ギターによるアンサンブルが淡々と演奏され、各種楽器をフィーチャーしたパートが代わるがわる現れ、時おり女声スキャットのパートや男声ヴォイスのかけ声が入る、といった程度です。イギリスのジェスロ・タルジェネシスを起源としたプログレッシヴ・ロックの流派はシアトリアル(演劇的)・ロックと呼ばれることもあり、カトリーヌ・リベロ+アルプやアンジュなどはタルやジェネシスとは独自にフランスならではのシアトリアル・スタイルを築いていました。それはリベロ+アルプやアンジュが強力な強力なヴォーカリストをフィーチャーしたバンドだったからですが、ワパスーの場合はヴォーカルはあくまでゲストでしかなく、クリプト三部作では歌詞すらほとんどありません。本作では歌詞が歌われるのはパート2の6分~7分台だけです。ワパスーがシアトリアルだとしてもほとんどサイレント映画かパントマイム的なもので、能楽のようにスローな所作が浮かんでくるくらいのものです。前作『ミサ・ニ短調』よりは多少ダイナミズムを意識した構成が見られますが、それはワパスーの作品同士の比較であって一般的なロック、ポップスの基準ではこれほどつかみどころのない、しかもロック作品として意図されたアルバムはないでしょう。今ならアニメのサウンドトラックのような、という言い方もできますが、ワパスーの活動していた時代のアニメや映画のサウンドトラックはもっとゴージャスで、ポップスやジャズ、ロックのキャッチーな側面を思いきり強調したようなものでした。ドイツにヴェルナー・ヘルツォーク映画の専属サウンドトラックだったバンド、ポポル・ヴーという存在がいましたが、ワパスーにいちばん近いのはおそらくポポル・ヴーをおいて他にないでしょう。

 ワパスーのクリプト三部作をひと通り聴くと、1作ごとに音色や断章的な楽想が多彩になっていき、『ルートヴィッヒ2世』で行くところまで行った感が強いのですが、実は『ルートヴィッヒ2世』の冒頭テーマ(モチーフ)も本作のパート2の8分40秒から2分に渡ってすでに出てきているのに気づきます。本作ではその直後、10分40秒から2分に渡ってクライマックスとも呼べる展開があるので独立した楽章という感じがせず、またアンサンブルの担当楽器の割り振りやアレンジもまったく違うので本作と『ルートヴィッヒ2世』を1回聴いただけではわからないくらいですが、このパート2の8分40秒からの2分のモチーフは『ルートヴィッヒ2世』の冒頭テーマでは空前絶後の突拍子もないアープ・シンセサイザーの音色で奏でられます。フランスのバンドはおしなべてキーボードの音色が独特で、オルガンひとつ取ってもハモンドオルガンを使用しているバンドはほとんどなく、ヴォックス・オルガンかファルファッサ・オルガンをさらに霞のかかったようなフィルター処理とエフェクトをかけて霧笛のような音色で録音しており、リスナーの共感覚を惑わすようないかれた音色ばかりなのですが、ムーグ・シンセサイザーやアープ・シンセサイザーの使用法も酩酊感極まりない音色とフレーズが見られ、『ルートヴィッヒ2世』ではそれが常軌を逸した域にまで達しています。唯一前例があるとすればサン・ラのアープ・シンセサイザーの音色使用法なのですが、それを言えばフランスは世界に先駆けてサン・ラの変態ジャズを受け入れた国でした。ワパスーは全曲の作曲を手がけるキーボード奏者フレディ・ブレアのバンドと言ってよいでしょうが、ヴァイオリンのジャック・リュシュティ、女性ギタリストのカラン・ニッケルばかりかブレアのキーボードも他のバンドではまず通用しない、演奏力では稚拙も稚拙なメンバー揃いのバンドながら、それがワパスーというバンド・コンセプトの最良の部分ではドイツの鬼才フローリアン・フリッケ率いるポポル・ヴーに匹敵するものになっており、いわゆる歌や楽器演奏の上手い下手ではない純粋なセンスによってのみ成立するロックならでは通用する音楽として成功しています。ワパスーの同郷ストラスブールの19世紀画家ギュスターヴ・ドレ(1832-1883)の戦争画を使っても位負けしないばかりかフローベールの大長編小説、ドレの戦争画をともに配した表題音楽の趣きがあり、では表題音楽的なロックというのが他にあるかと言えばやはりポポル・ヴーのような例外的存在を除いてそうそうあるものではありません。ワパスーは習作的な自主制作盤を除くとクリプト三部作に尽きているバンドですが、ワパスーの個性はポポル・ヴーとも違うので、他に代えのきかない三部作を残したというだけでもこれはあなどれない音楽です。打ち込みでこれができるという方がいれば、ゼロからこれが創れるか耳を澄ましてみてください。

西脇順三郎「薔薇物語」(詩集『Ambarvalia』昭和8年=1933年より)

西脇順三郎第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)
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「薔薇物語」

