人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

裸のラリーズ Les Rallizes Denudes - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー Heavier Than A Death In The Family (Ain't Group Sounds, 1995)

裸のラリーズ - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー (Ain't Group Sounds, 1995)

f:id:hawkrose:20210112175731j:plain
裸のラリーズ Les Rallizes Denudes - ヘヴィアー・ザン・ア・デス・イン・ザ・ファミリー Heavier Than A Death In The Family (Ain't Group Sounds, 1995) : https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nkEgwujzjAPfnoycWHv2W0748II9V3Z0k
Recorded 'le 12 mars 1977 a Tachikawa' (立川市民教育会館).
Expect Track 5 recorded live in 1973, unknown place, unknown date.
Compilation released by Ain't Group Sounds (2LP, 1CD) # AGS-1, 1995
Reissued by Phoenix Records UK, ASHCD3037, 2010
Originally Released (expect track 5) as the album "'77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version" Private Press, Rivista Inc. SIXE-0400, August 15, 1991 (expect C2: Track 5)
All Songs written by Takashi Mizutani
Arranged by Les Rallizes Denudes
(Side 1)
A1(Track 1). 夜より深く Strung Out Deeper Than The Night - 15:32
(Side 2)
B1(Track 2). 夜の収穫者たち The Night Collectors - 8:30
B2(Track 3). 夜、暗殺者の夜 Night of The Assassins - 12:04
(Side 3)
C1(Track 4). ENTER THE MIRROR Enter The Mirror - 11:30
C2(Track 5). 造花の原野 People Can Choose - 10:34
(Side 4)
D1(Track 6). 氷の炎 Ice Fire - 16:12

[ 裸のラリーズ Les Rallizes Denudes ]

Mizutani (水谷孝) - Lead Guitar, Vocals
Nakamura Takeshi (中村武司) - Electric Guitar (expect C2)
Hiroshi (楢崎裕史) - Bass (expect C2)
Mimaki Toshirou (三巻俊郎) - Drums (expect C2)
Track C2 were second guitar, bass, drums unknown.

(Compilation Ain't Group Sounds "Heavier Than A Death In The Family" LP Inner Cover & Liner Cover)
f:id:hawkrose:20210112175746j:plain
f:id:hawkrose:20210112175802j:plain
 本作は120枚を越える裸のラリーズのアルバム中もっとも入手しやすい輸入盤のロングセラーになっており、ジュリアン・コープの日本のロック研究書『ジャップロック・サンプラー(Japrock Sampler)』2007では「ジャップロック・トップ50」のうち1位のフラワー・トラベリン・バンド『SATORI』(Atlantic, 1971)、2位のスピード・グルー&シンキ『イヴ-前夜-』(Atlantic, 1971)に次ぐ日本のロック名盤3位に上げられており、現在では世界的に日本のロックならではの古典的傑作として欧米リスナーからも絶大な人気を誇るアルバムです。コープの「ジャップロック」名盤リストは4位がファー・イースト・ファミリー・バンド『多元宇宙への旅』'76、5位がJ・A・シーザー『国境巡礼歌』'73、6位がLOVE LIVE LIFE + ONE『Love Will Make A Better You』'71、7位が佐藤允彦サウンドブレーカーズ『恍惚の昭和元禄』'71、8位が芸能山城組『恐山』'76、9位が小杉武久『キャッチ・ウェイブ』'75、10位がJ・A・シーザー邪宗門』'72で、11位がファーラウト『日本人』'73、12位が裸のラリーズ『Blind Baby Has Its Mothers Eyes』2003、13位が東京キッドブラザース『書を捨てよ街へ出よう』'71、14位がファー・イースト・ファミリー・バンド『NIPPONJIN』'75、15位がスピード・グルー&シンキ『スピード・グルー&シンキ』'72とコープの独断的趣味による偏向したものですが、ジュリアン・コープによる『ジャップロック・サンプラー』の影響は大きく、21世紀の欧米諸国のクラシック・ロック・リスナーの嗜好に一致したために、同書のコープの評価が指標になって輸入盤がリリースされロングセラーを続けるという事態になっています。

 本作は1991年にバンド自身による初のフルアルバムの公式リリースとなった『'67-'69 STUDIO et LIVE』、『MIZUTANI '70』『77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』の3作からもっとも評価の高い『77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』の収録曲を1枚のCD(LPでは2枚組)に収めるために曲目を組み替えて再収録したもので、タイトルは伝説的アメリカ作家ジェームズ・エイジー唯一の長編小説『家族の中の死(Death in The Family)』から採ったものでしょう。2枚組CD『'77 Live-le 12 mars 1977 a Tachikawa - Most Violence Version』では、

(Disc One)
1-1. Enter The Mirror - 11:30
1-2. 夜、暗殺者の夜 - 12:04
1-3. 氷の炎 - 16:12
1-4. 記憶は遠い - 11:35
(Disc Two)
2-1. 夜より深く - 15:32
2-2. 夜の収穫者たち - 8:30
2-3. The Last One - 25:24

 という収録曲のうち、1-4「記憶は遠い」と2-3「The Last One」を削り、Side C2(Track 5)に1973年のライヴ音源から「造花の原野(People Can Choose)」を足したものです。「造花の原野」は公式リリースの3作には収録されておらず、本作に採られたのは同曲のもっとも早い時期のライヴ音源で、のちにこの曲はぐっとbpmを落としたダウナーなヴァージョンにアレンジされますが、初演に近いこの1973年の音源ではホークウィンド1971年のアルバム『宇宙の探求(In Search of Space)』収録曲「Masters of The Universe」を原型としたとはっきりわかるアレンジで演奏されており、この名演を収録して「夜より深く」と長大な「The Last One」をオミットして曲順を組み替えたことで、本作収録中5曲は『'77 Live』から採りながら異なる印象のアルバム、スタジオ盤に近い性格の作品性の高いアルバムになっているのが、入手のしやすさも含めて本作を2CDの『'77 Live』よりも1枚のCDに凝縮して完成度の高い作品として人気を誇っている理由でしょう。「夜、暗殺者の夜」がリトル・ペギー・マーチの「I Will Follow Him」、さらにそれをパロディにしたアモン・デュールIIの1972年のアルバム『バビロンの祭り(Carnival in Babylon)』収録曲「Hawknose Harlequin」(これはメンバーがかけもちしていたホークウィンドに捧げた曲でもあります)から発想された曲なのも明瞭であり、アモン・デュールII(西ドイツ)~ホークウィンド(イギリス)~裸のラリーズ(日本)とアイディアのバトンが渡されたのを示す選曲にもなっています。

