人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

エルモ・ホープ・セクステット Elmo Hope Sextet - インフォーマル・ジャズ Informal Jazz (Prestige, 1956)

エルモ・ホープ - インフォーマル・ジャズ (Prestige, 1956)

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エルモ・ホープセクステット Elmo Hope Sextet - インフォーマル・ジャズ Informal Jazz (Prestige, 1956) Full Album : https://youtu.be/tPGO4xTPFTY
Recorded at The Van Gelder Studio in Hackensack, NJ, May 7, 1956
Released by Prestige Records PRLP7043, 1956

(Side A)

A1. Weeja (Elmo Hope) - 11:00
A2. Polka Dots and Moonbeams (Jimmy Van Heusen, Johnny Burke) - 8:31

(Side B)

B1. On It (Elmo Hope) - 8:58
B2. Avalon (Al Jolson, Buddy DeSylva, Vincent Rose) - 9:37

[ Elmo Hope Sextet ]

Elmo Hope - piano
Donald Byrd - trumpet
John Coltrane, Hank Mobley - tenor saxophone
Paul Chambers - bass
Philly Joe Jones - drums

(Original Prestige "" LP Liner Cover & Side A Label)

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 エルモ・ホープのリーダー作ではこのアルバムがいちばん聴かれて(売れて)いるのは確かです。その理由は後で述べるが、これは『New Faces New Sounds : Elmo Hope Trio』(Blue Note, 1953)、『Elmo Hope Quintet Vol.2』(Blue Note, 1954)、『Meditations』(Prestige, 1955)、『Hope Meets Foster』(Prestige, 1957、録音は本作より先)に続く第5作で、このアルバムの録音直前にはプレスティッジのジーン・アモンズ(テナーサックス)のアルバムのレコーディングをすっぽかす失態があり、さらにニューヨークのミュージシャン組合からクラブ出演許可を禁じられたのが1956年のエルモ・ホープでした。翌1957年にはロサンゼルスに移住するも仕事には恵まれず、1959年にようやく第6作『Elmo Hope Trio』(Hi-Fi Jazz, 1959)を録音、同地で知りあった新夫人と赤ちゃんの出生を待ってニューヨークに戻ったのが1961年春のことでした。前回ご紹介したのが『Hope Meets Foster』(Prestige, 1957)までになります。ブルー・ノートのトリオとクインテットホープは最初のホープのピークと言えるもので、18曲中オリジナル曲15曲の鮮烈さはセロニアス・モンクバド・パウエルからずっと遅れてデビューした不遇を吹き飛ばすようなものでした。

 モンク、パウエルと較べてホープの作曲の特徴は安定した作風、コード進行と小節構成のオリジナリティの高さにありました。モンクのリズム構造は独創的でしたが、その分小節構成はほとんどAABA形式かブルースに限定されています。パウエルの作曲は出来不出来に激しいムラがありました。白人バップ・ピアニストのレニー・トリスターノは独創的なアンサンブルを早くから実践していましたが、コード進行と小節構成はビ・バップ流に既成曲を踏襲する姿勢を崩しませんでした。その点ホープの『Elmo Hope Quintet Vol.2』の完成度は、管楽器入り編成を生涯不得意としたパウエル、管楽器入り編成をこなすのは1956年~1958年までかかったモンクを1954年の時点では抜いており、トリスターノが1949年に達成したアンサンブルに対抗しうる黒人バップを実現してみせたものでした。ですがそれも、数か月先に鳴り物入りで録音されたアート・ブレイキークインテットの『A Night at Birdland』の評判の陰でほとんど注目されなかったのです。そのブレイキー・クインテットは、ホープが参加していたバンドからホープとドラムスのフィリー・ジョー・ジョーンズを外してブレイキーがバンドを乗っ取り、ピアノ2はホレス・シルヴァーを加入させたものでした。

 ホープの管楽器入り編成での手腕は『Elmo Hope Quintet, Vol.2』ですでに鮮やかな成果を見せていたしたが、その後も優れた管入りアルバムがあるかというと、企画に問題があるというか、どうも決まって中途半端なものになっています。全曲クインテットなりセクステットに統一し、入れるとしてもピアノ・トリオ曲は1、2曲程度にすれば良いものを、『Hope Meets Foster』ではクインテット3曲・カルテット3曲、のちの『Homecoming』1961ではセクステット3曲・トリオ4曲、『Sounds From Rikers Island』1963ではセクステット6曲(うち2曲ヴォーカル入り)・カルテット1曲・トリオ2曲と、管楽器入り編成のアレンジとピアノ・トリオ曲ではムードが一変してしまうのがホープのリーダーシップの弱さでした。セロニアス・モンクがカルテットを標準編成にしたあと、ソロ・ピアノ曲をさりげなく披露してカルテットのムードとも上手く溶け込ませているのとは大違いで、また時おりパウエルが管楽器と共演して普段のパウエルと全然変わらない(管楽器など眼中にない)演奏を残しているのて比較すると、器の差を感じないではいられません。トリスターノが自分がリーダー以外の管楽器との共演をしなかったのと較べては不当ですが、ホープはサイドマン参加作では本当に影が薄いピアニストでした。初期のクリフォード・ブラウンルー・ドナルドソン、ロサンゼルス時代のハロルド・ランドのようにホープのオリジナル曲を取り上げてくれるホーン奏者のセッションはともかく、ホープ参加の(ホープが)ぱっとしないアルバムではソニー・ロリンズの『Moving Out』やジャッキー・マクリーンの『Lights Out!』がすぐ思い浮かびますが、隣の部屋でピアノを弾いているような音量で自信なさそうな頼りない演奏をしています。これもモンクやパウエルには滅多にないことでしたが(モンクやパウエルは堂々と混乱することはありましたが)、実はこの『Informal Jazz』もそういうアルバムの1枚になっています。これはおそらくプレスティッジへの契約満了のための会社企画で、定冠詞なしのエルモ・ホープセクステットなのは当然アルバム制作のための臨時召集メンバーで、ライヴ実績もあるレギュラー・バンドではないからです。ホープがリーダーになってはいますが、ジャム・セッションのセッション・マスター程度の役割しかしていません。ですが参加メンバーの顔ぶれで、このアルバムはホープのアルバム中もっとも知られ、今なおホープのアルバムでは唯一広く聴かれている作品になりました。

 というのは、これはジョン・コルトレーンのプレスティッジ契約第1回録音で(マイルス・デイヴィスクインテットのメンバーとしては前年に録音がありました)、しかもベースとドラムスはマイルス・クインテットポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズ、トランペットともうひとりのテナーはジャズ・メッセンジャーズ在籍中のドナルド・バードハンク・モブレーというオールスター・セッションだったからになります。オールスターの中に一人だけスターではないメンバーがいます。エルモ・ホープさんです。ジョー・モリス楽団やブラウン&ドナルドソン・クインテットもそうでしたが、一人だけ出世しなかった人がいます。エルモ・ホープに他なリません。1969年にこのアルバムが新装発売された時にはジョン・コルトレーンハンク・モブレー名義の『Two Tenors』というタイトルにされたほどです。その後の再発でもこのアルバムとホープの1961年作品『Homecoming』(ジミー・ヒース、ブルー・ミッチェル参加)をカップリングした2枚組『The All-Star Sessions』としてノン・リーダーのオールスター・アルバムに見せかけるなど、ホープのアルバムではなくサイドマンの知名度で売る方が良しとするのがインディー作品となれば厳然たる事実でもありました。内容がともなえばそれも良いでしょう。

 残念なのは、ロリンズやマクリーンのアルバム同様コルトレーン、またはモブレー、バード、チェンバースやフィリー・ジョーのファンが目当てのジャズマンから『Informal Jazz』を購入して聴いても、損したとまでは思わなくても他のエルモ・ホープのアルバムに手を延ばすとはとても思えないことでしょう。ホープ名義のアルバムなのに肝心のホープがまるで生彩を欠いています。内容は10分前後の曲がAB面に2曲ずつ全4曲、2曲はホープのオリジナル曲で2曲はスタンダードなのですが、オリジナル曲は全部ブルースだった前作『Hope Meets Foster』に続いてホープのオリジナルに冴えがありません。というより、プレスティッジの場合は管楽器3人のセクステットでリハーサルや細かいアレンジもなしにヘッド・アレンジで演奏できる曲が条件ですから、たぶんホープが指示してワンコーラスまわしてみて、はい次本番、程度の手順しかかけていないと思われます。『Elmo Hope Quintet, Vol.2』のレヴェルのオリジナリティのある曲となると入念なリハーサルが必要な上に1テイクでは済みませんし、アドリブも長くはなりませんから曲数を増やさないとアルバム1枚になりません。それでは1セッションで上がらないので、早い話がホープがレーベルの企画に妥協したアルバムが本作です。こういう弱味もホープをモンク、パウエル、トリスターノより一段下にしています。人間味があっていいではないかとも思えますが、それは贔屓目に見ればの話ですから公正ではないでしょう。

 オープニング曲が始まると、いきなりマイルスの『Dig』1951が始まったんじゃないかと思いますが、つまりバック・リフをいただいている元ネタの曲がマイルスのこれになります。
Miles Davis - Denial (from Prestige "Dig" 1951) : https://youtu.be/eVPRPqJAOdY
 ですが実はマイルスのこの曲はパーカーのオリジナル曲のコード進行から改作したもので、1946年2月のセッションをパーカーがすっぽかしたためパーカー抜きでディジー・ガレスピーが録音したのが最初のヴァージョンでした。パーカーのライヴでは早くから定番曲でしたが、パーカー自身によるスタジオ録音は『Dig』より後の、晩年近いこれしかありません。
Charlie Parker - Confirmation (from Verve "Now's the Time" 1953) : https://youtu.be/qHFSoE-3t-o