 西脇順三郎

ヂオンと別れたのは十年前の昼であつた
十月僕は大学に行くことになつて
ヂオンは地獄へ行つた
霧のかゝつてゐる倫敦の中を二人が走つた
ブリテン博物館の屋根へのぼつてしかられた
ヂオンの写真はその後文学雑誌に出た
鉛筆の中で偉らさうに頬骨を出した
公園にクローカスの花が石から破裂する時
黄色い曲つた梨がなる時
毎日酒場とカフエと伊太利人の中で話した
ヂオンが寝る所はテムズ河の南の不潔な
町の屋根裏であつて、電気がないから
ビール瓶の五六本にローソクを花のやうに
つきさして、二人の顔を幾分あかるくした
ビール箱にダンの詩とルイスの絵を入れた
僕はその時分は南ケンジントンのブラムプトン
にある薔薇のついたカーペトのあるホテル
に住んでいた。我々はこのホテルを
ロマン・ド・ラ・ローズと呼んでゐた
時々、月影にやき栗をかつて、一緒に
ロマン・ド・ラ・ローズの中へはひつて
電気をつけて悲しんだ
その頃時々遊びに行つたところは
プロレタリアトの雑誌に小説をかいて
ゐた盲目の青年のところであつた。彼は
休戦条約の祝賀会に烟火をあげてヒゲと
眼をやいた勇敢な人であつた。その妻君は
非常に親切で我々を歓待してくれた
その夫婦のゐる室の下が路次の酒場
になつてゐた。十時すぎになると笛吹きが
現はれて流行唄をピユコ\/吹いてゐた
或る晩、その男を部屋へ呼んで話を
した(笛をふくつもりで遂話ばかりになり)
ビールとソーセヂをなめながら
戦後は時勢がヽはり商売にならないとこぼした

(昭和8年=1933年5月「椎の木」)


 この「薔薇物語」は西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が「三田文学」大正15年(1926年)7月最初に発表した日本語詩「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」同様に大正15年6月発表のフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇自身による日本語訳で、成立はもっと早いと思われますが発表は日本語による第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)刊行の直前に「椎の木」に詩集の予告的(実際は詩集書き下ろしと同然です)に掲載され、前記4篇に続いて連載詩「失楽園」の部に収められました。イギリス留学経験と帰国後の感慨が交錯する前記4篇に較べ、本作はイギリス留学時の回想詩で、学友「ヂヨン」と呼ばれているのは猿を妻にした青年を描いた長編小説『猿妻(モンキー・ワイフ)(His Monkey Wife: or Married to a Chimp)』1930、短編集『炎の中の絵(Pictures in the Fire)』1958などで知られる年少のイギリスの異色作家ジョン・コリア(1901-1980)です。語学に堪能だった西脇は18歳から英語で詩作を始め、イギリス留学時には古典的な19世紀ロマン派風の詩稿を仁義を切る時に携えていったそうですが、時はヨーロッパ文学ではモダニズム最盛期の1922年(ジェイムズ・ジョイスの大長編『ユリシーズ』、T・S・エリオットの長編詩『荒地』)の年で、西脇はすぐに最新の文芸思潮を学んでモダニスト詩人に転向しました。オックスフォード大学への入学が書類不備で間に合わず1年間先送りになってしまったので、その時に西脇と交換留学で日本で教鞭を取ることになった文学者シェラード・ヴァインズがイギリス生活のガイド兼学友として西脇に紹介し、もっとも親しくなったのがまだ20代初めの文学青年ジョン・コリアだったそうです。西脇はコリアを通して当時最新のヨーロッパの文芸思潮を学ぶことになりました。これはその友情の記録の詩なのですが、あまりに修辞にデフォルメーションが激しいので一読しても何が書いてあるのかわかりません。しかしこれが楽しみに満ちた青春の回想なのは行文から伝わってくるので、一見無内容なモダニズム詩の本作が西脇を師表した「詩と詩論」の若手詩人のような言葉のポップ・アート化ではなく、現実体験の定着に極端なデフォルメを施した、西脇自身が「超自然主義(シュルナチュラリズム)」、つまり現実体験が第一義にあり、それを詩的誇張によって成立させたものであるのを証します。フランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」から部分訳して日本語詩に仕立てる発想では大正15年の連作「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」4篇よりも詩集刊行直前の詩集予告発表詩である昭和8年の本作では現実体験による詩であることはより鮮明になっており(それに従ってジョン・コリアとの交流も5年前から「十年前」になり、コリアは貧乏文学青年から作家的地位を獲得した小説家になっていましたが)、西脇順三郎の詩が一見突拍子もない表現に満ちながらも健康で快活な感性に基づく、屈託した明治以降の日本の現代詩とは反対の明朗さを特徴とするものなのをよく示した佳作になっています。青春の文学とは本来このくらいの快活さを備えたものなのにも気づかされるので、西脇の文体は戦後の現代詩の基礎をなすものになりましたが戦後の詩人たちはもっと切迫した青春しか送れなかったことでも、西脇の詩はそれまでの現代詩とも戦後の詩とも切れた別格的明るさに花開いたとも言えるのです。

エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio (High-Fi Jazz, 1960)

エルモ・ホープ・トリオ (High-Fi Jazz, 1960)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio (High-Fi Jazz, 1960) Full Album : https://youtu.be/2Ao28_25Oik
Recorded at Radio Recorders Studio B, Los Angeles, February 8, 1959
Released by High-Fi Jazz Records J(S)-616, 1960
Produced by David Axelrod
All compositions by Elmo Hope except as indicated