 そんな具合に、本作はバンド黙認のコンピレーション兼再リリースのアルバムながら、1967年の結成から1998年の活動停止まで、30年間に3作の公式アルバム(それもようやく1991年になって旧録音を、同時に自主制作盤の限定発売で!)しか残さなかった日本のアンダーグラウンド・ロックを代表するバンド、しかも欧米諸国では(日本のリスナーにさえも)伝説的なサイケデリック・ギター最大のバンドとされている裸のラリーズの、意図せずして代表作となったアルバムです。バンド側では一切関知せず、著作権登録がされていないために勝手に編集されたアルバムが代表作となるという事態はラリーズ以外のバンドには考えられません。ザ・ドアーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジャックス、13thフロア・エレベーターズやスーサイド、クロームに匹敵するモンスター級のサイケデリック・バンド、さらにカンの『Monster Movie』'69、アモン・デュール『Psychedelic Underground』'69、タンジェリン・ドリーム『Electronic Meditation』'70、アモン・デュールII『Yeti』'70、グル・グル『UFO』'70、アシュ・ラ・テンペルAsh Ra Tempel』'71と並ぶアシッド・ロック史上に燦然と輝くアルバムです。裸のラリーズ水谷孝氏のレッドゾーンを振り切ったギター、他のバンドではまず考えられない、地の底からささやきかけてくるようなヴォーカルをぜひご体験ください。

降る雪やプロコル・ハルムの「青い影」

f:id:hawkrose:20210111234721j:plain
f:id:hawkrose:20210111234734j:plain
プロコル・ハルム Procol Harum - 青い影 A Winte Shade Of Pale (Deram/, May 1967) : https://youtu.be/z0vCwGUZe1I

 下七五が決まった俳句でもっとも有名なものには中村草田男(1901-1983)の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年=1931年)がありますが、一転して「バンド名込みで上五をつければ俳句になるタイトル」として冗談のネタにされるのが1967年イギリスのNo.1ヒット(全米最高位5位、ヨーロッパ諸国・南米のほとんどでトップ3ヒット)、「プロコル・ハルムの『青い影』」でございます。特に'60年代ポップスに興味などない方でも何らかの機会にお聴きになったことがあるでしょう。日本でもユーロビート以前のディスコ(死語に近いですが)ではチーク・タイム(これも死語)の定番曲だったそうで、有名曲で誰でも知ってるのに歌メロはR&Bなのでタイトルの部分しか歌えないことでも有名な曲です。ちなみに「青い影」とは名邦題で、「Shade Of Pale」とはかすれた影、おぼろげな影、うっすらとした影というのが正確だそうですから「青い影」と決めたのは日本のレコード会社のセンスでした。もっともプロコル・ハルムに先立って日本の誇るブルー・コメッツが「青い瞳」「ブルー・シャトウ」を始めとする、バンド名にひっかけた「青い」シリーズを連発していたので、いかにも'60年代ポップス界らしい邦題のつけ方という気もします。またタイトル通りこれは冬の憂鬱を歌った曲で、ジョン・レノンが「生涯でベスト3に入る好きな曲」とまで発言したこと(ジョンのことだから後で撤回したかもしれませんが)でも知られます。

 歌メロがトーキング・ブルース調の「歌えない」ものなのにキャッチャーで大ヒットしたのは特徴的なオルガンで、これはオルガン奏者のマシュー・フィッシャーがバッハの『管弦楽組曲第3番「G線上のアリア」』から引用したものでした。18世紀初頭の曲ですから著作権上の問題はありません。プロコル・ハルムはこの曲がデビュー曲で、同年デビューのピンク・フロイドやザ・ナイス、メンバー・チェンジして再デビューのムーディー・ブルースと並んでイギリスのサイケデリック・ロックプログレッシヴ・ロックの開祖とされることになりました。ただしプロコル・ハルムの場合はリード・ヴォーカルでピアノ、作曲を手がけるゲイリー・ブルッカーと専属作詞家のキース・リードのみが発足当時のメンバーで、セッション・メンバーのオルガン奏者マシュー・フィッシャーはこの曲が大ヒットしたことから正式にメンバーに加わり(のちに脱退)、アルバム制作が始まってからメンバーが招集された「作られたバンド」でした。日本でも渋好みのファンの多いバンドでしたが、日本公演の際にブルッカーがMCで「日本人には歌詞などわかるまい!」と発言したことから嫌いになったファンも多いと言われます。

 バッハのフーガの引用は他のバンドにも「クラシック楽曲の引用」として影響を与え、のちにフィッシャーとブルッカーの間でどちらがこのアイディアを出したか著作権訴訟にもなりましたが、「青い影」など誰がやっても同じとインストルメンタル・ヴァージョンでこの曲のパロディをやったのが、ブリティッシュ・ロック界きってのドラマー、ジョン・ハイズマンの結成したジャズ・ロック・バンド「コロシアム」のデビュー・アルバムに収録されています。もちろんコロシアムのオリジナル曲としてです。それがこれ、タイトルからして「青い影」をおちょくった「ビーウェア・ザ・アイデス・オブ・マーチ(Beware the Idea of March)」です。
f:id:hawkrose:20210111234752j:plain
コロシアム Colosseum - ビーウェア・ザ・アイデス・オブ・マーチ Beware the Idea of March (From the album "Those Who Are About to Die Salute You", Fontana, May 1969) : https://youtu.be/Hj-eRjEMVwk