 この曲はスタンダード「There Will Never Be Another You」(AA'32bars)を圧縮してAに、同じくスタンダード「Perdido」のコード進行(逆循)をBにしたAA'BA'32bars ; Key=Fというもので、ビ・バップのジャズマンなら基本中の基本になるコード進行です。本作の場合、ドナルド・バードのトランペットの先発ソロが終わると、先に2コーラスのソロをとるのがモブレー、次に2コーラスのソロがコルトレーンなのを聴き分ければ、後はモブレーとコルトレーンの両テナーの違いを楽しみに聴けます。サブトーンを含んだブルージーな音色がモブレー、切れの鋭い金属的な音色がコルトレーンで、フレーズも音色を反映した対照的なものになっています。最初は全4曲詳しく構成やソロ順を解説するつもりでしたが、そこまでしなくても良かろうと、スタンダード2曲ではA2は原曲通りバラッド、B2はアップテンポでリズム・ブレイクが設けてあるなどそれなりの工夫を認められます。B1はホープのオリジナル・ブルースで、それにしても管楽器が引っ込んでピアノ・トリオだけのピアノ・ソロになると音が遠くて小さいのには情けなくなります。ブラウン&ドナルドソン・クインテットでは積極的に、フランク・フォスターとのクインテットではそれなりに自己主張のあったホープのピアノが、今回はやる気がないわけではなかったでしょうが、ピアノが目だつのを遠慮しているような演奏です。ホープのピアノは歯切れが良くないという悪評がありますが、このアルバムのプレイでは偏見を招いても仕方がありません。もしコルトレーンが参加せずバードとモブレーだけの2管クインテットだったら、チェンバースとフィリー・ジョーの参加はあっても他のホープのアルバムと同じく基本は廃盤、時たま限定再発されるだけのアイテムになったでしょう。本作はコルトレーンの参加だけでホープのアルバムではもっとも入手しやすいロングセラー・アルバムになっています。それもまたホープの再評価の防げになっているかもしれないと思うと、複雑な思いがしてきます。

西脇順三郎「内面的に深き日記」(大正15年=1926年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
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「内面的に深き日記」

 西脇順三郎

一つの新鮮な自転車がある
一個の伊皿子人(イサラゴジン)が石けんの仲買人になつた
柔軟なさうして動脈のある斑點のあるさうして
これを広告するがためにカネをたゝく
チン\/ドン\/はおれの生誕の地に住む牧人の午後なり
甘きパンの中でおれの魂は
ペルシヤの絨毯と一つの横顔と一枚の薄荷の葉を作る

ミレーの晩餐の中にゐる青年が
穿いてゐるズボンのやうに筋がついてゐないので
ブク\/して青ぼつたいのは
悪いことである

夕暮が来ると
樹木が軟かに呼吸する
或はバルコンからガランスローズの地平線を見る
或は星なんかが温順な言葉をかける

おれの友人の一人が結婚しつゝある
彼は両蓋の金時計をおれに啓示した
ボタンをひくと
その中で
アンジエルスの鐘が鳴る
それをほしいといふ気が太陽の如く起る

修道院の鐘が驢馬に向つて
チンカン\/となる
これは人をして呼子笛を吹奏さす
朝めしの中に夕日がある
紅色のオキアガリコボシ

おれの傾斜の上におれはひとりで
垂直に立つ
価値なき多くの屋根の向方に
地平線にデコ\/飾られたシヤレた
森の上にのつかつてゐる
黄色い異様な風雅を備へる一個の家を見る
こんな森はおれに一つの遠くの人生を想はしめる
しかし柔い土壌は悲しい思想の如き植物
を成長さすために
都会の下から農業地帯の中へ
オレンヂ色のしとやかな牛が
糞便を運送する
人間の腐敗した憂鬱をもつて
サラドを成長させるとはいた\/しい
されどこの辺り
恋愛を好む一人の青年がひとりで
歩行してゐる
トロンボンを吹け

色彩のきはめてよいズボンツリを購ひ
首府を去りさうして三日にして
砂地の地峡に己れ自身を見る
終日 燈台を眺めながら
青い莢豆の中で随分紙煙草を吸ふ
しからざれば
芸術とか人文とかを愛好する人達より遠く分離して
胡瓜と鶏頭との花に有名な一都会にて
猛烈にマッチを摺る

教会堂がまた一時間の四分の一を宣言する
ジアコンド
ストローベリイ
一つのペンキ塗のホテルの後で
呼吸する冷朗たるさうして非常に気の毒な
秋の中におれははひる
肉なき松柏類は地平線の中で徘徊する
ハウレンサウの如きは静かである
すべては寝室のスリッパになつたと思ふ

おれの脊髄で内部に幾分のチョコレートを感じ
我が肺臓の中にタンポゝとスミレを入れて
ギュイヨー夫人の小学読本をよむ
沈黙の二重の塔はいづこに
射的場は近いのである

(大正15年=1926年7月「三田文学」)


 これも西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)の日本語(それまでに英語詩集、フランス語詩集があります)の第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)の後半をなす「LE MONDE MODERNE」中に「失楽園」の総題でまとめられたもので、「失楽園」自体が前月の「三田文学」6月号に発表されたフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇順三郎自身による日本語訳でした。同年4月に西脇は大正11年(1922年)~大正14年(1925年)にわたるイギリス留学を経て32歳で慶應義塾大学英文学科教授に就任したばかりでしたが、大正15年7月の「三田文学」に同時掲載された4篇「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」が西脇順三郎にとっては32歳にして初めての詩作であり、発表作でありました。西脇も元来文学青年でしたが、渡英直前に購入して留学時にも持ち歩いていた萩原朔太郎の『月に吠える』を読むまではイギリスを始めとするヨーロッパ文学のみに傾倒していて、一応島崎藤村の詩集を始め明治・大正の詩を読んではいても「日本語で詩は書けない」と考えていたのです。西脇が唯一日本語でも詩が書けると考えたのが『月に吠える』で、のちに西脇は世界文学的に唐詩松尾芭蕉にヨーロッパの古典文学と匹敵する優れた文学性を見い出しますが、詩集『Ambarvalia』は西脇独自に萩原朔太郎を唯一の師とする日本語詩の可能性に挑戦したものでした。

 この「内面的に深き日記」のタイトルはフランス詩人ボードレールの遺稿『赤裸の心(内面の日記)』のパロディであり、ボードレールの遺稿は晩年のボードレールが日記代わりに書いていた内省録的なものでしたが(「私の母は変わった人だった」「ある人から日本人は猿のようなものだと聞いた」などが有名です)、西脇の場合は通常日本語の意味が持つ「内面的に」深いというのを逆手に取ってまったく「内面的に」深くない詩をあえて書いてみた、というのがイロニーになっています。この詩もイギリス留学中のヨーロッパ遊学をと帰国してからの日常風景を対照的に題材にした詩ですが、造語や何を指しているのかわからない暗喩、文法破壊によってほとんど内容は消し飛び、何も表現しない詩に近づいているので、西脇を指導的詩人として表彰した詩誌「詩と詩論」に拠る若い世代の詩人にはその無償性だけが強調されて受け継がれ、言語によるポップ・アート(という概念はまだ生まれていませんでしたが、実体としてはその先駆をなすもの)的な文学がダダイズムシュルレアリスムをより自覚的・方法的に整備したモダニズムの手法と狭く解釈されたのです。西脇自身はシュルレアリスム(超現実主義)には懐疑的で、萩原朔太郎の詩が石川啄木らの自然主義文学を土台に成立しているように、自分の詩もシュルレアリスムを通過して生まれたのではなくシュルナチュラリズム=超自然主義の立場にあるとしていました。「世界開闢説」にしてもこの「内面的に深き日記」にしても内容はいわば日常詩(Slice of Life)であって、修辞が珍妙でデフォルメの度合いが激しいために前衛的な詩に見えるだけです。「色彩のきはめてよいズボンツリを購ひ/首府を去りさうして三日にして/砂地の地峡に己れ自身を見る/終日 燈台を眺めながら/青い莢豆の中で随分紙煙草を吸ふ/しからざれば/芸術とか人文とかを愛好する人達より遠く分離して/胡瓜と鶏頭との花に有名な一都会にて/猛烈にマッチを摺る」と、これを散文として読んでしまえば「内面的に」深いか深くないかはともかくタイトル通りの平凡な「日記」の一節にすぎません。西脇の発明、と本人は思っていなかったでしょうから萩原朔太郎から学んだものでもいいですが、それはこうした平凡な散文が行分け詩の体裁を取った時に日常を超える詩になり得る、と示したことでした。西脇順三郎が最初ではないにしても、従来「詩」が「詩人」の特権的な感受性によってのみ存在するといった古典的な詩観に、詩と詩人に特権的な感受性などない、と自覚した時点から詩作を始めたのが西脇順三郎であることは確かです。そして明治以来の現代詩は、大東亜戦争~太平洋戦争の敗戦までほとんど詩人であることに特権的な感受性などない、と気がつかない詩人によるものだったのも確かです。西脇順三郎が戦後、もっとも尊敬され現代詩の第一人者とされたのも学識や知的エリートとしての地位ではなく、もっとも早く詩人の感受的特権性、詩のナルシシズムの虚偽を見抜いていた詩人だったからでした。ただし戦後の詩は、西脇順三郎よりもはるかに切迫した出発点から始まることになったのです。

ワパスー Wapassou - ニンフの泉 Wapassou (Prodisc, 1974)

ワパスー - ニンフの泉 (Prodisc, 1974)

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ワパスー Wapassou - ニンフの泉 Wapassou (Prodisc, 1974) Full Album+Bonus tracks : https://youtu.be/7qGKLJ9PzoY
Recorded by Robert Baum
Released by Prodisc Strasbourg PS 37342, 1974
Production : Wapassou Musique
Paroles et Musique : Freddy Brua
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(Bonus tracks)

1. 淑女達-花々 Femmes-Fleurs - 2:42 (A.P.G.F. AS 001, Single Face A, 1974)
2. ボルジア Borgia - 2:22 (A.P.G.F. AS 001, Single Face B, 1974)
ワパスー Wapassou - ワパスー Wapassou (Prodisc, 1974)

(Face A)

A1. 哀歌 Melopee - 3:59
A2. 無 Rien - 10:38
A3. 音楽幻想 Musillusion (Wapassou) - 3:54

(Face B)

B1. 処罰 Chatiment - 6:48
B2. 旅 Trip - 13:37

[ Wapassou ]

Freddy Brua - claviers
Karin Nickerl - guitares et basse
Jacques Lichti - violon
Fernand Landmann - equipement accoustique
Musiciens additionnels : Geneviève Moerlen - flute, Jean-Jacques Bacquet - clarinette, Jean-Michel Biger - batterie, Benoit Moerlen - percussions, Christian Laurent - sitar, Jean-Pierre Schaal - basse

(Original Prodisc "Wapassou" LP Liner Cover & Face A Label)