(Side A)

A1. B's A-Plenty - 5:47
A2. Barfly - 6:18
A3. Eejah - 3:55
A4. Boa - 6:00

(Side B)

B1. Something for Kenny - 6:29
B2. Like Someone in Love (Johnny Burke, Jimmy Van Heusen) - 7:32
B3. Minor Bertha - 4:51
B4. Tranquility - 2:58

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
Jimmy Bond - bass
Frank Butler - drums

(Original High-Fi Jazz "Elmo Hope Trio" LP Liner Cover & Side A Label)

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 不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)の4年ぶりのアルバムは、この調べれば調べるほどついていないジャズマンにとって起死回生になるはずの力作になりました。しかも今回のプロデューサーは'60年代の西海岸ポップ&ロック界に名を轟かせるデイヴ・アクセルロッドです。ブルー・ノート・レコーズから1953年にジャズ・デビューした(それ以前はR&B楽団で不遇をかこっていました)ホープは4回の10インチLP(うちホープのリーダー名義作2枚)の録音で翌年契約を打ち切られ、1954年から1956年にはプレスティッジ・レコーズと契約しましたが2年間に1枚の10インチLP、4枚の12インチLPの録音(うちホープのリーダー名義作3枚)でまたもや契約を失い、その上に麻薬所持違反でニューヨークのジャズマン組合からライヴ活動禁止の処分を食らってしまいます。仕事はないが顔は広いホープはディーラーから目をつけられ、密売人のアルバイトで糊口をしのいでいました。1年半後のホープは仕事を求めてロサンゼルスに渡り、かつてのバンドメイトのクリフォード・ブラウンが生前組んでいたつてでブラウンと一時同じバンドにいたハロルド・ランド(テナーサックス)のバンドに加わります。プレスティッジでの最後の録音は1956年5月7日録音の『Informal Jazz』でしたが、ようやく次の録音にありついたのはロサンゼルスのインディー・レーベル、パシフィック・レコーズへの録音で、1957年10月31日とほぼ1年半ぶりになりました。ハロルド・ランドを含むメンバーのホープのリーダー名義の録音でしたが、この時録音されたのは一応全部ホープのオリジナルの新曲ながら、オムニバス・アルバム向けの3曲だけでした。翌1958年1月6日にはランドが参加していたカーティス・カウンス(ベース)・グループでの録音になり、カウンス・グループのピアニストのカール・パーキンス(同名ロックンローラーとは無関係)の体調が思わしくないため制作が進んでいなかったコンテンポラリー・レコーズへのアルバム『Sonority』を完成させるための代役セッションで、予定していた4曲中パーキンスが1曲しか弾けなかったため残り3曲をホープの旧作オリジナル曲を演奏して仕上げた録音でした。同じ1月13日・14日にはコンテンポラリーへのランドのアルバム『Harold in the Land of Jazz』に参加、全8曲中4曲の新曲を提供します。パーキンスは3月に29歳で急死してしまったので、カーティス・カウンス・グループ4月録音のアルバム『Exploring the Future』はホープがそのままパーキンスの後任になって制作されました。全10曲中ホープのオリジナル曲は4曲ながら3曲は旧作の改題で、新曲は1曲だけでした。翌1959年にはレニー・マクブラウン(ドラムス)のアルバム『Lenny McBrowne and the Four Souls』(録音月日不詳)収録曲3曲(うちホープのオリジナル曲1曲)にアレンジのみで参加、ピアノはマクブラウンのバンドのテリー・トロッターが弾いていてホープはあくまでアルバム中3曲のアレンジだけです。そしてようやく全8曲中オリジナル新曲7曲のピアノ・トリオ作の本作『エルモ・ホープ・トリオ』がロサンゼルスの地元インディー、High-Fi Jazzへ録音されたのは1959年2月8日でした。続いて同じレーベルへ8月録音のハロルド・ランドクインテットのアルバム『The Fox』に参加、全6曲中ランドのオリジナル曲2曲、ホープのオリジナル曲4曲で、『エルモ・ホープ・トリオ』とハロルド・ランドの『The Fox』は1970年にロサンゼルスきっての名門インディー社コンテンポラリーから再発売されてホープのロサンゼルス時代の2作の秀作と評価されましたが、1960年の初発売時はまったく評判を呼びませんでした。これがホープの西海岸在住時最後の録音になり、次の録音は再婚した12歳年下の夫人と女児を連れてニューヨークに戻った1961年になりました。