 しかし「青い影」を下敷きにした曲で、はっきり「青い影」を元ネタにしたとわかりながら、美しいメロディーと歌詞で日本語ロックの名曲となったのはザ・ハプニングス・フォーのデビュー曲「あなたが欲しい」でしょう。もともと博多のジャズ・クラブのピアノ・トリオがグループ・サウンズ・ブームに乗ってヴォーカリストを入れてロック化したというギターレスのキーボード・バンドですが、作詞作曲編曲を手がけるキーボード奏者・クニ河内氏の才能とぺぺ吉弘・チト河内氏の優れたベースとドラムス、バンドボーイから抜擢されたというトメ北川さんのソウルフルなヴォーカルで、「青い影」を下敷きにしながら独自の立派な日本語ロックの創造に成功したこの名曲は、「青い影」のリリースからわずか半年で日本からプロコル・ハルムに応えたアンサー・ソングでもあり、昭和42年(1967年)にこんな日本のロックがあったという歴史的な楽曲です。ロック・バンドでありながらギターレス・トリオという楽器編成はザ・ナイスより先駆けています。「青い影」から2年後のコロシアムのパロディよりもはるかに優れたこの曲を、ぜひお聴きください。なお'60年代ポップスの冬の曲といえばサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道(A Hazy Shade of Winter)」(1966年10月)も落とせませんが、それはまた今度。
f:id:hawkrose:20210111234810j:plain
ザ・ハプニングス・フォー - あなたが欲しい (東芝Express/Capitol, November 1967) : https://youtu.be/hIQd3dX6dVA

蒲原有明詩集『獨弦哀歌』明治36年(1903年)より

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
f:id:hawkrose:20210110154314j:plain

あだならまし


道なき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途みち倦みて行くによるか。
星影夜天(やてん)の宿(しゆく)にかがやけども
時劫(じごふ)の激浪(おほなみ)刻む柱見えず、
ましてや靡(しな)へ起き伏す靈の野のべ
沁しみ入るさびしさいかで人傳へむ。

君今いのちのかよひ路(ぢ)馳せゆくとき
夕影(ゆふかげ)たちまち動き涙涸れて、
短かき生(せい)の泉は盡き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌聲(うたごゑ)ともにあだならまし。

(初出・明治34年=1901年8月「明星」)

靜かに今見よ


靜かに今見よ、園の白壁(しらかべ)にぞ
楊(やなぎ)の一つ樹枝(こえだ)の影映(うつ)れる。
その影忽ち滅えぬ、――かの蒼波(あをなみ)
かくこそ海原闇き底に潜め。
影また漸く明り射す光の
眩(まばゆ)く白く纒ふをながめいれば、
かつ墮(お)ちかつ浮び來るそのきそひに
滿ちまた涸れゆくこころ禁(とど)めかねつ。

運命深き轍(わだち)の痕(あと)傳へて
見えざる車響けば、宴樂(うたげ)にほひ、
歌聲輟(や)むも束の間、おもへばげに
こは世に痛き鞭笞(しもと)や壁なるかげ――
むちうて、汝(いまし)虚(むな)しく見えなせども
花園榮なき日にもこは無窮(とこしへ)

(初出原題「静かに見よ」・明治34年9月「明星」)

君も過ぎぬ


遽(には)かにわが身變(かは)りぬ、否さらずば
聲なき歡樂(よろこび)手をば高くあげて、
『見よこの過ぎ行く影を、いざ』と指(さ)すか、
遷轉(せんてん)無窮(むきゆう)の夢ぞ卷きて披(ひら)く。
流るるこの甃石(いしだたみ)、都大路
酒の香、衣(きぬ)の色(いろ)彩(あや)みだれうかぶ、――
あやしや此處にもしばし彼の自然の
高嶺(たかね)の、大野(おほの)の力こもりぬらし。

嗚呼喧噪(けんさう)の巷も今し見れば、
往きかふ人影淡き光帶びて
あかつき朝日纒へる雲に似たり。
臈(らふ)たき人よ、この時かしこを君、
極熱(ごくねつ)豐麗ほうれい)の土しばし抽ぬきて
花草匂ふがごとく君も過ぎぬ。

(初出・明治34年9月「明星」、以上3篇詩集『獨弦哀歌』明治36年1903年5月より)


 明治時代の詩人で誰が良いといえば蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)になります。有明薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。しかし有明の詩は豊かな音楽性を誇る作風や格調の高さ、内省的な観照性では泣菫を上回り、北村透谷や島崎藤村らによって始められた明治の文語自由詩は有明によって極められたと言ってよいものです。自身も啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外(1862-1922)は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩は島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」にインスパイアされた作品で素朴な感動を湛え、人口に膾炙した「牡蠣の殼」がすでに第1詩集『草わかば』に含まれており、明治時代の有明の4詩集は鴎外のみならず北原白秋(1885t1942)、萩原朔太郎(1886-1942)、日夏耿之介(1890-1971)らも生涯激賞してやまなかったもので、『有明集』以降の新作や訳詩を収めて全詩集を改作・改訂した有明初の全詩集『有明詩集』は白秋が創設した出版社のアルスから大正11年(1922年)6月に刊行され、大正14年(1925年)5月には改訂5版が刊行されるロングセラーになっています。有明はその後も昭和3年(1928年)11月の岩波文庫版『有明詩抄』、昭和5年(1930年)7月の『現代詩人全集・蒲原有明集』、昭和10年(1935年)8月の新潮文庫版『蒲原有明集』、昭和22年(1947年)8月の『春鳥集改訂版』、昭和25年(1950年)7月の『有明全詩抄』と詩集再刊のたびに新作の追加と全詩集の改訂を行い、昭和27年(1952年)2月3日に数75歳の長寿で逝去しましたが、3月刊行の新潮文庫版の新版『蒲原有明詩集』の序文が絶筆となり、新版新潮文庫蒲原有明詩集』もさらに改訂が加えられたものでした。