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 フランスの旧アルザス圏、ストラスブールで1972年に結成されたバンド、ワパスーは1974年に自主制作シングル「淑女達-花々(Femmes-Fleurs)」とアルバム『ニンフの泉』でデビューしましたが、正式メンバーはフレディ・ブレア(キーボード)、ジャック・リュシュティ(ヴァイオリン)、女性ギタリストのカラン・ニッケルの3人で、およそ標準的なロック・バンドとはかけ離れた編成でした。デビュー・シングルAB面にはゲスト・ドラマーが入り、アルバムも多数のゲストを迎えたもので、本作では歌らしい歌も聴けますが、次作以降はヴォーカル・パートも歌詞のないスキャット的なものになり、他のバンドでは通用しないような女性ギタリストの演奏ともどもキーボード、ヴァイオリンともに他のバンドでは聴けないような素頓狂な音色を持っており、英米ロックのマチズム的なサウンドとはまったく異なる音楽性ではフランス本国でもドイツ、イタリアらユーロ圏のバンドでもわずかにポポル・ヴー(西ドイツ)、オパス・アヴァントラ(イタリア)らの実験的グループあたりにしか聴けないようなものでした。このデビュー作はまだしも多数のゲストによってロック・バンドらしいアンサンブルが聴かれるもので、有力インディーのクリプト(Crypto)・レーベルから本格的にデビューした『ミサ・ニ短調(Messe en re mineu)』1976、『サランボー(Salammbo)』1978、『ルートヴィッヒ2世(Ludwig, un roi pour l'eternite)』1979は三部作をなし、1作ごとに突拍子もない室内楽的反ロックを築いていくことになります。これらのクリプト盤が日本盤発売されたのはようやく1990年代になってからのCDリリースでしたが、アンジュ・フォロワーのモナ・リザも所属していたクリプト盤は1980年代になっても廃盤にならず輸入盤のロングセラーになっていたので、自主制作盤の本作はCD発売に先駆けてLP時代に日本のインディー・レーベルから日本盤リリースされていたほどです。ワパスーの名盤はクリプトからの三部作という評判あっての日本発売でしたが、このデビュー作はカトリーヌ・リベロ+アルプやアンジュに似たジプシー・フォルクローレ的な曲想を持った収録曲も多く、完成度の高いクリプト三部作とは重なりながら異なる本作ならではの素朴な魅力のあるアルバムです。

 クリプト・レーベルでの三部作のあとワパスーはステルヌ(Sterne)・レーベルに移り、専属ドラマーと専属女性ヴォーカリストを迎えてニューウェイヴ~ロック~ソウル~エレクトリック・ポップ色の強い作風にいきなり転換したアルバム『Genuine』1980を発表、これはフランス本国でも不評なら日本にもほとんど輸入されず、入手した日本のリスナーにもまったくの不評に終わりました。バンドはなおも地道に活動を続け、ヴォーカリスト2人とギタリスト2人が加入しカラン・ニッケルがベースに専念した『Orchestra 2001』を1986年に発表、プログレッシヴ・ロックらしい作風にまたもや転換しましたが、結局それがワパスーの最終作になります。ワパスーの評価はクリプトからの三部作、次いで三部作の習作と見なせる自主制作盤『ニンフの泉』の4作に尽きるので、クリプト三部作はすべてAB面通して1曲の大作組曲になりますが、本作のA3「音楽幻想(Musillusion~Wapassou)」のモチーフはそのままクリプト三部作の第1作『ミサ・ニ短調』の主要モチーフになってアルバム1枚AB面に拡大されます。またシンセサイザーの本格的導入によって1作ごとにキーボード・サウンドが異常になっていくので、タンジェリン・ドリームクラフトワークらドイツのゲルマン的=分析的発想とは違った電子音楽的要素を時期的にやや遅れて探究したのがワパスー、エルドンらフランスの、ラテン的解剖学的発想によるロック・エレクトロニーク手法と見なせます。そこらへんの違いは以降のワパスー作品をご紹介する際に分け入ってご説明いたします。

 ユーロ・ロックには特定のスタイルが特にあるわけではなく、北欧やネーデルランド諸国ではほぼ英米ロックのスタイルが直輸入され、ドイツやイタリア、フランスでは国ごとに英米ロックの各種側面を誇張したようなスタイルがバンド、アーティストごとに見られますが、ドイツやイタリアのバンドに較べて平均的にフランスのバンドはボトムが弱く、重心の低さに不足がある観が強い印象を残します。ジャズ界でも第一線のミュージシャンが参加したゴング、マグマ、リベロ+アルプ、純粋なプログレッシヴ・ロック・バンドとして国際的に見ても高い音楽性を誇るアンジュやアトール、ピュルサーですらごく一般的な英米ロックのバンドよりもどこか重心が高いのが感じられ、それが浮遊感になって音楽的に効果がある場合は良いのですが、浮遊感と重心の低さをともに兼ね備えた、つまりビートの強い本来のロックらしいロック・バンドが英米やドイツ、イタリアには普通にいるのを思うと、フランスのロックの国際的な人気の低さの原因はリズム的要素の貧弱さにあると言ってもあながち的はずれではないでしょう。ゴングもマグマも超一流バンドですがゴングはあまりに気まぐれでつかみどころがなく、マグマは力めば力むほど単調になってしまうのです。さて、ワパスーは演奏力で言えばとてもプロのミュージシャンとは呼べない力量のメンバーばかりの、しかもリズム・セクションのメンバーはゲストを呼ぶか、クリプト三部作ではリズム・セクションのゲスト・メンバーすら招かなくなったバンドでした。ヴァイオリンもキーボードも高音域の長音符しか弾かず、ギターも細く軽い音色でたどたどしく、ベースもほとんどダビングされていません。しかしワパスーのセンスは他では聴けない、まるで幻聴のように異様な音色と、その羽毛のような音色を最大限に利用した織物のようなサウンド・テクスチャーにありました。次作『ミサ・ニ短調』ではスキャット・ヴォイスしかゲスト参加のないヴァイオリン、キーボード、ギターに徹したアンサンブルが聴かれます。さらにワパスーのクリプト三部作は進むに従ってサウンド要素を削ぎ落とし、『サランボー』では組曲らしい構成すら稀薄になり、究極作『ルートヴィッヒ2世』では徹底的に音色だけに特化したヴァイオリン、キーボード、ギターと女性スキャットがほとんど楽曲らしい展開もなしにLP・AB面40分のサウンド空間を埋めつくします。本作『ニンフの泉』はまだスタイルの確立途上にあってワパスーのアルバム('80年代の『Genuine』『Orchestra 2001』は実質的に同名異バンドとすれば)ではこれでもまだロック色が強く、多彩でもあれば多彩さを生かしきっていない点で不純物も多い習作ですが、おそらく初めて聴く大多数のリスナーにとってあまりにとりとめなく聴こえかねない名盤のクリプト三部作のどれかから入るよりも本作から聴き始めた方がワパスーという妖精的存在を理解しやすい作品です。これが始まって8秒で異次元空間に突入する究極の『ルートヴィッヒ2世』から聴いたのでは大半のリスナーが引いてしまうので、まずはまだアマチュア・バンド然とした自主制作盤の本作に触れて、このムードだけの下手くそなバンドがいかに化けて行ったかを『ミサ・ニ短調』『サランボー』『ルートヴィッヒ2世』と追っていきたいと思います。

西脇順三郎「世界開闢説」(大正15年=1926年作)

西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
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「世界開闢説」

 西脇順三郎

科学教室の背後に
一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる
白墨及び玉葱黍の髪が振動する
夜中の様に もろ\/の泉が沸騰してゐる
人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ
人は材木の橋を通過する
ゴールデンバットをすひつゝ

まだ一本の古い鉛筆が残つてゐる
鮭で充満する一個の大流の縁で
おれ達 即ちフッケと僕は二つの蛇のやうに横はつた
一つのポプラの樹が女の人の如くやかまし
桑の木の森で柔弱となつた山が我等の眼球の中へ流れ込む
一つの吹管をもつて我等が心臓の中にある愛情を吹きつゝ

おれ達はフランスの話をした
それから再び我等の洋燈の方向へ戻つた
オー なんと美しい古い刷毛(ブラツシ)よ

忍冬におほわれたエスキロス嬢の家より遠く
しかしおれの家に近く一人の正直者が
修繕すべき煙管を探求するために彼の水蒸気を鳴らす
おれの友人はみんな踏切の向方に移転してしまつた
そこにはトマス カルデイの写真がある
一つの非常に大きいマズリンの座ブトンがある
石油ストーブがある
さうして机の上に万年青と
実際的にペッチアンコな懐中時計がある

けれどもおれは
諸々なる機械職工と幼稚園でひつぱられてゐる
一個の小丘の斜面に
おれは地上権を購買してさうして
おれは自分に一個の危険なる籐椅子を建造せり

未だ暗黒である
足の指がおれのトランクにぶつかる
空気の寒冷が樹木をたゝく
七面鳥が太陽の到来を報告する
家禽家が毛糸のシャツを着て薪を割る
極めて倹約である
旧式なオロラがバラの指を拡げる
貧弱な窓を開けば
おれの廊下の如く細い一個の庭が見える
養鶏場からたれるシアボンの水が
おれの想像したサボテンの花を暗殺する
そこに噴水もなし
ミソサザイも弁護士も葉巻(シガー)もなし
ルカデラロビアの若き唱歌隊のウキボリもなく
天空には何人もゐない

百合の咲く都市も薄く
たゞ鏡の前で眼をとづ

(大正15年=1926年7月「三田文学」)