 以上エルモ・ホープが1957年から1960年までのロサンゼルス移住時に参加したのはレコーディング回数6回、アルバム枚数では3枚半、しかもホープ自己名義のセッションは2回、アルバム1枚とオムニバスLP用録音3曲しかないのですが、この時期のエルモ・ホープ、また1940年代~1960年代のロサンゼルス・ジャズの再評価について筆者が知ったのはほぼ30年前に翻訳刊行された『ジャズ・ウエスト・コースト』という研究書でした。それにはチャーリー・パーカーがロサンゼルスに滞在していた1945年から1960年代半ばまでの、これまでウエスト・コースト・ジャズというだけで過小評価、またはまったく見過ごされてきたジャズマンたちのビ・バップ~フリー・ジャズまでが詳しくひも解かれているのですが、同書がアメリカ本国でも話題になったのはその後OJC(Original Jazz Classics)のシリーズで同書で再評価されたアルバムがひと通り初CD化、またはオリジナル・フォーマット通りに初LP再発されたことでもわかります。同書にはカーティス・カウンス・グループとハロルド・ランドについて1章が割かれており、そこにロサンゼルス移住時のホープについても詳述されていたのです。カーティス・カウンスはアート・ペッパー・カルテットを始め西海岸のスター奏者のサイドマンを勤めてきた実力派ベーシストであり、またロサンゼルス時代のホープが頼ったハロルド・ランドクリフォード・ブラウンマックス・ローチクインテットのテナーマンであり、ロサンゼルスで旗揚げしたブラウン&ローチ・クインテットがニューヨークに戻った時に移住を拒否して脱退した(ニューヨークでの後任はソニー・ロリンズだった)という人でした。ロサンゼルス移住時代にホープが共演したミュージシャンもアート・ペッパーチェット・ベイカーらのレギュラー・メンバーだった実力者ぞろいであり、この『エルモ・ホープ・トリオ』のジミー・ボンド(ベース)とフランク・バトラー(ドラムス、カーティス・カウンス・グループ兼任)もニューヨーク移住前のチェット・ベイカーのバンドのレギュラー・メンバーでした。そしてビ・バップ時代から第一線で活動し、西海岸ハード・バップの最有力バンドになったカーティス・カウンス・グループも、ペッパーやチェットのピアニストを勤めていた夭逝ピアニストのカール・パーキンス時代も、クリフォード・ブラウンルー・ドナルドソンクインテット出身のエルモ・ホープ時代もまったく当時は評価されず、生ぬるいウエスト・コースト・ジャズだろうという偏見から1980年代まで見落とされてきたのです。ホープはプロ・デビューになったR&Bのジョー・モリス楽団(ジョニー・グリフィン、マシュー・ジーパーシー・ヒースフィリー・ジョー・ジョーンズ在籍)からジャズ・デビューになったブラウン&ドナルドソン・クインテット(ヒース、フィリー・ジョー在籍)、さらにロサンゼルス移住直前のニューヨークでのプレスティッジの最終録音『Informal Jazz』(ドナルド・バードハンク・モブレージョン・コルトレーンポール・チェンバース、フィリー・ジョー参加)、さらにロサンゼルスでもハロルド・ランドを始めとする一流奏者とばかり共演してきたのに、ホープの行くところホープだけが出世しないばかりか、ロサンゼルスではランド、カウンス、ボンド、バトラーらロサンゼルス現地の一流奏者まで巻き添えにして貧乏くじを引いてきたのです。カウンス・グループでは有望新人パーキンスの死に目に遭うように後釜に座ってカウンス・グループごと凋落した挙げ句、起死回生の名盤となるはずだった力作『エルモ・ホープ・トリオ』、ハロルド・ランドクインテット『The Fox』までまるで注目されませんでした。'60年代後半にはボビー・ハッチャーソンやチック・コリアとも共演するエリック・ドルフィーの旧友、ハロルド・ランド(ブラウン&ローチ・クインテットにランドを紹介したのはチャールズ・ミンガス経由でまだロサンゼルス在住中だったドルフィーを介してでした)はのちにホープを「ピアニストとしてはいまいちだったが、作曲は素晴らしくてね」と回想していますが、実はどこまで行っても貧乏くじのエルモ・ホープ物語はニューヨークに帰郷してもホープの没年まで続くのです。