 有明は上記の通り生涯に渡って既発表作品の改作と断続的な新作発表を続けたので、『有明集』以降の新作も悠に詩集2冊分相当はあるといえ、30歳の第4詩集『有明集』までの全詩集の改訂を75歳の逝去直前まで行っていた特異な経歴は有明と同世代の詩人にも類を見ないもので、有明研究の単行本論集も長文の有明論を含む日夏耿之介『明治大正詩史』(昭和4年)、矢野峰人蒲原有明研究』(昭和23年・昭和16年刊行予定の内容が戦時事情から出版の遅れたもの)、長文の有明論を含む窪田般弥『日本の象徴詩人』(昭和38年)、松村緑『蒲原有明論考』(昭和40年)、蒲原有明評伝を含む河合醉茗夫人の島本久恵『明治詩人傳』(昭和42年)、安東次男による詳細な註釈が付された中央公論社『日本の詩歌・第2巻』(昭和44年)、雑誌「現代詩手帖」増頁特集号「特集・蒲原有明」(昭和51年10月)、先駆的現代詩人としての有明を論じ画期的な長編論考となった渋沢孝輔蒲原有明論』(昭和55年)と精緻な論考に欠きません。晩年近くに偶然近況が知られたことから自伝的長編小説『夢は呼び交す』が刊行(昭和22年)されたのも有明研究を促すことになり、同自伝の刊行によって有明土井晩翠とともに日本芸術院会員に迎えられています。有明没後の昭和29年に初めて『草わかば』『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』がのちの改作によらず初版本を底本に創元社の『現代日本詩人全集』に収められ、創元社版では『獨弦哀歌』『春鳥集』『有明集』に収められた訳詩は割愛されていましたが、昭和32年筑摩書房版『現代日本文學全集』や昭和42年の筑摩書房版『明治文學全集』、昭和43年の講談社版『日本現代文學全集』では有明の明治時代の4詩集全編が訳詩も含めて収録されました。河出書房から昭和32年に刊行された『定本蒲原有明全詩集』は有明生前の最終改訂版が採用され、雑誌掲載時から初版詩集、有明生前の全詩集・選詩集ごとのヴァリアント(改訂異稿)がまとめられています。現在有明の詩は初版詩集収録型が最善とされているので、日夏耿之介の論考以来、矢野峰人、松村緑、島本久恵らも日夏の指摘を是としています。実作者の立場から(日夏も実作者でしたが)アルス版『有明詩集』以降の改訂稿、『有明集』以降の新詩集に再評価を促したのが安東次男や渋沢孝輔で、安東の註釈や渋沢の論考では数次に渡る改訂稿や『有明集』以降の新詩集が目を向けられていますが、その辺は初版詩集による翻刻を味読してから立ち入らないとなかなかわからない領域でしょう。今回は第3詩集『獨弦哀歌』から佳作を3篇上げました。いずれも高度な達成を見せてあまりあり、今日読むと北原白秋の『邪宗門』や三木露風の『廃園』が有明の存在を脅かして引退同然に追いやったのは何かの間違いではないかと思われるほどです。文語や稀語によってこれらの詩は一見難解になっていますが、漢語と倭語(やまとことば)の配分によって有明の詩が湛える音楽性は文語自由詩型ならではの美しさがあり、それは明治30年代~明治40年代につかの間に日本の現代詩に咲いた花でした。大正以降100年来の日本の詩人はもはや有明のようには文語詩を咲かせることはできません。ただ読んで歎息するしかないこれらの詩の美しさはあまりに急速な文化状況にあって有明本人をも置き去りにするようなものでした。有明が生涯自作を改作し続けたのも同じ理由からだったに違いなく、有明の栄光も悲劇もそこに同居していたのです。

サン・ラ究極の一曲!

サン・ラ・アーケストラ・フィーチャリング・ジューン・タイソン - ゼイル・カム・バック (Various)

f:id:hawkrose:20210108215059j:plain
サン・ラ・アーケストラ・フィーチャリング・ジューン・タイソン Sun Ra Arkestra Featuring June Tyson - ゼイル・カム・バック They'll Come Back (Word & Music by Sun Ra) (Modern Harmonic, 2019) : https://youtu.be/ScupBPz2C90
From the Compilation Album "The Saturnian Queen of The Sun Ra Arkestra", Modern Harmonic MHCD-014, November 29, 2019

 デトロイトの伝説的プロト・パンク・バンドのMC5や、クイーンの「レディオ・ガガ」から源氏名を採ったレディ・ガガがサン・ラのオリジナル・ヴォーカル曲「Rocket Number 9」を改作してカヴァーしているのは以前に触れましたが、今回ご紹介するサン・ラのオリジナル・ヴォーカル曲はクイーンの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」の元ネタです。とは半分冗談・半分本当(盗作提訴したら二審くらいまでは上がったでしょう)で、そのくらいサン・ラにはキャッチャーなアンセム的ヴォーカル曲もあるというのが今回の本題です。サン・ラ・アーケストラに女性ヴォーカリストのジューン・タイソン(1936-1992)が参加し、やがてレギュラー・メンバーになったのは1968年~1969年にかけてのことでしたが、当初サン・ラ(1914-1993)は女性メンバーの正式参加(それまでにも一時的参加の女性メンバーはいましたが)には難色を示していました。バンド内での色恋沙汰を懸念してですが、アーケストラの演奏と渡りあえるタイソンの実力と、タイソンがすでにアーケストラの音響・ステージの専属スタッフの夫人だったことから問題なかろうとタイソンは正式メンバーとなり、1971年のヨーロッパ~エジプト・ツアーからライヴにも参加するようになります。以降タイソンは1992年11月に乳癌で逝去するまでアーケストラのヴォーカリストを勤め、1992年7月4日に行われたアメリカ独立記念日の無料フェスティヴァルがタイソン最後のステージになりました。一昨年2019年11月にリリースされたコンピレーションCD『The Saturnian Queen of The Sun Ra Arkestra』はタイソンがリード・ヴォーカルを勤めたサン・ラ・アーケストラの楽曲を集めた初のアルバムで、全17曲のうち未発表テイク5曲、既発表ながら短縮編集されてリリースされていた曲の無編集テイク1曲を含む、これまで同様の企画(アーケストラ以外でのタイソンの録音を軸にアーケストラからの曲を加えた編集盤はありましたが)がなかったのがむしろ意外な編集盤です。またこのアルバムで、収録時期は不明ながら、1971年以来ステージではコンサート中盤の区切りに歌われ、'80年代以降はエンディングまたはアンコール・ナンバーとして歌われてきた名曲「They'll Come Back」の未発表テイクが発掘・収録されたのも収穫でした。この曲はタイソン生前の20年間(そして没後も後任ヴォーカリストによって)アーケストラのライヴではタイソンのリード・ヴォーカルにメンバーの合唱、パーカッションと手拍子・足踏みだけのアカペラで歌われることになりましたが、初発表時にはインストルメンタル曲で、ライヴ・レパートリーに採用されるに当たってサン・ラ自身によって作詞されたものです。