 西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)は新潟県小千谷市の名家に生まれ、経済学を学びつつも英文学に転向。26歳の大正9年(1920年)より慶應義塾大学教員となり、正教授への資格のために大正11年(1922年)にオックスフォード大学入学のため渡英するも入学手続きに間に合わず、1年間そのまま遊学後翌大正12年(1923年)よりオックスフォード大学に入学、翌年イギリス人の夫人と結婚し、大正14年(1925年)には教授昇任資格を取得したためオックスフォード大学を中退、留学記念に英文詩集『Spectrum』を刊行後、同年10月に夫人とともに日本に帰国し、翌年4月に慶應義塾大学英文学科教授に就任しました。渡英中は古典はもとより最新のヨーロッパの芸術思潮を紹介しつつ自作を発表しましたが日本語の詩には慎重で、留学時に携えていった萩原朔太郎詩集『月に吠える』以外の日本の詩集は一切読まず、また日本語の詩では『月に吠える』からはまったく影響を受けていないと生涯公言してはばかりませんでした。帰国後の最初の発表詩は大正15年(1926年)4月に慶應義塾大学英文学科教授に就任した直後に復刊されていた「三田文学」6月号に掲載されたフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」で、西脇は慶應大学に学ぶ文学青年たちの指導的存在になり、それがやがて昭和3年(1928年)9月創刊の詩誌「詩と詩論」での日本のモダニズム詩の指導者的詩人と目されるようになりました。「詩と詩論」の詩人たちは西脇の詩に言葉のポップ・アート化を見たのですが、西脇自身は詩を永遠に対する有限な人間の嘆きと考える詩観を持っていたのは戦後の作品でより明瞭になります。シュールレアリスム(超現実主義)に対してシュールナチュラリズム(超自然主義)を標榜した日本語の処女詩集『Ambarvalia』(昭和8年=1933年9月)の刊行時にはすでに西脇順三郎は40歳になっていました。同詩集刊行の後は文学研究以外は敗戦まで一切の詩作を公表せず、戦後に内省的な傾向が強い長篇詩『旅人かえらず』と処女詩集の改作『あむばるわりあ』を同時刊行(昭和22年=1947年・54歳)、続く傑作詩集『近代の寓話』(昭和28年=1953年・60歳)で巨匠詩人の地位を不動のものにしました。イギリス人の夫人とは昭和7年に離婚し日本人女性と再婚していましたが、昭和50年(1975年・81歳)には夫人の逝去に会い、同年に既刊の全集(昭和46年=1971年~・全10巻)から全詩集・散文選集を「詩と詩論」全6巻に精選し、新作の発表も年に1、2篇のみになり、82歳で事実上の引退に入ります。1982年、郷里小千谷市で老衰で逝去、享年88歳の長命でした。

 西脇順三郎の日本語の第1詩集『Ambarvalia』は大正15年(1926年)7月発表作品から昭和8年(1933年)10月発表と7年間に渡っていますが、詩集中もっとも早いのは、西脇順三郎の最初の日本語詩でもあった大正15年7月の「三田文学」に同時掲載された4篇「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」です。詩集『Ambarvalia』は前半が「LE MONDE ANCIEN」(古代世界)、後半が「LE MONDE MODERNE」(現代世界)に分かれていますが、これら4篇は「LE MONDE MODERNE」中で「失楽園」の総題を持つ部の冒頭からそのまままとめられ、詩集書き下ろしになった「薔薇物語」とともに「三田文学」の前月に発表されたフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」を西脇順三郎自身が日本語訳したものでした。これらが詩集『Ambarvalia』に収録されるまで昭和8年までかかったのですが、西脇順三郎のこれらの詩は当時市島三千雄というまるで無自覚に日本語破壊的な詩を書いていた詩人もいましたが、山村暮鳥の詩集『雲』や萩原朔太郎『純情小曲集』、八木重吉高橋新吉中原中也、逸見猶吉、金子光晴の「おつとせい」を含む詩集『鮫』、高村光太郎の『猛獣篇』、小野十三郎伊東静雄らと同時代のものとはにわかには信じがたいものです。言語意識や発想の次元において西脇順三郎の詩は、一見まるで正反対な伊東静雄の詩とともに戦後の詩の文体の直接の先駆をなすもので、岡崎清一郎という見事に西脇の作風を会得した詩人を生み、実際に戦前の文学少年時代に西脇に傾倒した鮎川信夫吉岡実を通り、昭和最後期の荒川洋治、氷見敦子にまでつながっていきます。また西脇順三郎も戦後にはより柔らいだ表現をとりますが、80代の高齢までこの文体で詩作し続けます。ここに見られるのは小説では横光利一野間宏三島由紀夫安部公房大江健三郎村上春樹らが「外国語を翻訳したような文体」と意識的に試みたのをさらに過激化して用いていた現代詩表現であり、内容はイギリス~ヨーロッパ留学時の体験を誇張し抽象化したものですが、文体そのものに実験があります。これらは短歌においても前川佐美雄~塚本邦雄、俳句においても富澤赤黄男~高柳重信モダニズム~ポスト・モダニズム短歌・俳句の潮流を生み出すことになるのです。

エルモ・ホープ Elmo Hope Quartet & Quintet - ホープ・ミーツ・フォスター Hope Meets Foster (Prestige, 1956)

エルモ・ホープ - ホープ・ミーツ・フォスター (Prestige, 1956)

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エルモ・ホープ Elmo Hope Quartet & Quintet - ホープ・ミーツ・フォスター Hope Meets Foster (Prestige, 1956) Full Album
Recorded at The Van Gelder Studio, Hackensack, October 4, 1955
Released by Prestige Records PRLP 7021, 1956
Produced by Bob Weinstock

(Side A)

A1. Wail, Frank, Wail (Elmo Hope) : https://youtu.be/EfVLzedwxaI - 6:26
A2. Zarou (Elmo Hope) https://youtu.be/xZpP_SS9hEY - 5:12
A3. Fosterity (Frank Foster) https://youtu.be/zgl9N8MSI9E - 6:16

(Side B)

B1. Georgia On My Mind (Carmichael-Gorrell) https://youtu.be/Ftc1sfHS_6s - 6:38
B2. Shutout (Frank Foster) https://youtu.be/u1HYLygb0Uk - 5:48
B3. Yaho (Elmo Hope) https://youtu.be/6Obhp0HDXdQ - 7:40

[ Elmo Hope Quartet & Quintet ]

Elmo Hope - piano
Frank Foster - tenor saxophone
Freeman Lee - trumpet (A2, A3, B2)
John Ore - bass
Arthur Taylor - drums

(Original Prestige "Hope Meets Foster" LP Liner Cover & Side A Label)

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 プレスティッジやリヴァーサイド、コンテンポラリー、デビューといった'50年代~'70年代のインディー・レーベルは系列レーベル(ニュージャズ、マイルストーンなど)とも'80年代半ば以降ファンタジー・レコーズ傘下のオリジナル・ジャズ・クラシックス・レーベル(OJC)からジャケット、レコード・レーベルともにオリジナル・デザインに忠実に廉価盤でアナログ盤・CD両方の仕様で復刻発売されていて、このOJC盤のおかげでCD時代以降のリスナーには主要ジャズマンのこれらのレーベルへの録音はほぼすべて、さらにかつて稀少だった不遇ジャズマンの幻の名盤まで容易に入手できるようになりました。OJCは復刻リリース作は決して廃盤にしないことでも世界中のリスナーから重宝されています。ただしあまりにマイナーなジャズマンの作品~アーニー・ヘンリーやポール・ホーン、ジミー・ウッズ、ジョー・ゴードン、プリンス・ラシャなどもともとサイドマン級のジャズマンのアルバムはさすがに絶対廃盤にしない方針を貫けないからか、OJCリミテッド・エディション・シリーズとして限定版扱いにされ、品切れになってさらに需要があれば再プレスする建て前ですがこちらはさすがに再プレスまでされる作品はごく一部でしかないようです。エルモ・ホープ作品はプレスティッジにリーダー作3作、サイドマン作が2作あり、またコンテンポラリーが版権を獲得した西海岸のさらにマイナーなインディーのハイ・ファイ・レコーズからリーダー作1枚、サイドマン作が1枚あり、またニューヨークに戻ってリヴァーサイド・レコーズから2作を出しています。OJCから出ているこのうちリミテッド・エディション・シリーズでないのはプレスティッジでのサイドマン作、ソニー・ロリンズの『Moving Out』、ジャッキー・マクリーンの『Lights Out』とホープのプレスティッジでの最終作『Informal Jazz』くらいですが、ロリンズとマクリーンのアルバムならばピアニストがホープでなくても廃盤にはならないでしょうし、ホープ自作名義の『Informal Jazz』は'70年代にはメンバー連名のオールスター・セッション作として新装発売されていたように、トランペットにドナルド・バード、テナーサックスにハンク・モブレージョン・コルトレーン、ベースがポール・チェンバースでドラムスがフィリー・ジョー・ジョーンズと、リーダーのホープだけが落ちこぼれのようになってしまったアルバムでした。残るプレスティッジでの2作『メディテーションズ』と本作『ホープ・ミーツ・フォスター』はリミテッド・エディションです。どちらも1990年代初頭のCD化なので根気良く探さないと手に入りませんが、見つかっても大してプレミアもついていない不人気アルバムでもあります。

 本作はAllmusic.comの評価は★★★で、「イノヴェイティヴな姿勢は皆無だが、バップ・ファンなら楽しめるだろう」となげやりです。フランク・フォスターは名門カウント・ベイシー楽団員のテナー奏者でこの後独立してリーダー作を多数制作しますし、3曲のみ参加しているトランペット奏者のフリーマン・リー(この後1980年代まで消息が途絶えるマイナー奏者です)はフォスターはともにエルモ・ホープのブルー・ノートでの『Elmo Hope Quintet Volume. 2』のメンバーでした。本作も勝手知ったる仲ということからフォスターとリーを招いた企画だったのでしょう。ブルー・ノート盤『Elmo Hope Quintet Volume. 2』のベーシストはパーシー・ヒース、ドラムスはアート・ブレイキーでしたが本作当時にはヒースはモダン・ジャズ・カルテットのメンバーで、ドラムスも呼べればブレイキーでも可だったでしょうが、プレスティッジのハウス・ドラマーだったアート・テイラーで良かろうと判断されたのでしょう。ホープのプレスティッジでの最初の録音になったロリンズの『Moving Out』はブレイキーがハイハットを忘れてきてそのまま制作されたアルバムで、ハッケンサックのヴァン・ゲルダーの自宅スタジオにはピアノはありましたがドラムセットは当時予備すら置いていなかったのを明らかにするエピソードです。