 12インチLPフォームでAB面8曲45分、7曲新曲オリジナルで1曲スタンダード「Like Someone in Love」の本作は、ニューヨークのインディー・レーベルよりもスタジオの録音水準が高いロサンゼルス録音だけあってA1「B's A-Plenty」から雲の晴れたようなクリアな音質で素晴らしい演奏が聴かれます。ニューヨークのベーシストのヒースやジョン・オール、ドラマーのフィリー・ジョーやアート・ブレイキーのようにいかにも黒人バッパー然としていないボンド、バトラーのベースとドラムスも軽やかなスウィング感に富み、さすがペッパーやチェットのレギュラー・メンバーだっただけのことはある素晴らしい一体感があります。本作はひさびさに粒ぞろいのオリジナル曲の出来も含めてブルー・ノートでのブラウン&ドナルドソン・クインテット、エルモ・ホープ・トリオ、エルモ・ホープクインテット、プレスティッジのトリオ作『Meditations』以来の名作になっていますが、ホープの演奏は100%の実力を出していてもセロニアス・モンクバド・パウエルレニー・トリスターノら強靭なスタイリストの半分くらいしか強くないので黒人ミュージシャンながら白人奏者と組んできたボンド、バトラーくらいの乗りが相性が良かったのを証明するようなレコーディングでもあります。カウンス・グループやランド・クインテットでも西海岸としては硬派ハード・バップながらスウィング感はニューヨークより軽やかなのでホープが管楽器に押し負けせずに実力を発揮できましたが、幼なじみの学友パウエルの愛奏曲でもある「Like Someone in Love」を聴くと力強く激情的に迫ってくるパウエルの演奏とは異なる、ホープならではの軽さが本作では全編に良い作用をもたらしているのが実感されます。ホープはモンクやパウエルはもちろんレッド・ガーランドホレス・シルヴァーウィントン・ケリーソニー・クラークボビー・ティモンズらと較べても軽量級なのですが、ガーランドやシルヴァーらがビ・バップよりもハード・バップ以降にフィットしたスタイルだったのに対してビ・バップのルーツを離れなかったピアニストなので、アル・ヘイグデューク・ジョーダン、ランディ・ウェストン、フレディ・レッドマル・ウォルドロン、ハービー・ニコルス、ウォルター・ビショップJr.らとともに'50年代半ば以降にもビ・バップを感じさせるピアニストとしてどこか主流になれず、といってモンクやパウエルほど際だって強靭な個性ではないところにリスナーの琴線に触れるところがありました。ガーランドやジョーダンにはチャーリー・パーカーと共演して萎縮しまくっている録音がありますが、おそらくホープのジャズ・デビューが早くてパーカーと共演する機会があっても負けまくりの演奏になっただろうと思えます。ホープの負け犬オーラが輝いていたトリオ作が『Meditations』やニューヨーク復帰直後の姉妹作『Here's Hope !』『High Hope !』、また生前未発表に終わった没年前年のラスト・レコーディング2枚ならば、本作はブルー・ノートの初トリオ作『New Faces, New Sounds』以来の溌剌としたトリオ作で、ホープに惚れこんだリスナーには『Meditations』や『Here's Hope !』『High Hope !』、ラスト・レコーディング2枚に愛着が捨て難くても、これからホープを聴くというリスナーにはブルー・ノートでのトリオとクインテット、そして本作というのが負け犬臭さもなく順当でしょう。ホープは白人ピアニストきっての強烈なトリスターノとは違った意味で追えば追うほど不憫さが溢れてくるのですが、本作はそういう意味では例外的に晴れやかで、ジャズ・ピアノがお好きな方には遠慮なくお薦めできるアルバムです。しかし本作も名作コンテンポラリー・レコーズから再発売されるホープ没後の1970年まではよほどのマニアですら入手すら難しかったマイナー盤だったので、ホープ栄光の初期ブルー・ノート作品ともどもホープには輝かしいアルバムすら情けない背景があるのです。本作録音からまる2年、またもや不人気ジャズマンのホープは沈黙を強いられることになります。そしてニューヨーク復帰直後には負け犬ホープの真骨頂、まるで没年5年前のホープ自身による生前葬(そして本当に生前葬になってしまったのが1966年のラスト・レコーディング2枚)のようなホープ・オリジナル曲の集大成2作『Here's Hope !』『High Hope !』がひっそりと制作されるのです。

西脇順三郎「風のバラ」(大正15年=1926年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
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「風のバラ」

 西脇順三郎

帽子を浅くかむって
拉典人類の道路を歩く
樹木の葉の下と樹木の葉の上を

混沌として気が小さくなつてしまふ瞳孔の中に
激烈に繁殖するフユウシアの花を見よ
あの巴里の青年は
縞の帽子の中で指を変に屈折させる
郵便局と樹があるのみ

ラムネのビンは青い おれの面前で
クレベルの本屋の主人がステキに悲しんでゐる

それから中央欧羅巴にアルコールランプを置き
牧場の中で乞食の手風琴に傾聴しつゝ
牛乳の入ったコーヒをわかす
遠くのミカン色の屋根と青い樹木は
おれの心を鞭撻する

しかし海は死んだ葡萄酒である
人は岡に上り大なる緑の影をもつた
アカシアの樹のそばでジット
残りたいと思ふ
太陽
ゴムの樹
軽便鉄道

金銭
が音楽的共和国を建てる

疑ひなくロンドンのデメテルの前で
おれの帽子をあげる
美しきタコよ
あなたの柔らかい魂は
不活潑な流れぬ午後の中で
鱈の光りを漁る
しかしあなたは職業としては神様であつた
コクリコの女神
麦の女神
梨の美爪師
けれども今は地方の女学生の脂肪と
埃を吸入する

遊園地の向方の
船舶の森に花が開く
株主がみんなよろこぶ
世界的午後
ホテルの方へ商売人が歩き出す
太陽の中で一人の男が
アツボッたいチョッキと杏子色の腹巻をきて
酢につけた葉巻煙草を食ふ
さうして非常に熱烈に
バラモンの神様と勲章と蛇のことを
考へて笑ふ
それから彼は彼の頭蓋骨ほどそれだけ大きい
椰子の果実に吸口をつけて一個の
クラリネットを製作して
それをシヤガンで吹く時
カゴの中からコブラの頭が踊り出る
なんと美麗なサボテン
一つの節時計(メトロノーム)のやうに振動する
けれども人々は日陰の方を歩く
彼の友人の一人は支店長になつて
ステキにいゝ帽子をかむつて
半嶋をズン\/歩いてゐる