◎Sun Ra and his Solar-Myth Arkestra - They'll Come Back (BYG, 1971) : https://youtu.be/3kbntjmJKMg
Recorded at Arkestra's Rehearsal Space, Between 1968-1970
From the Album "The Solar-Myth Approach, Vol.1", Disques BYG Actuel 40-529340, 1971

 もともとこの曲がインストルメンタル・ヴァージョンでも完成度が高く、人類の遺伝子に直接伝わってくるような純粋で雄大な曲想を持つ曲なのはスタジオ録音版からも伝わってきます。アーケストラのオーケストレーションもまるで億単位の時間の中で生まれては消えてゆく無限の生命の営みのはかなさを葬送する天上の音楽のような和声を奏で、これほど美しい曲はあるだろうかと涙が浮かびます。この曲はほとんどジャズやブルース、ゴスペルを越えて黒人音楽のルーツそのものを感じさせる伝承歌の域に達しており、またサン・ラもアーケストラのアンサンブルによるビッグバンド・ヴァージョンはこの完璧な初録音だけでやり尽くした思いがあったのでしょう。同ヴァージョンを収録したアルバム『The Solar-Myth Approach, Vol.1』はフランスのアンダーグラウンド音楽専門レーベルBYGの依頼に応じて提供した未発表曲集で、1968年~1970年録音と時期もメンバーも特定できませんが、この「They'll Come Back」1曲・4分弱だけでもアルバム1枚分以上の密度があります。「They'll Come Back」の前では白人ポピュラー音楽の「明日に架ける橋」や「レット・イット・ビー」「イマジン」などは児戯に思えるほどです。1971年、歌姫ジューン・タイソンをメンバーに加えたサン・ラ・アーケストラはヨーロッパ諸国のみならずエジプト公演まで含む長期の海外公演を行います。YouTube上にアップされているものから1971年ツアーの「They'll Come Back」を引きました。すでにこの曲はジューン・タイソンのアカペラ・ヴォーカル曲にアップデイトされています。以降もこの曲はアーケストラの歌姫ジューン・タイソンのソロ・ヴォーカル曲としてアカペラで歌い継がれます。ヴォーカリストのアカペラでもジューン・タイソンのソロではなくサン・ラ・アーケストラのサウンドになっているのは驚異的なことです。サン・ラにとってもタイソンにとっても最晩年のライヴ・アルバム『Friendly Galaxy』で聴けるライヴ・テイクはメンバーの大合唱とパーカッション・アンサンブルを交えて6分あまりに及ぶ最高のヴァージョンで、この時期すでにサン・ラは不整脈脳梗塞による病状から半身不随になって車椅子でステージを勤めており、初期アーケストラ以来のメンバーたちもしばしば入退院を余儀なくされ、タイソンも翌年に逝去するので、サン・ラ生前のアーケストラの最後は刻々と近づいていました。病床のタイソンが抜けた1992年10月21日の1時間程度のステージがサン・ラ最後のライヴ出演になり(翌月ジューン・タイソンは逝去します)、郷里で療養生活に入ったサン・ラは1年半の闘病後1993年5月30日に逝去しました。79歳の誕生日(5月22日)を迎えて1週間後のことでした。葬儀・埋葬式ではアーケストラの現存メンバーが追悼演奏し、ヴォーカル曲の「Interstellar Low Ways」「We Travel The Space Ways」、そして「They'll Come Back」が歌われました。

◎Sun Ra & His Intergalactic Solar Research Arkestra - They'll Come Back (Live in Delft, Holland 1971 Part 2) : http://youtu.be/VwVchG2xK6s
Recorded live at Technische Hogeschool, Nieuwe Aula, Delft, The Netherlands November 11, 71
From TV Broadcast (Sound only)

◎Sun Ra Arkestra - They'll Come Back (Transparency, 2010) : https://youtu.be/zZeSsoRVvFI
Recorded live at Tearro Giulio Caesar, Rome, Italy, May 3, 1981
From the Album "Live In Rome", Transparency Records 0315 (2CD), 2010

◎Sun Ra - Friendly Galaxy (Leo, 1993) : https://youtu.be/TI6b5BY4HxI
Recorded live at Banlieues Bleus, Salles des Fetes Marie, Montreuil, France, 11 April 1991
From the album "Friendly Galaxy", Leo Records LR188, 1993

 サン・ラ没後もアーケストラはサン・ラの遺志を継ぎ、サックス・セクションの重鎮だったマーシャル・アレン(1924-)をリーダーとして新旧メンバー混成でコンサート活動、レコーディング活動を続け、今年96歳を迎えてなお現役のアレンを中心にほぼ毎年の海外公演、アメリカ国内公演を行っています。最後は現在のメンバーによるサン・ラ・アーケストラの「They'll Come Back」の2019年4月、ウィーンのコンサートでの客席撮影映像を引きます。現在の女性リード・ヴォーカリストの隣に立って歌っているのが昨年、95歳のマーシャル・アレンです。観客撮影とはいえ映像の説得力は絶大で、タイソンとサン・ラもこのようにしてステージに立っていたのかと彷彿させる感動的な動画です。