 しかし、ブルー・ノートでの1954年5月と同じフロント・ラインによるクインテット、または半数の曲でリーが抜けてカルテットと書いてしまうと、もうこのアルバムについて書くのはお手上げという気がします。ブルー・ノートでのクインテット録音がいかに楽曲が良く熱意もこもっていたかを思い合わせると抜け殻のような出来で、一応の水準は保っているとはいえ聴けば聴くほど印象の稀薄な、ちょっと打ち合わせしてすぐ本番録音に入って一丁上がりのような出来です。前作『メディテーションズ』のジャケットも地味なのか渋いアート感があるのか手抜きなのか微妙なものでしたが、友軍邂逅か休戦協定の情景のような意味不明の本作のジャケットは12インチLPも定着した1957年にこれはなかろうというほどまったく売る気のないジャケットならば、内容もジャケット相応に気が入っていなのです。まずトランペット奏者がいながら6曲中3曲しか参加させていないのもあまり気にならないながらアルバムの統一感を損ねていますし、6曲中1曲のスタンダードがあの臭い「Georgia On My Mind」というとやばい予想しか浮かびませんが、この曲はスウィンガーに仕立ててあってひとまず安心します。残り5曲はホープのオリジナル曲3曲、フォスターのオリジナル曲が2曲ですが、ホープの曲は3曲ともブルースで、やや洗練されたテーマを持つA2「Zarou」はまだしもこれまでのホープのオリジナル曲の水準からは落ちる楽曲ばかりですし、まだしもAA'BA'形式のフォスターのオリジナル曲2曲の方が勝っているのではホープのリーダー作たる面子が立ちません。フォスターのオリジナル曲ではリーのトランペットかホープのピアノが先発ソロを取り、フォスター自身のソロは最後というのもカウント・ベイシー楽団員らしい和を重んじた姿勢が感じられます。本作に較べるとホープ参加のロリンズ『Moving Out』、マクリーンの『Lights Out』、またコルトレーンとモブレー参加のホープ自身の『Informal Jazz』はいかにサックス奏者で持っていたかが痛感される出来で、いっそこれならフォスターのリーダー作としてリリースされたものだったならまだしも納得がいったでしょう。ホープは管入りのバンドだとよほどオリジナル提供曲が充実していないと無個性か、または気弱で勢いのない演奏になってしまうのです。

 本作はそうした「管入りのホープのアルバムはぱっとしない」という一般的な(一応ホープの主要作はひととおり聴いた)リスナーの印象通りの出来で、ビ・バップ的な熱気もハード・バップ的な完成度もまるで不十分な、ブルー・ノートでのブラウン&ドナルドソン・クインテットホープ自身の『Elmo Hope Trio Volume. 2』はいかにホープの楽曲の粒が揃いバンド全体も気合いの入った出来だったか、ホープが安定感を欠いた、ともすれば精彩を欠いてしまうピアニストだったかを逆に証明するようなアルバムです。セロニアス・モンクバド・パウエルレニー・トリスターノがソロ・ピアノからトリオ、管入りでもいかに高く優れた水準を保っていたか、ピアノ・トリオでしかレコーディングを残せず生涯にアルバム4枚しか録音の機会に恵まれなかったハービー・ニコルスが全作品でいかに強靭な個性をアピールしていたかを嫌でも比較せざるを得ないようなアルバムで、ホープが過小評価ピアニストだったのは優れたアルバムの数々が示していますが、それでもモンクやバド、トリスターノ、ニコルスらと較べると一段落ちるピアニストであったのも実力相応の評価だろうかと情けなくなるもので、こういう聴き返すほど落胆するアルバムを大事に聴くのは名盤ばかりに慣れた耳に灸をすえられるような意義もあるでしょう。再発売されても限定版しか出ないアルバムですから凡作だといって手放したら二度と手に入らないかもしれない本作を持て余すように仕方なく持っているのも、ジャズのリスナーにとっての業のようなものです。

八木重吉「明日」(大正14年=1925年作)ほか

(大正10年、東京高等師範学校卒業頃の八木重吉、満23歳)
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(手稿小詩集「ことば(大正14年6月7日)」より「あかんぼもよびな」直筆稿)
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「明日」

 八木重吉

まづ明日も目を醒まそう
誰れがさきにめをさましても
ほかの者を皆起すのだ
眼がハッキリとさめて気持ちもたしかになったら
いままで寝ていたところはとり乱してゐるから
この三畳の間へ親子四人あつまらう
富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
桃ちやんは私のお膝へおててをついて
いつものようにお顔をつっぷすがいいよ
そこで私は聖書をとり
馬太伝六章の主の祈りをよみますから
みんないっしよに祈る心にならう
この朝のつとめを
どうぞしてたのしい真剣なつとめとして続かせたい
さお前は朝飯のしたくにおとりかかり
私は二人を子守してゐるから
お互ひに心をうち込んでその務を果そう
もう出来たのか
では皆ご飯にしよう
桃子はアブちやんをかけてそこへおすわり
陽ちやんは母ちやんのそばへすわって
皆おいちいおいちいいって食べようね
七時半ごろになると
私は勤めに出かけねばならない
まだ本当にしっくり心にあった仕事とは思はないが
とにかく自分に出来るしごとであり
妻と子を養ふ糧も得られる
大勢の子供を相手の仕事で
あながちに悪るい仕事とも思はれない
心を尽せば
少しはよい事もできるかもしれぬ
そして何より意義のあると思ふことは
生徒たちはつまり『隣人』である
それゆえに私の心は
生徒たちにむかってゐるとき
大きな修練を経てゐるのだ
何よりも一人一人の少年を
基督其人の化身とおもわねばならぬ
そればかりではない
同僚も皆彼の化身とおもわねばならぬ
(自分の妻子もそうである)
そのきもちで勤めの時間をすごすのだ
その心がけが何より根本だ
絶えずあらゆるものに額(ぬか)づいてゐよう
このおもひから
存外いやなおもひも霽(は)れていくだらう
進んで自分も更に更に美しくなり得る望みが湧こう
そうして日日をくらしていったら
つまらないと思ったこの職も
他の仕事と比べて劣ってゐるとはおもわれなくもなるであらう、
こんな望みで進むのだ、
休みの時間には
基督のことをおもひすごそう、
夕方になれば
妻や子の顔を心にうかべ乍ら家路をたどる、
美しいつつましい慰めの時だ、
よく晴れた日なら
身体(からだ)いっぱいに夕日をあび
小学生の昔にかへったつもりで口笛でも吹きながら
雨ふりならば
傘におちる雨の音にききいりながら
砂利の白いつぶをたのしんであるいてこよう
もし暴風の日があるなら
一心に基督を念じてつきぬけて来よう、
そしていつの日もいつの日も
門口には六つもの瞳がよろこびむかへてくれる、
私はその日勤め先での出来事をかたり
妻は留守中のできごとをかたる
なんでもない事でもお互ひにたのしい
そして、お互ひに今日一日
神についての考へに誤りはなかったかをかんがへ合せてみよう
又それについて話し合ってみよう、
しばらくは
親子四人他愛のない休息の時である、
私も何もかもほったらかして子供の相手だ、
やがて揃って夕食をたべる、
ささやかな生活でも
子供を二人かかえてお互ひ夕暮れ時はかなり忙しい、
さあ寝るまでは又子供等の一騒ぎだ、
そのうち奴(やっ)こさん達ちは
倒れた兵隊さんの様に一人二人と寝入ってしまふ、
私等は二人で
子供の枕元で静かに祈りをしよう、
桃子たちも眼をあいてゐたらいっしよにするのだ
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花を持ってゐたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく、
この花を抱いて皆ねむりにつこう、

(手稿小詩集「晩秋」大正14年11月22日編より)


 現・東京都町田市出身の詩人、八木重吉(明治31年=1898年2月9日生~昭和2年=1927年10月26日没)は生前に2冊の公刊詩集を編んでおり、第1詩集『秋の瞳』(全117篇)は大正14年(1925年)8月に刊行されましたが、翌年八木は結核の進行の診断を受け、病床で編まれた第2詩集『貧しき信徒』(全103篇)は生前の刊行が間に合わず、八木が昭和2年10月に亡くなった翌昭和3年(1928年)2月に遺稿詩集として追悼出版されました。その後『秋の瞳』と『貧しき信徒』からの抜粋に詩集未収録の詩誌発表詩、手稿原稿のまま遺されていた未発表詩を加えた選詩集が間を置いて数冊刊行されましたが、昭和33年(1958年)4月に彌生書房から刊行された『定本八木重吉詩集』は生前の2詩集に既発表・未発表の詩から選ばれた614篇を加えて全834篇を収録し、定本と名銘つ通り全詩集を意図したものでした。しかし『定本八木重吉詩集』刊行直後にさらに戦時中に刊行を果たせなかった大量の未発表詩稿が発見され、それらも『定本』を追補するものとして彌生書房から『花と空と祈り(新資料)』全360篇として翌昭和34年12月に刊行されましたが、八木の詩稿の全貌が明らかになったのは八木没後55年を経た昭和57年(1982年)9月~12月刊行の初の『八木重吉全集』全3巻で、そこで『定本八木重吉詩集』では抄出だった未発表詩が実際には八木自身が公刊を予定せず小詩集単位でまとめていたものであり、肉筆原稿の現存する限りでも第1詩集『秋の瞳』の時期には大正10年春以来の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455篇があり、『秋の瞳』には書き下ろし20篇が含まれ、さらに第2詩集『貧しき信徒』の時期には大正14年4月~詩集編纂の昭和2年(1927年)5月までに小詩集32冊=1,213篇があり、2篇が詩集書き下ろしであることも判明しました。上記だけで『定本』と『花と空と祈り(新資料)』を合わせた1,194篇の倍以上の2,690篇におよび、さらに八木自身によって破棄されたかもしれない詩稿、散佚した可能性のある詩稿を想像すると、八木自身が公刊を意図した詩集、全117篇の『秋の瞳』と全103篇の『貧しき信徒』は八木の書いた詩の10分の1程度だったということになります。

 八木重吉の詩はほとんどが短詩、それも10行にも満たないものが公刊された2詩集では大半で、極端なものは1~4行で、しかも凝集された短詩ほど八木の場合優れた詩が多いのはよく知られるところですが、全集で手稿小詩集を読むと、特に詩作の初期には必ずしも八木は短詩ばかりを書いていたのではなかったのがわかります。しかし公刊第1詩集『秋の瞳』編纂の頃には八木は自分の詩は短詩に本領があるのを自覚していたのが『秋の瞳』編纂中までにまとめていた40冊の小詩集からの選択から推察することができ、『貧しき信徒』の時期には小詩集にも八木は日録的な詩、生活訓や信仰(八木は熱烈な無教会派キリスト教信徒でした)信条的な詩以外はほとんど短詩に専念した詩人になりました。第2詩集『貧しき信徒』は『秋の瞳』よりさらに短詩に絞ってまとめられた詩集です。肉筆原稿の画像を掲載した短詩「あかんぼもよびな」はこの時期の現存する5番目の手稿小詩集「ことば」からですが、『貧しき信徒』の時期の手稿小詩集で珍しく長い詩が今回引いた「明日」です。「明日」を含む手稿小詩集「晩秋」は『貧しき信徒』期では現存する19番目の小詩集で、詩67篇がまとめられ、うち生前に詩誌に発表された詩が3篇あり、3篇とも『貧しき信徒』に収録されました。