ラヴナラスの樹の下でヴアイオリンをひき
雨が愛情より降つて来るのを待つてゐる
マホメット教の礼拝堂の窓から人は
微笑する顎をつき出してゐる
その下の方に静粛な湖水が
ドンブリの様な遠方の山々を写す
(このドンブリは実は諸君の背中であつた
要するにフンドシが実によく乾くのである
アカシアの花が非常に美しい
いやになつてしまふ)と旅人がいふ

スエズの運河の中で
クラゲが実によく走つてゐる
地平線が非常に砂だらけである
犬が遊んでゐるテントがある
ムーア人が夕日とビタ銭を追求する
それから星の夜がある
しかし工手学校なにかは無い
追放された人々は岸の上にシヤガンで
涼しい沈黙の中で焦げついた指を監視する
保証人なんぞゐない
気の強い労働者は密閉された夜の中で
しやべつてゐる

ここに一つの軟柔で無口な都会がある
店先で千鳥と宝石が会話することが出来る
警察署の庭にヒビスカスの花が諸君の充血した心臓の
やうに咲いてゐる
土地の人達は猫のやうにハダシで歩く
不明な葉つぱと石灰を嚙みながら心配さうに話してゐた
二人の男は何処かへ行つてしまつた

船舶が到着すると海の下で金銭を魚のやうにつかむ
その金銭を耳にはさんだり口に入れたりして
再び電車線路をつたはつて何処かへ行つてしまつた
クネンボの中に路が失はるゝまで運命を
みずに極端に崇高なることを思索する

おれは駱駝の様に砂の中にもぐつて
熱心をもつて代数をやつてみたい
それから四十歳になつたら
その辺の市場をさがし出し
ホコリだらけの葡萄をたべる
それからいま一ッぺん
おれの魂の方へ
駆け出したらね
カイロの市で知合になつた
一名のドクトル・メヂチネと共に
シカモーの並木をウロ\/として
昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
来たせしを悲しみ合つた
ピラミッドによりかゝり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ

(大正15年=1926年7月「三田文学」)


 この「風の薔薇」で西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が初めて発表した日本語詩の連作(「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」と本作)は全4篇を終えますが、これらが同じ「三田文学」の前月6月号に発表されたフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇順三郎自身による日本語訳なのはこれまでに述べた通りです。西脇順三郎にはそれまでに英語詩の詩集、フランス語詩の詩集はありましたが、日本語による第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)に収められた作品でも上記4篇はもっとも早い発表のもので、やはりフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」から日本語訳された他の詩篇とともに詩集でも「失楽園」の総題でまとめられています。しかしこれがフランス語詩の日本語訳という成立事情はあるとしても、「しかしあなたは職業としては神様であつた/コクリコの女神/麦の女神/梨の美爪師/けれども今は地方の女学生の脂肪と/埃を吸入する」のような突拍子もない冗談や、「遊園地の向方の/船舶の森に花が開く/株主がみんなよろこぶ/世界的午後/ホテルの方へ商売人が歩き出す」といった、別に現実的現象としては何でもない出来事をポーカーフェイスのユーモアとして描き出す感覚は確かに西脇順三郎ならではの独創で、西脇はこれを萩原朔太郎の『月に吠える』の文体を継いだものと自負していましたが、『月に吠える』の破格的文体は率直に神経質な感受性と奇想を反映したもので、仮に斎藤茂吉の歌集『赤光』と『月に吠える』『Ambarvalia』を並べてみると『赤光』と『月に吠える』の近さよりも『月に吠える』と『Ambarvalia』ははるかに隔たったものです。西脇順三郎の詩は天真爛漫なほどの快活さ、明るさで『月に吠える』の病的な感覚や抒情を意図的に排除したことで成りたっており、この徹底して健康な明朗さは詩形を問わず日本の詩の主流からはまったく外れた規格外のものでした。萩原朔太郎も詩集『Ambarvalia』の修辞の豊さ、発想の多彩さを賞賛しながらも西脇順三郎の詩を「感覚欠乏症」と批判し、萩原自身の詩の悲壮感を継ぐものではないと退けています。しかしそれこそが西脇の狙いでもあれば『Ambarvalia』で達成したものであって、それは大正時代にほとんど特権的なイギリス留学~ヨーロッパ遊学をしながらも西脇順三郎が西洋人に対してまったくコンプレックスを持たず、また留学経験者であることも誇らなかった態度からも一貫した姿勢でした。これは現在であっても多くの日本人の欧米留学者が何らかのコンプレックスを持ち、また海外在住経験を特別なもののように誇るのを思うと驚くべきことで、西脇の健康な詩は、一見無国籍な根無し草のように見える西脇順三郎がいかに留学経験をも日常ととらえていた人であったかを明かします。萩原のように「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」という人ではなかったので、もちろん西脇にとっても20代後半の留学は青春の喜びだったでしょうがそれを特別視はしていなかったのを示します。この「風のバラ」を含む詩集『Ambarvalia』の「失楽園」連作は西脇がそういう詩人だからこそ描きだすことができたのです。

ワパスー Wapassou - ミサ・ニ短調 Messe en re mineur (Crypto, 1976)