◎Marshall Allen's Sun Ra Arkestra - They'll Come Back (Audience Shooting Movie, Live in Vienna, April 28, 2019) : https://youtu.be/qLkoWkj04SE

蒲原有明「牡蠣の殻」「甕の水」(創元社『蒲原有明全詩集』より)

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
f:id:hawkrose:20210108134712j:plain

牡蠣の殼


牡蠣(かき)の殼(から)なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨(ひと)りあやふく限ある
そのおもひこそ悲しけれ

身はこれ盲目(めしひ)すべもなく
巖(いはほ)のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮(しほ)のみちひをおぼゆめり

いかに黎明(あさあけ)あさ汐(じほ)の
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼

たとへ夕づついと清き
光は浪の穗に照りて
遠野(とほの)が鴿(はと)の面影に
似たりとてはた何ならむ

痛いたましきかなわたづみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど

されど一度(ひとたび)あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎(くだ)けざるべき

(初出・明治34年=1901年5月「明星」、詩集『草わかば』より)

甕の水


甕(かめ)の水濁りて古し、
このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、
甕の水、
惜しげなき逸(はや)りごころに。

音鈍(にぶ)し、水はあへなく、
あざれたる溝(みぞ)に這ひ寄り、
音鈍し、
呟(つぶ)やける「夢」のくちばみ。

去(い)ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
噫(ああ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

耀(かがや)きぬ雲の夕映(ゆふばえ)、
いやはての甕の雫(しづく)に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。

「戀」なりや、雫の珠(たま)は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇(くら)きに沈む。

夜(よ)となりき、嘆くも果敢(はか)な、
空しかる甕を抱(いだ)きて、
夜(よ)となりき、
あやなくもこころぞ渇く。

(初出・明治40年=1907年1月「ひぐるま」、詩集『有明集』より)


 蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)
もまた薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩としては例外的に人口に膾炙した「牡蠣の殼」は第1詩集『草わかば』にあって素朴な感動を湛えた名作で、有明には島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」(のちに歌曲化されましたが、作曲・放送・レコード発売は昭和11年=1936年です)が念頭にあったと推定されています。しかし詩としては有明の「牡蠣の殻」は「椰子の実」より格段に渋いもので、この渋さは同じ音楽的な性格の詩であっても歌われるよりも淡々と朗読されるにふさわしいものであり、萩原朔太郎は生涯有明を敬愛していましたが、晩年には自宅の縁側でお銚子を傾けながら有明の詩を飽きずに暗唱し、「有明はいいな」とひとりごちていたという証言があります。

 巻頭の部「豹の血」から劇的で強烈な象徴主義詩が並ぶ第4詩集『有明集』は今日定評がある通り日本の象徴主義詩として最高峰を極めた、異様な共感覚に溢れた傑作詩集ですが、その中にあってもっとも地味な部類に入る詩集中盤の詩篇も佳作揃いであり、「甕の水」はしみじみ良い詩です。小津安二郎の映画『晩春』には壺の長いショットがありますが、さすがに詩で「甕甕甕甕甕……」と書くと高橋新吉になってしまいますからそれなりに甕をめぐる描写や心象が書かれているのですが、小島信夫の小説で精神的な危機感に見舞われた主人公が「甕の中に水がある……それは自明のことなのだろうか」と悩む描写があった記憶がありますが、小島信夫の小説の60年あまり前に「甕の水」をとっかかりにして何とも言葉にし難い感覚をこの詩は確かに定着しています。それは自然主義詩でもなければ象徴主義的抒情詩でもなく、このように書かれなければ霧消してしまったようなある一定の感覚であり、翻訳詩にはなく有明自身が現実から見出した一種の現象で、文語自由詩の体裁を採りながら文語によって縛られず、やや誇大な物言いになるのを承知で言えばおそらく生命の原初から生けるものが抱いてきた実存の虚数のような感覚です。有明が実際に精神的危機から来る神秘体験を経験し、また『有明集』創作時から結果的には文筆活動の引退を迫られるほどの重鬱にきったのがこの詩と無関係とは言えないでしょうが、「空しかる甕を抱きて、/夜となりき、/あやなくもこころぞ渇く。」という認識の状態に置かれた有明がほどなく詩を辞めてしまうのは回避できないことだったのを示すリアリティがここにあり、外国語詩に翻訳してもこの詩の本質は欠落しないでしょうが、日本語詩としてはこの「甕の水」に書かれた以外の文体でこれを再現することは不可能でしょう。「牡蠣の殻」と「甕の水」を結ぶテーマはひとすじのもので、それは薄田泣菫の「村娘」と「鳰の淨め」が結ばれているのと一見似ていますが、泣菫が「村娘」と「鳰の淨め」で書いたテーマは藤村の『若菜集』の「六人の乙女」から引き継ぎ、やがて立原道造に流れていくようなものでした。有明の「牡蠣の殻」はまだしも模倣者の現れる余地がありますが、「甕の水」では失語の一歩手前で書かれたような詩であり、さらに恐ろしいことに有明の詩には「甕の水」と同等かそれ以上の地点で破綻ぎりぎりに成立した詩がいくつも上げられます。おそらく賢明な泣菫は、有明のような地点には立ち入らないことで積極的にエッセイストに転身したのでしょうが、有明は生涯自作をより深い混迷に向けて改作し続けたのです。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド The Velvet Underground - ローディッド Loaded (Cotillion, 1970)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド - ローディッド (Cotillion, 1970)

f:id:hawkrose:20210108000423j:plain
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド The Velvet Underground - ローディッド Loaded (Cotillion, 1970) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLsQfpW7FBkHwJFQwZJyrQUGIS2nA38PDP
Recorded at Atlantic Studios, New York, April - July, 1970
Released by Atlantic Records Cotillion SD 9034, September 1970
Produced by Geoffrey Haslam, Shel Kagan & The Velvet Underground
All the selection are by The Velvet Underground (Lou Reed)
(Side One)
A1. Who Loves the Sun - 2:45
A2. Sweet Jane - 4:06
A3. Rock & Roll - 4:44
A4. Cool It Down - 3:06
A5. New Age - 5:11
(Side Two)
B1. Head Held High - 2:58
B2. Lonesome Cowboy Bill - 2:45
B3. I Found a Reason - 4:17
B4. Train Round the Bend - 3:22
B5. Oh! Sweet Nuthin' - 7:29