「森」

日がひかりはじめたとき
森の中をみてゐたらば
森のなかに祭のやうに人をすひよせるものをかんじた

「素朴な琴」

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだろう

「響(ひびき)」

秋はあかるくなりきつた
この明るさの奥に
しづかな響があるようにおもわれる


 ――この3篇が大正14年11月22日編の手稿小詩集「晩秋」67篇から八木の生前に詩誌に発表され、公刊第2詩集『貧しき信徒』に再収録されたもので、「森」は大正15年2月「詩之家」に大正15年1月4日編の手稿小詩集「野火」からの6篇と合わせて7篇同時発表され、「素朴な琴」「響(ひびき)」は同じ大正15年2月「若草」に総題「短詩集」4篇として大正14年11月3日の手稿小詩集「赤い寝衣」からの2篇と同時発表されました。八木の第1詩集『秋の瞳』をいち早く認め、それまで詩の投稿ばかりか同人誌参加すらしたことがなかった八木を同人に勧誘したのは「詩之家」を主宰していた当時の中堅詩人・佐藤惣之助で、八木はその恩義から佐藤の後で「銅鑼」(のちの「学校」「歴程」)に勧誘してきた草野心平には同人参加は遠慮し寄稿者にとどまるのですが、この大正15年2月の「詩之家」「若草」の発表時には、「若草」では「素朴な琴」が4篇の巻頭詩で、「詩之家」7篇の巻頭詩は手稿小詩集「野火」からの次の詩でした。

「神の道」

自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになつて
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがへの末は必ずここへくる


 八木は詩誌への連続発表が病状悪化からかなわなくなるまで「詩之家」にはほとんど毎月発表を続け、「詩之家」には特に自信作を選んでいたと思われます。この「神の道」も八木の『貧しき信徒』期の代表作ですが、『貧しき信徒』の中でも抜きん出て名高い詩篇になったのは「素朴な琴」で、アンソロジーへの編入や引用の頻度からも八木の最高の詩と見なされているようです。八木が小詩集「晩秋」から詩誌発表し、公刊詩集『貧しき信徒』に選出した「森」「素朴な琴」「響(ひびき)」の3篇とも、また「晩秋」の中でも後期の八木には珍しい長詩「明日」より詩的凝集度では勝っているでしょう。長詩「明日」を短詩に凝縮したのが「神の道」なのも、赤ん坊の息子を描いて「明日」よりも「あかんぼもよびな」の方が鮮やかなのも明らかです。しかし短詩の単位では表現しきれないものを書こうとしているのも「明日」からは伝わってくるのは確かなので、もはや健康上の制約すらあった第2詩集『貧しき信徒』の編纂には短詩を断章にした連作詩集という意図もあったのではないかと思えるのです。

(引用詩は筑摩書房・昭和57年10月刊『八木重吉全集』第二巻に依り、かなづかい・小文字表記も原文に従いました。)

(旧稿を改題・手直ししました。)

アモン・デュールII Amon Duul II - 狼の街 Wolf City (United Artists, 1972)

アモン・デュールII - 狼の街 (United Artists, 1972)

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アモン・デュールII Amon Duul II - 狼の街 Wolf City (United Artists, 1972) Full Album : https://youtu.be/7LM75RePolw
Recorded at Bavaria Studios, July 1972
Released by United Artists Records
UAS 29 406 I, 1972
Produced by Olaf Kubler, Amon Düül II

(Side 1)

A1. きらめく流星群の徘徊 Surrounded by the Stars (Karrer, Rogner) - 7:44
A2. 奇妙なコートの男 Green-Bubble-Raincoated-Man (Weinzierl) - 5:03
A3. ジェイル・ハウス・フロッグ Jail-House-Frog (Weinzierl) - 4:50

(Side 2)

B1. ウルフ・シティ(狼の街) Wolf City (Karrer, Fichelscher, Rogner, Weinzierl, Meid) - 3:18
B2. 袋小路を通り抜ける風のように Wie der Wind am Ende einer Strasse (Karrer, Fichelscher, Rogner, Weinzierl, Meid) - 5:42
B3. ドイツ・ネパール Deutsch Nepal (Kubler, Meid) - 2:56
B4. 夢遊病者の限りなき橋 Sleepwalker's Timeless Bridge (Fichelscher, Rogner) - 4:54

[ Amon Duul II ]

Renate Knaup-Krotenschwanz - vocals
Chris Karrer - guitars, soprano saxophone, violin
John Weinzierl - guitars
Falk-Ulrich Rogner - organ, clavioline, synthesizer
Lothar Meid - bass, vocals, synthesizer
D. Secundus Fichelscher - drums, vocals, guitars
(Guest personnel)
Jimmy Jackson - choir organ, piano
Olaf Kubler - soprano saxophone, vocals
Peter Leopold - synthesizer, timpani, vocals
Al Sri Al Gromer - sitar
Pandit Shankar Lal - tablas
Liz van Neienhoff - tambura
Paul Heyda - violin
Rolf Zacher - vocals

(Original United Artists "Wolf City" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Side 1 Label)

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 アモン・デュールIIの『神の鞭』1969、『地獄!』1970、『野鼠の踊り』1971、『バビロンの祭り』1972に続く第5作は前作と同年の1972年に早くも発売されました。これまでのアルバムのうち『地獄!』と『野鼠の踊り』はLP2枚組、『バビロンの祭り』も当初2枚組の予定だったとのことですし、『神の鞭』『地獄!』ではイギリス人ベーシストのデイヴ・アンダーソンとドラマーのペーター・レオポルド、ギタリストのクリス・カーレルとヤン・ヴェインツィェル、キーボードのファルク・ログナーと5人が曲を書き、『野鼠の踊り』以降は新ベーシストのローター・マイト、新ドラマーのダニエル・フィッシェルシャーも作曲をしていますから、メンバーのうち常に5人が曲を持ち寄ったり共作したりしていたので多産が可能だったのでしょう。デビュー作以来のプロデューサーのオラフ・キューブラーもサックス奏者と作曲に関与していますし、本作までのアートワークはキーボードのログナーが手がけています。女性ヴォーカルのレナーテ・クナウプは『野鼠~』では1曲のみゲスト参加扱いでしたが『バビロンの祭り』からは復帰し、キーボードのログナーは『バビロン~』ではゲスト参加扱いになりましたが本作では復帰しています。『地獄!』の発売以来毎年行うようになったイギリス、フランスへのツアーも好評を博し、チャート入りするヒットはかなわなかったもののアメリカの批評家、リスナーにもカンと並んでデュールIIはもっとも注目される西ドイツのロック・バンドの地位を固めていました。タンジェリン・ドリームクラフトワークの国際進出は1974年以降ですから、その前にジャーマン・ロックはカンやデュールIIのようにサイケデリック色を残したヘヴィなロックという認知があったのです。本作発売時のテレビ出演のライヴ映像をご覧ください。
Amon Duul II - Surrounded by the Stars (TV Live, 1973) : https://youtu.be/l5vRa6Pv3PE

 アモン・デュールIIはユナイテッド・アーティスツ・レコーズ傘下のリバティ・レーベルからデビューしましたが、前作『バビロンの祭り』からは親会社のユナイテッド・アーティスツ直属のバンドに昇格します(カンも第2作まではリバティ、第3作『タゴ・マゴ(Tago Mago)』1971からはユナイテッド・アーティスツに昇格したので、2組のバンドをあわせてプロモーションする都合もあったと思われます)。マネジメントも手がけていたプロデューサーのキューブラーの手腕もあったでしょうが、『バビロン~』を1枚もののアルバムにし、同年に『狼の街』を発売したのも恒例化していたイギリス~フランス・ツアーとの相乗効果を狙ったものだったようです。アモン・デュールの次作は『バビロン~』と本作の間に行われたツアーから収録された『ライヴ・イン・ロンドン(Live In London)』1973でした。『バビロンの祭り』もA面3曲・B面3曲とそれまでにない曲のコンパクト化と比較的ストレートなロック化が賛否を呼びましたが、同様にコンパクトな楽曲でまとめられた本作はまたもや論議の対象になりながらも、アモン・デュールIIのもっとも商業的成功を収めたアルバムになりました。