ワパスー - ミサ・ニ短調 (Crypto, 1976)

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ワパスー Wapassou - ミサ・ニ短調 Messe en re mineur (Crypto, 1976) Full Album : https://youtu.be/Fd6_p6mB1Po
Recorded at Studio les Pieds dans l'Eau, Antibes, July 1976.
Engendered by Bernard Belan
Mixed by Fernand Landmann and Frederic Fizelson
Released by Disques WEA / Crypto ZAC 6401, 1976
Produced by Jean-Claude Pognant
Composed by Freddy Brua

(Face A)

A1. Messe en re mineur - 15:57

(Face B)

B1. Messe en re mineur - 24:00

[ Wapassou ]

Freddy Brua - claviers
Karin Nickerl - guitares et basse
Jacques Lichti - violon
et.
Eurydice - chant

(Original Crypto "Messe en re mineur" LP Liner Cover & Face A Label)

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 まるで山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』のようなジャケットの本作収録曲は、レコード・ジャケットにもLPレーベルにも「ミサ・ニ短調(Messe en re mineur)」と載っているだけですが、A面は15分57秒のパート1、B面は24分のパート2で、CDでは39分57秒の全1曲になっています。ジャズや民族音楽系でLPの面をまたぐ場合は即興演奏のためフェイド・アウトでパート1が終わりフェイド・インでパート2が始まる編集が多いのですが、本作は基本的にはテーマと変奏で展開されながらもアレンジ、即興パートともに整理されたもので、楽章の長いクラシック曲のようにきちんと楽節で切れており、その分AB面が不均等ながらもフェイド・アウト~インによる重複はなくCDでは完全に全1曲となっています。ワパスーがジャン=クロード・ポニャンのクリプト・レーベルに所属して制作した三部作、本作『ミサ・ニ短調』1976(Crypto ZAC 6401・WEA配給)と『サランボー(Salammbo)』1978(Crypto ZAL 6437・RCA配給)、『ルートヴィッヒ2世(Ludwig, un roi pour l'eternite)』1979(Crypto ZAL 6477・RCA配給)はいずれも同様の構成を持っており、アルバム・タイトル曲だけで全1曲(『ルートヴィッヒ2世』のみ最後に短いエピローグ曲が入りますが)の大作で、自主制作盤だった第1作『ニンフの泉(Wapassou)』ではA面3曲・B面2曲が独立した構成で歌詞つきのヴォーカル曲もありましたが、クリプト三部作では歌詞なしのスキャット~ヴォーカリーズのみに徹底することになります。本作のモチーフは『ニンフの泉』A3の『音楽幻想(Musillusion)』をそのまま使ったものですが、楽曲によって多彩な楽想を見せ、ゲスト・ミュージシャンにヴォーカル、フルート、クラリネットシタール、ベース、ドラムスを招いた『ニンフの泉』から本作では女性ヴォーカル(スキャット)以外のゲスト参加は一切なく、録音エンジニアは『ニンフの泉』と同じベルナール・ベランを起用し、前作ではメンバー扱いだったサウンド・エフェクト担当のフェルナン・ランドマンはメンバーから外れてミキサー担当スタッフになって正規メンバーは作曲を手がけるリーダーのフレディ・ブレア(キーボード)にジャック・リュシュティ(ヴァイオリン)、女性ギタリストのカラン・ニッケルの3人に固定されることになりました。

 良く言えば多彩、悪く言えば散漫だった自主制作盤『ニンフの泉』から本作への進展とスタイルの確立、完成度の高さは目覚ましいほどで、これもアイアン・バタフライの「ガダ・ダ・ビダ(In-A-Gadda-Da-Vida)」やマグマの「コーンタルコス(Kohntarkosz)」のような基本モチーフだけの大作曲の系譜にあるものですが、ワパスーの本作ではおよそ他のバンドでは通用しないような稚拙なメンバー、しかもボトムとなるリズム・セクションなしの編成で音楽が成立しており、シンセサイザーの導入を中心とした音色の異様さと隙のないアレンジだけでつたないヴァイオリン、たどたどしいギターがつむぐワパスー独自の作風が一挙に成立しているのは呆気に取られます。いわゆるテクニカルな側面は一切なく、プレイヤーとしてはワパスーのメンバーはロック史上最低限の演奏力しか持ち合わせていないものですが、シンプルなモチーフに全力をそそいでひたすら音色とアレンジに工夫を凝らすことで40分飽きさせないだけの達成を示しており、一般的なロックらしいビートの躍動感にはほとんど顧慮せずにロック文脈での大作組曲を成立させています。黒人音楽的要素は皆無ですがジプシー音楽的な民族性がこれをアカデミックな室内楽とは異なるロック作品としており、電子音楽としても非常にユニークな仕上がりになっています。フランスの電子音楽系ロックはドイツや英米よりやや遅れて出発しているのですが、ドイツ=ゲルマン系の発想が分析的であり、英米アングロ・サクソン系の発想が実用的であるのに較べ(またスラブ的発想が倫理的なのに対して)、ラテン系の発想は解剖学的なものなのに特色があり、たとえばキリンを定義するのにゲルマン系では運動能力の分析から入り、アングロ・サクソン系では生態の把握から定義し、スラブ的には有害無害の基準から量るのに対して、ラテン系では解剖学的に「胴体は羊、四肢は馬、頭部は鹿」と把握します。ワパスーのアンサンブルはそのようなもので、キーボードとヴァイオリン、ギター、スキャットは別々のパーツと捉えてそれぞれが固有に独立した機能を持ち、キメラ的に組み合わされている発想にドイツや英米電子音楽とは違った特色があります。これはフランスでは一見ワパスーとは対照的にヘヴィなエルドンの電子音楽にも見られるので、エルドンの場合は微分的なリズム・セクションに幾何学的なエフェクトが重なる上にジミ・ヘンドリックス直系のギターが乗るというキメラ的、またはフランケンシュタインサウンドになっています。ワパスーでもサウンド傾向は違えサウンドのアンサンブルには同じ発想によるので、三部作は『サランボー』でさらに、『ルートヴィッヒ2世』ではこれ以上突きつめるとアンサンブルとして成立しないほどぎりぎりに楽器ごとの異様な音色が追究されます。ワパスーのクリプト三部作はどれも良いので、サウンドのバランスに好きずきが分かれるようなものでしょう。本作はその最初の作品であることで三部作中もっとも聴きやすい内容です。またワパスーのクリプト三部作はゴスやアンビエントを先取りしたような、のちの音楽シーンからさかのぼってみればむしろ親しみやすい作風の、非常に完成度の高い作品でもあります。聴きようによっては2000年代以降のアニメのサウンドトラックのようにも聴けるのです。