[ The Velvet Underground ]

Lou Reed - vocals (A2, A3, A4, B1, B4), guitars
Starling Morrison - guitars
Doug Yule - organ, bass, vocals (A1, A5, B2, B3, B5)
Maureen Tucker - drtms, percussion
Bill Yule - drums

(Original Cotillion "Loaded" LP Liner Cover & Side One Label)
f:id:hawkrose:20210108000457j:plain
f:id:hawkrose:20210108000527j:plain
 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの全アルバムやバンドの歴史についてはセカンド・アルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』をご紹介した際に概略をまとめましたので、そちらをご参照ください。本作はリーダーのルー・リード在籍時の最後のスタジオ・アルバムで、全作詞作曲ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとなっています。アルバム発表前月にリードが脱退したためバンド名義の作詞作曲表示になったもので、のちリードからの訴訟により全作詞作曲ルー・リード著作権登録が改められました。リード脱退後、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは1968年12月録音の第3作『The Velvet Underground』から参加したダグ・ユールがリーダーになって、1974年まで断続的な活動を続けます。その間にルー・リードはソロ・アーティストとして大成功を収めたので、長らくリード脱退後のヴェルヴェットはなかったことにされてしまっていたほどでした。本作制作の時点でリードは脱退の意志を固めており、マネジメントがリード脱退後もユールをリーダーに替えてヴェルヴェット・アンダーグラウンドの継続を決めていたことから(裏ジャケットでスタジオ作業中のショットに写っているのもユール一人です)半数の曲ではすでにダグ・ユールがリード・ヴォーカルに起用されており、さらに主流ロックに近づいたストリート感覚のロックンロール・アルバムに仕上げられていることから、本作はダークでシニカル、背徳的で頽廃的なサウンドだった初期2作のヴェルヴェットから、脱力したようなバッド・トリップ感に移ったサード・アルバムを挟んでさらにポップ化したアルバムとして賛否両論あるものでした。現在ではルー・リード在籍時のヴェルヴェット・アンダーグラウンドのスタジオ盤4作はいずれ劣らぬ名盤と認められており、本作『ローディッド』はポップ化の限界ゆえに4作中でも際立ったアルバムと目されています。本作収録の「Sweet Jane」「Rock & Roll」は多くのカヴァーを生み、生涯ルー・リードの代表曲としてライヴの定番曲となった名曲です。

 バンドは1969年5月~10月にライヴ巡業の合間を縫ってMGMレコーズのための次のアルバムの録音を行いますが、結局それらはMGMによる契約打ち切りで未発表デモテープの段階のまま終わることになります。ヴェルヴェットの再評価の高まりによって1985年にもなって発表されたのが未発表曲集『VU』『Another View』の2枚です。アトランティック・レコーズ傘下のコティリオン・レコーズに移籍したバンドはMGMに残した未発表曲は取り下げ(のち多くはルー・リードのソロ・アーティスト・デビューになるアルバムで再録音されます)、移籍後の新曲のデモテープ作りからリハーサルを始めます。それが1969年末と1970年4月のセッションでしたが、4月後半から7月にかけての『Loaded』収録テイクのレコーディングはオリジナル・メンバーのドラマー、モーリン・タッカーが産休のためにバンドを一時脱退し、ダグ・ユールの弟の高校生ドラマーのビル・ユールが勤めました(産休明け後タッカーはバンドに復帰、タッカーの再脱退後ビル・ユールは再加入します)。ボーナス・トラック入りの『ローディッド』の2CDデラックス・エディションではアルバム2枚分のレパートリーから『ローディッド』が完成したのが明らかにされ、ソロ活動に移る直前の時期にいかにルー・リードが多作で、創作力に満ちていたかが知られることになりました。同じニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのバンドでもヴェルヴェットはファッグスやパールズ・ビフォア・スワイン、ゴッズなどより純粋にプロフェッショナルなミュージシャン集団であり、はっきりと楽曲と演奏で勝負できるグループでした。全アルバムの高い音楽的水準がそれを示してあまりあります。特に正攻法のロックンロールで成功作となった本作『ローディッド』はファッグスやゴッズには作り得ないものでした。もちろんこれはファッグスやパールズ、ゴッズらの魅力を十分に認めた上での話です。

 オリジナル・メンバーでリードと双頭リーダーだったジョン・ケイルに代わってダグ・ユールが加入したサード・アルバムと本作『ローディッド』はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの作風の転機が明確に現れた問題作ですが、ヴェルヴェットの4作のアルバムはいずれも収録曲の全曲がのちのアーティストによってカヴァーされ、どのからも半数近くの曲がロック・スタンダードになっています。『The Velvet Underground』では「Candy Says」「What Goes On」を始めA面全曲とB1、『Loaded』では特に「Sweet Jane」「Rock & Roll」の2曲は生涯ルー・リードのライヴ・レパートリーになったのは前述の通りです。「Candy Says」や「Who Loves The Sun」に続いて『ローディッド』でリードがダグ・ユールにリード・ヴォーカルを取らせた曲も変声期前のリードのような声質が曲想に合っており、女性ドラマーのモーリン・タッカーに歌わせた曲もチャーミングです。デビュー・アルバムとセカンド・アルバムの作風からは打って変わって内省的なムードになったサード・アルバムと、さらに一転してポップで明快なロック・アルバムになった『ローディッド』ですが、未発表曲集『VU』とさらにその拾遺曲集『Another View』はともあれ(曲単位では聴き応えのあるアルバムですが、寄せ集めなので統一感で劣るのは仕方ありません)、ヴェルヴェットはオリジナル・アルバム4作ともそのアルバムならではの魅力があり、どのアルバムにもこれこそヴェルヴェットの最高傑作として熱愛する支持者がついています。聴き飽きることのない耐久性はそうした意外なほどの音楽的な幅の広さにあり、一見シンプル極まりないのも装飾的要素の少ない、自由な大らかさによるもので、4作すべてを聴くとそれがよくわかります。おそらくそれは同時代よりも後世のリスナーの方がよりはっきりと判別できるのです。