 デビュー作『神の鞭』のような濃厚なサイケデリック色は後退し、またB面全面を使ったインプロヴィゼーション曲などはありませんが、楽曲と演奏の良さ、アレンジの多彩さ、アルバム全編の統一感と完成度で本作は1枚に凝縮されたアルバムとしては『神の鞭』に並ぶ名盤になりました。楽曲自体は混沌としたサイケデリック曲が並ぶ『神の鞭』とは別のバンドのようにヘヴィさは残しているもののプログレッシヴ・ロック楽曲として整理されたものですが、音程の悪さに存在感の大きいレナーテのヴォーカルもこれまでになくメロディアスなメロディーを歌っていますし、ギターとエレクトリック・ヴァイオリンを兼任するリーダーのカーレルを始めとするメンバーのアレンジ力もレナーテ不在だった『野鼠の踊り』、コンパクト化第1弾の『バビロンの祭り』を経て向上しています。次作の『ライヴ・イン・ロンドン』をリリースしてスタジオ作の制作ブランク中に、アモン・デュールIIはベーシストのマイトをリーダーにしたセッション作『ユートピア(Utopia)』1973を制作しますが(CD化の際にアモン・デュールII名義に変更)、同作も本作の水準を保ったものでした。『ライヴ・イン・ロンドン』の次に発表されたスタジオ作『恍惚万歳!(Vive La Trance)』1974ではファルク・ログナーが抜け、オイル・ショックの影響もあったか商業主義的傾向が強まり、『バビロンの祭り』から取り組んでいた楽曲のコンパクト化、ストレートなロック化にバンドのアイデンティティの危うさが目立ってきます。リスナーの半分はここでアモン・デュールIIは終わったと見なします。そのまま次作『ハイ・ジャック(Hijack)』1975ではデュールIIらしい曲は半分しかなく残り半分は単にプログレッシヴ系ハード・ロックになってしまい、次にはひさしぶりの2枚組アルバムでコンセプト・アルバムに取り組んだ『メイド・イン・ジャーマニー(Made In Germany)』1975で新境地を拓くかに見えますが同作はドイツ以外の国ではポップなロック曲のみを選んだ1枚ものでリリースされ、1973年からポポル・ヴーに掛け持ち参加していたフィッシェルシャー(ドラムス以外ギター、ベースも演奏するマルチ・プレイヤーでした)に続いてレナーテもポポル・ヴーに移ってしまいます。『ライヴ・イン・ロンドン』『恍惚万歳!』までの7作(『ユートピア』を入れれば8作)のデュールIIのアルバムは少なくとも佳作までの水準は保ちましたが、『狼の街』(と『ユートピア』)はアモン・デュールII最後の傑作と言ってよく、それを言えば強力な専任ヴォーカリストを失った1975年以降のカンも商業的には好調を維持しましたが、初期6作とその後のアルバムの落差は明らかでした。デュールIIのようなヒッピー・ミュージシャンのバンドが5年間、8作(うち2枚組アルバム2作)の絶頂期をかろうじて続けたのはそれだけでも偉とするべきで、1996年の復活以降歌姫レナーテを含む『狼の街』前後のメンバーで現在までも散発的にライヴ活動・新作制作を行っている(しかもライヴ音源や映像からは全盛期のテンションを維持している)のはアモン・デュールIIと同世代のバンドの多くがメンバーが鬼籍に入った今(アモン・デュールIIがもっとも影響されただろうジェファーソン・エアプレインやヴェルヴェット・アンダーグラウンドもリーダー格のオリジナル・メンバーが逝去し、ポポル・ヴーのリーダーも逝去し、カンもオリジナル・メンバーの現存者は一人だけになりました)、世界的にも最古参バンドとしてなお再評価されてしかるべきでしょう。またアモン・デュールIIをこれから聴くというリスナーには、少なくとも8作の素晴らしいアルバムが待っています。とりわけ『神の鞭』『地獄!』『野鼠の踊り』『バビロンの祭り』『狼の街』の5作は一度買ったら一生楽しめるクラウトロックの古典的アルバムです。

三富朽葉「水のほとりに」「メランコリア」(明治42年~43年=1909年~1910年作)

三富朽葉(明治22年=1889年8月14日生~大正6年作=1917年8月2日没)
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三富朽葉詩集』第一書房・大正15年(1926年)10月15日刊
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「水のほとりに」

 三富朽葉

水の辺(ほと)りに零れる
響ない真昼の樹魂(こだま)。

物のおもひの降り注ぐ
はてしなさ。

充ちて消えゆく
もだしの応(こた)へ。

水のほとりに生もなく死もなく、
声ない歌、
書かれぬ詩、
いずれ美(うるは)しからぬ自らがあろう?

たまたま過ぎる人の姿、獣のかげ、
それは皆遠くへ行くのだ。

色、
香(か)、
光り、
永遠に続く中(なか)。

(明治42年=1909年5月「自然と印象」創刊号)

メランコリア

 三富朽葉

外から砂鉄の臭ひを持つて来る海際の午後。
象の戯(たはむ)れるやうな濤(なみ)の呻吟(うなり)は
畳の上に横たえる身体(からだ)を
分解しようと揉んでまわる。

私は或日珍しくもない元素に成つて
重いメランコリイの底へ沈んでしまふであらう。

えたいの知れぬ此のひと時の衰えよ、
身動きもできない痺(しび)れが
筋肉のあたりを延びてゆく……
限りない物思ひのあるやうな、空しさ。

鑠(と)ける光線に続(つな)がれて
目まぐるしい蝿のひと群が旋(めぐ)る。
私は或日、砂地の影へ身を潜めて
水月(くらげ)のやうに音もなく溶け入るであらう。

太陽は紅いあかいイリュウジョンを夢みてゐる、
私は不思議な役割をつとめてるのではないか。

無花果樹(いちじく)の陰の籐椅子や、
まいまいつむりの脆(もろ)い殻のあたりへ
私は蝿の群となつて舞ひに行く。

壁の廻りの紛れ易い模様にも
ちょっと臀を突きだして止つて見た。

窓の下に死にゆくやうな尨犬(むくいぬ)よ。
私はいつしかその上で渦巻き初める、
…………………
…………………
砂鉄の臭いの懶(ものう)いひとすじ。

(明治43年=1910年9月「創作」)


 三富朽葉(明治22年=1889年8月14日生~大正6年作=1917年8月2日没)は長野県生まれ、東京育ちで、裕福な金融業者の家庭に育った詩人です。河井醉茗主宰の詩誌「文庫」に明治38年(1905年)から新体詩の流れをくむ文語抒情詩の投稿を始めて入選していましたが、早稲田大学在学中フランス象徴派の訳詩を発表、口語詩に転じ、明治42年(1909年)創刊の同人誌「自然と印象」の中心となりました。朽葉の詩史的位置は蒲原有明・伊良子精白らの文語自由詩、北原白秋の口語定型詩から「口語自由詩」を初めて明確に打ち出し、のちの萩原朔太郎らの時代を準備したことにあります。「水のほとりに」ではまだぎこちない文語脈での口語自由詩の試作にとどまっていますが、まだ高村光太郎萩原朔太郎も本格的な詩作を始めていない明治42年の段階では三富朽葉の詩は石川啄木晩年の口語自由詩の試作とともに画期的なものでした。石川啄木(1886-1912年)がようやく口語自由詩の成功作「心の姿の研究」連作を発表したのが明治42年(1909年)12月ですから、朽葉も先駆的な業績を残した詩人と言えるのです。明治43年の「メランコリア」ではさらに近代的な倦怠感の描出に進展が見られ、ほとんど啄木の晩年詩、萩原朔太郎の登場に迫っています。この「水のほとりに」と「メランコリア」の間に発表された短詩にも都会的な倦怠感の表現を目指した作品がありますが、これら発想の平凡さと、まだ行分け散文でしかないような文体の単調さが目立ち、口語自由詩である必然性を持って書かれた詩ながら、発表は「自然と印象」創刊号の「水のほとりに」よりも先に書かれた印象を受けますし、完成度は「メランコリア」におよばないながらも萩原朔太郎の「青猫」のテーマを先取りしています。

「夕暮の時」

 三富朽葉

夕暮の街が
暗い絵模様を彩る時、
人々が淡い影を引いて
舞踏するやうに過ぎて行く、
いつしらず、自分は
闇を慕うて来たかのやうに陥る、
冷たく黒い焔を燃す
冬の夜の吐息の中。

(明治43年=1910年2月「新潮」)

「のぞみ」

 三富朽葉

私は雑踏を求めて歩く、
人々に随つて行きたい、
明るい眺めに眩惑されたい、
のぞみは何処にあるのであらう、
群集の一人となりたい、
皆と同じく魂を支配したい、
荒い渇きに嘔(むか)ついて、
私は雑踏を求めて歩く。

(明治43年=1910年2月「新潮」)

 三富朽葉は明治45年(1912年)には遊廓から水揚げした夫人との結婚を機に同人誌活動を辞めますが、その結婚もすぐに夫人の出奔で破綻します。もともと金融業者の子息であることにコンプレックスをもっていた朽葉は結婚の失敗でますます失意のうちに陰棲状態に入り、詩作発表も大正3年8月に「早稲田文学」に寄稿した散文詩「生活表」を最後に、自作を「文庫」投稿時代の習作期、第1詩集(明治42年明治44年)、第2詩集(明治45年)、その後の散文詩集と整理して詩友たちとの勉強会のみ活動を続けました。そして大正6年(1917年)8月に「早稲田文学」に3年ぶりの散文詩「微笑についての反省」を寄稿して文筆活動を再開した矢先に三富朽葉は、犬吠崎の別荘に遊びに来ていた詩人仲間との海水浴中、溺れた学友時代からの詩友・今井白楊を救助しようとして白楊とともに溺死しました。享年27歳でした。三富朽葉は生前刊行詩集がなく、全詩集に訳詩・エッセイ・書簡を含む全集『三富朽葉詩集』が三富に兄事した詩人・増田篤夫によって編集・刊行されたのは大正15年(1926年)10月15日(第一書房刊)でしたが、同全集は昭和初期の詩人に初めて三富朽葉の存在を知らしめるものになりました。「詩と詩論」の指導的詩人・批評家、春山行夫は明治以降で初の詩論家と三富朽葉を称揚し、中原中也も日記に自分の認める日本の詩人として「岩野泡鳴・三富朽葉佐藤春夫高橋新吉宮澤賢治」と5人のみを上げています。しかし高村光太郎(1883-1959)の本格的な詩作が明治43年以降で第1詩集『道程』が大正3年10月、石川啄木の晩年の画期的な口語自由詩が晩年2年の明治42年~44年、晩熟だった萩原朔太郎(1886-1942)が作詩を始めたのが同年生まれの啄木の逝去に刺戟された大正2年(1913年)以降で、萩原の第1詩集『月に吠える』が大正6年2月刊なのを思うと、三富朽葉は現代詩の詩人・読者にすらあまりにも知られていない詩人で、昭和53年に『三富朽葉詩集』をさらに増補し、厳密な校訂を施した全3巻4冊(第1巻詩集・第2巻散文・第3巻上下巻研究文献)の完全な全集が刊行されていますが、今なおマイナー・ポエットの代表のような存在でしょう。しかし三富朽葉の系譜は富永太郎中原中也に受け継がれたと言ってよく、高村光太郎でもなければ萩原朔太郎でもない口語自由詩の系譜の可能性を暗示するものです。

エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - メディテーションズ Meditations (Prestige, 1955)

エルモ・ホープ・トリオ - メディテーションズ (Prestige, 1955)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - メディテーションズ Meditations (Prestige, 1955) Full Album : https://youtu.be/fW5tCyX7xgc
Recorded at The Van Gelder Studio, Hackensack, July 28, 1955
Released by Prestige Records PRLP 7010, 1955
Produced by Bob Weinstock
All compositions by Elmo Hope except as indicated