西脇順三郎「林檎と蛇」(大正15年=1926年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
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「林檎と蛇」

 西脇順三郎

わが魂の毛皮はクスグツたいマントを着た
おれの影は路傍に痰を注ぐ
延命菊の中にあるおれの影は実に貧弱である

汽車の中で一人の商売人は
柔かにねむるまで自分の家(ウチ)にゐるやうにスコヤカに眠る
なんと不規律なベゴニアの花よ

グラ\/する黄昏のバルコニイの上で
一個の料理人が
ミモザの樹の如く戦慄する
我が幼年時代はなんたる林であるんだ

午後十二時に
墓地に沿うて電車が廻転する
内面に一つの温室がある
睡眠をむさぼる口は蠅取り草だ
一個の香水をまく偉大な
スポイトの夢を彼等はみてゐる

人々はタンポゝより桜を愛すさうして
入れ歯の如くサンランたるアナゴのテンプラを食ふ
粉歯みがきは聖像の光輪
眼(マナコ)は取りくづされたる礼拝堂の円塔をよぢ登る
さうしてトタン屋根の先に広がる緑の原ッぱを
走る太陽を追ふ
なんたる痛恨
淋しき人人は縫箔した靴を穿き
樹木が牛乳のやうに腐るのを眺めんとして外出する
しかしながら彼等の時計は時間の地層を正確に
掘るよ

シトロンの森にシヤツを吊り
人は熱き水浴をとり死すことなく疲労をむしやきにする
非常に善良な鰕よ
神が君を祝福せんことを

山羊の唱歌
葡萄酒の神様よおれは
葡萄パンのやうな眼珠をもつた山羊がないから
アフリカ産のカモシカをたべ給へ
おれの貧にして孤独なる脳髄の中に烟火をあげてそれを
よろこばすやうな一個のアルカラザスの水差しをおれに与えよ
おゝ遠くの大学町で
ツグミがなく

縮れたる頭髪に金木犀の花輪を飾り
コメロンの祭礼をみるも
我が脳髄の栄華は重し
ブラウニングの柘榴と鐘
椿油でゴテ\/光る黒髪は
四十五歳の女の人に属す
彼女のパイプはペン軸の如く長くほそい
彼女の汽車は鉄橋を渡つてゐる
盆地は冷寒である
ほゝえむと彼女の歯グキが寒い

是等の人達はみんな面白くない
楽園の傾斜にある巴旦杏(アメンドウ)の樹に
我が七弦琴を吊らん
十五時が鳴つた
駈け出しませんか

(大正15年=1926年7月「三田文学」)


 この詩も西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が32歳にして初めて書いた日本語詩4篇の一つで、「世界開闢説」「内面的に深き日記」、またこの後の「風のバラ」とともに同時発表されました。「椿油でゴテ\/光る黒髪は/四十五歳の女の人に属す/彼女のパイプはペン軸の如く長くほそい/彼女の汽車は鉄橋を渡つてゐる/盆地は冷寒である/ほゝえむと彼女の歯グキが寒い」という一連はこれが大正15年の詩かと思うほど鮮烈なユーモア感覚があります。最終連の「是等の人達はみんな面白くない/
楽園の傾斜にある巴旦杏(アメンドウ)の樹に/我が七弦琴を吊らん/十五時が鳴つた/駈け出しませんか」という唐突な締めくくりも見事です。30代始めの詩にしてこの詩にはやんちゃな青春性があふれています。文学青年、少年または少女がこうした詩から現代詩の世界に入るのは世にあふれる抒情詩、警喩詩、心境・人生詩から詩に入るよりよほど理想的なものと思われます。