(Side A)

A1. It's a Lovely Day Today (Irving Berlin) - 2:56
A2. All the Things You Are (Oscar Hammerstein II, Jerome Kern) - 3:38
A3. Quit It - 2:53
A4. Lucky Strike - 2:38
A5. I Don't Stand a Ghost of a Chance with You (Bing Crosby, Ned Washington, Victor Young) - 3:22
A6. Huh - 4:55

(Side B)

B1. Falling in Love with Love (Lorenz Hart, Richard Rodgers) - 4:24
B2. My Heart Stood Still (Hart, Rodgers) - 3:46
B3. Elmo's Fire - 6:40
B4. I'm in the Mood for Love (Dorothy Fields, Jimmy McHugh) - 3:22
B5. Blue Mo - 4:24

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Willie Jones - drums

(Original Prestige "Meditations" LP Liner Cover & Side A Label)

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 ビ・バップの不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)の略歴については前回ブルー・ノート・レコーズでのアルバムをご紹介した際に述べましたが、R&B楽団で次々と同僚たちが念願のジャズ界に進出していくかたわら1953年6月までジャズマンとしてのデビューが遅れ、しかも名門ブルー・ノート・レコーズでクリフォード・ブラウン(トランペット)、ルー・ドナルドソン(アルトサックス)、パーシー・ヒース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)という未来のオールスター・クインテットでメイン・ソングライターを勤めながら、ホープを除くメンバーたち全員の出世を尻目にホープ自身は4回のレコーディングで25曲、うち20曲ものオリジナル曲を提供しながら、1954年8月のルー・ドナルドソンセクステットでのレコーディングを最後にブルー・ノートとの契約を打ち切られてしまいます。ホープが次の契約を結んだのはプレスティッジ・レコーズで、プレスティッジは同じニューヨークのジャズのインディー・レーベルでもブルー・ノートよりはるかに低予算で粗製濫造で知られるレーベルでした。先輩ピアニストのセロニアス・モンクもブルー・ノートで芽が出ずプレスティッジ・レコーズに移籍を余儀なくされ、1952年~1954年の2年間の契約で6回しかレコーディングの機会を与えられませんでしたが、ホープもブルー・ノートでの最後のセッションの直前の1954年8月から1956年5月までのプレスティッジ・レコーズでの2年間の契約期間中に、
Sonny Rollins/Moving Out (Prestige, rec.1954.8.18)
・Elmo Hope Trio/Meditations (Prestige, rec.1955.7.28)*新曲5曲
・Elmo Hope-Frank Foster Quintet/Hope Meets Foster (Prestige, rec.1955.10.4)*新曲3曲
Jackie McLean/Lights Out! (Prestige, rec.1956.1.27)
・Elmo Hope Sextet/Informal Jazz (Prestige, rec.1956.5.7)*新曲2曲

 の5回のレコーディングしか起用されませんでした。これも前回触れましたが、プレスティッジでの最終録音になった1956年5月7日録音の『Informal Jazz』に先立つ1956年4月26日にホープジーン・アモンズの『The Happy Blues』の録音に姿を現さず(デューク・ジョーダンが代役ピアニストを勤めました)、入院中の伯母の見舞いに行っていたと釈明しましたが、実際は薬物依存の障害によるすっぽかしでした。ホープに依頼される仕事が少なかったのも同じ理由から敬遠され、類犯検挙を警戒されていたことによります。同年ついにホープは素行(薬物使用・売買)問題からジャズ・クラブ出演許可をニューヨークのミュージシャン組合から禁止・謹慎処分されてしまいます。そして仕事はなくても顔だけは広いホープはディーラーに目をつけられて、それ以前からちょくちょくしていた密売人のアルバイトを受けて翌1957年のロサンゼルス移住まで食いつなぐことになります。

 ロサンゼルスではエルモ・ホープハロルド・ランド(テナーサックス)のバンドに在籍しつつピアノ・トリオのアルバムも制作しましたが、ともに西海岸のインディー・レーベル、ハイ・ファイ・ジャズ・レコーズからのリリースで当時まったく反響を呼びませんでした。ハロルド・ランドも「ピアニストとしては難があるが、作曲は素晴らしかった」とホープ没後に発言しているように、ホープは管楽器入りのバンドでは非常に不器用で、デビュー録音になったレギュラー・バンドのブラウン&ドナルドソン・クインテットはまだしも、プレスティッジでのソニー・ロリンズジャッキー・マクリーン、さらにエルモ・ホープクインテット名義ながらジョン・コルトレーンハンク・モブレーの2テナーがフロントを勤めた『Informal Jazz』ではほとんど存在感がありません。またホープのオリジナル曲は先輩セロニアス・モンク、モンクに兄事したホープと幼なじみのバド・パウエルにも引けをとらず、ブルースや循環、スタンダード曲の改作に拠らないオリジナルなコード進行ではモンクやパウエルを凌駕するものでしたが、ピアノ・トリオでもどこか歯切れが悪くタッチが弱いのです。全11曲中モンクやパウエル、レニー・トリスターノらと重複するバップ・スタンダード6曲、オリジナル曲5曲を収めた本作『メディテーションズ』でもこれを聴くとモンクやパウエル、トリスターノがスタンダード曲でもオリジナル曲でもいかに強靭で思い切りの良い演奏をする巨匠ピアニストだったかを思い知らされるもので、ホープの演奏も決して悪くなく、この気弱なタッチがホープらしいと言えるものですが、ホープがモンク、パウエル、トリスターノら第一線級のピアニストにはおよばなかったのもうなずけます。ベースに'60年代以降モンクやパウエル、'70年代~'90年代までサン・ラと共演することになるジョン・オール、ドラムスに本作以外ではプレスティッジ時代のモンク、『Mingus At The Bohemia』『Pithecanthropus Erectus』の時期のチャールズ・ミンガス、『The Modern Art of Jazz』のランディ・ウェストン、『The Futuristic Sounds of Sun Ra』のサン・ラ(ゲスト参加)以外に約5年間の活動期間しかないウィリー・ジョーンズというジャズ界裏街道的メンバーなのもブルー・ノートでの初のトリオ作品でのパーシー・ヒースフィリー・ジョー・ジョーンズとは対照的な本作は1966年のラスト・レコーディングまで生涯モンクやパウエルの影に隠れてうだつの上がらないビ・バップ・ピアニストだったホープ第二の出発を象徴するような地味で内省的なピアノ・トリオ・アルバムで、同年録音のレニー・トリスターノの『鬼才トリスターノ(Tristano)』やハービー・ニコルスの『ハービー・ニコルス・トリオ(Herbie Nichols Trio)』とともに主流ビ・バップ~ハード・バップ以外の方向にジャズ・ピアノが向かったかもしれない可能性を示すものです。エルモ・ホープはのちにやはり生前まったく注目されなかったピアノ・トリオの名盤『Elmo Hope Trio』(High-Fi Jazz, 1959)、『Here's Hope!』(Celebrity, 1961)、『High Hope!』(Beacon, 1961)を残し、没後10年を経て発表された1966年録音の『Last Sessions Volume 1』『Volume 2』(Inner City, 1977)を集大成として世を去りますが、それらもブルー・ノート作品と本作が起点となっているのです。

伊東静雄「水中花」(『詩集夏花』昭和15年=1940年より)

(伊東静雄<明治39年=1906年生~昭和28年=1953年没>)
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「水中花」

 伊東静雄

水中花(すゐちゆうくわ)と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい/\削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳(ことし)水無月(みなづき)のなどかくは美しき。
軒端(のきば)を見れば息吹(いぶき)のごとく
萌えいでにける釣(つり)しのぶ。
忍(しの)ぶべき昔はなくて
何(なに)をか吾の嘆きてあらむ。
六月(ろくぐわつ)の夜(よ)と昼のあはひに
万象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。
遂(つ)ひ逢はざりし人(ひと)の面影
一茎(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花(すゐちゆうくわ)。
金魚(きんぎよ)の影もそこに閃(ひらめ)きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死(し)ねといふ、
わが水無月(みなづき)のなどかくはうつくしき。

(昭和12年8月「日本浪漫派」)


 第2詩集『詩集夏花』(子文書房・昭和15年=1940年3月15日刊)収録。伊東静雄(明治39年=1906年12月10日生~昭和28年=1953年3月12日没)の詩は第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年10月刊)を詩集全編ご紹介しましたが、29歳時の同詩集以降、35歳までの作品から21篇を収めたこの第2詩集が生前に5冊が編まれた伊東静雄の詩集でも最高のものでしょう。この詩集は刊行後2年を経た昭和17年(1942年)5月に「日本浪漫派」同人の田中克己の『楊貴妃クレオパトラ』とともに第1回北村透谷賞を受賞しましたが、同月に伊東静雄は第1詩集を激賞してくれた萩原朔太郎の逝去を新聞で知り大きな衝撃を受けていました。第1詩集と『詩集夏花』の間に、伊東静雄の東京での詩集刊行記念会の際に伊東を自宅に泊めた中原中也(1907-1937)と、伊東が中原以上に共感を寄せていた立原道造(1914-1939)が早逝しています。また戦局は南京事変にまで進み、伊東は公立中学校国語教師だったため徴兵されませんでしたが、大阪で伊東が親しく交わっていた詩友の多くが徴兵されています。

 ロマン主義詩と反ロマン主義詩が交互に配置された第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』に較べ、第2詩集『詩集夏花』は一見ロマン主義詩に統一され、より日常的な題材に材を採った詩集に見えます。しかしこの詞書(ことば書き)と短詩の一体化した作品「水中花」は日常的な題材とは思えないほど激越なもので、水中花の美しさに「堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。/金魚の影もそこに閃きつ。/すべてのものは吾にむかひて/死ねといふ、」とは何という発想でしょう。伊東は体育教師の夫人との間に愛児2児をもうけた家庭人でしたが、幼な子を育てながら縁日の水中花からこれほどの詩を詠んでみせる詩人でした。この詩を含む『詩集夏花』が高橋新吉の詩集『雨雲』、立原道造の『萱草に寄す』、同じ大阪在住の詩人だった小野十三郎の『詩集大阪』、さらに高村光太郎の『智恵子抄』と同時期の詩集とはにわかには信じ難いほどですが、日本の現代詩は昭和10年代にそこまでの多様性を示していたのです。