 なお本作はLP時代にはA2「Sweet Jane」とA5「New Age」は短縮ヴァージョンとなっており、リマスター前のCD化ではLPマスター通りの短縮版、リマスターCDでは全長版となっていて、LP時代からのリスナーにはリマスター前のCDの方が馴染めるも、より音質が向上し、かつアルバム1枚分相当の未発表ボーナス・トラックを聴くにはリマスター版を買わねばならない厄介な事情があります。LP時代の多くの名盤が同様の事情にあり何枚も同じアルバムをだぶり買いしなければならないのは贅沢な悩みでもあれば、LPそのままのマスターを使用した版の廃盤も招く事態にもなっており、歴史的作品の場合はいた仕方ないとは言えなるべくならオリジナル・フォーム通りの復刻も望ましいところです。

今後の更新予定のお知らせ

 遅ればせながらあけましておめでとうございます。

 ヤフーブログの閉鎖に伴ってこちらのブログに移ってきてからほぼ毎日更新してきましたが、毎日の更新はさすがにきびしく、やむなく今後は時々更新のペースに落とすことにしました。

 平行して続けているアメーバブログの方はまだしも更新頻度が高いので、よければ、

アメーバブログ」でのトップページ
https://ameblo.jp/fifth-of-july/

 をご覧いただけたら幸いです。

 末筆ですが、皆さまにおかれましても、ますますのご活躍ご健筆、ご健勝お祈り申しあげます。

与謝野鉄幹「煙草」明治43年(1910年)

与謝野鉄幹明治6年(1873年)2月26日生~
昭和10年(1935年)3月26日没(享年62歳)
f:id:hawkrose:20210105115425j:plain

煙草


啄木が男の赤ん坊を亡くした、
お産があつて二十一日目に亡くした。
僕が車に乗つて駆けつけた時は、
あの夫婦が間借してゐる喜之床の前から、
もう葬列が動かうとしてゐた。
啄木の細君は目を泣き膨して店先に立つてゐた。

自分はすぐ葬列に加つた。
葬列と云つても五台の車が並んで歩く限(きり)だ、
秋の寒い糠雨が降つてゐる空は
淋しい葬列を露はに見せまいとして灰色のテントを張つてゐる。
前の車の飴色の幌から涙がほろりほろり落ちる。
あの中に啄木が赤い更紗の風呂敷に包んだ赤ん坊の小さい柩を抱いてゐるんだ。

啄木はロマンチツクな若い詩人だ、
初めて生まれた男の児をどんなに喜んだらう、
初めて死なせた児をどんなに悲しんでるだらう、
自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、
一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。
併し啄木はあの幌の中で泣いてゐる、屹度(きつと)泣いてゐる。

どこかの街を通つた時、
前の車から渦を巻いて青い煙がほつと出た、
ああ殊勝な事をする、啄木は車の上で香を焚いてゐるんだ、
僕は思はず身が緊(しま)つた。

今度は又ほおつと出た煙が僕の車を掠めた、
所が香でなくてあまいオリエントの匂ひがぷうんとした。
僕は其れを一寸(ちつと)も驚かなかつた、
僕も早速衣嚢(かくし)から廉煙草(やすたばこ)のカメリアを一本抜いて火を点けた、
先刻から大分喫(の)みたかつた所なので……
また勿論啄木と一所に新しい清浄な線香を一本焚く積りで……

折から又何処かの街を曲がると、
「おい、車体をさうくつつけて歩いちや可(い)かん」と交番の巡査がどなつた。
僕の車夫は「はい、はい」と素直に答へて走つた。
そんな事で僕と啄木の悲しい、敬虔な、いい気持の夢が破れるもんぢやない、
二人の車からは交代にほおつと、ほおつと煙がたなびいて出た。

(明治43年=1910年作、詩歌集『鴉と雨』収録)


 この詩篇「煙草」が収録された詩歌集『鴉と雨』(新詩社刊)は大正4年(1915年)8月刊で、石川啄木(明治19年1886年2月20日生~明治45年=1912年4月13日没)の没後の詩集収録になりましたが、啄木の長男・真一の誕生は明治43年10月4日、急死(当時新生児の急死は珍しくありませんでした)は同月27日(詩には「二十一日目」とありますが正しくは二十四日目で、大ざっぱに三週間と数えた鉄幹の勘違いでしょう)ですので、初出誌不詳ながら鉄幹が主宰し、啄木も同人だった新詩社発行の詩歌誌「明星」(明治33年=1900年4月創刊~明治41年=1908年10月廃刊)の後身「スバル」(明治42年=1909年1年創刊~大正2年休刊)に、真一の葬儀から間もなく創作され発表されたものと思われます。詩集収録が遅れましたが、これは前詩歌集『樫之葉』が明治43年7月刊と啄木の長男・真一の出生・急死の直前に当たり、しかも明治44年(1911年)10月~大正2年1月まで鉄幹は渡欧してヨーロッパ諸国を漫遊し(明治45年には半年間、晶子夫人も渡欧・合流し、晶子夫人は出産のために早く帰国しました)、帰国後はヨーロッパ紀行文集の書き下ろしに集中し、また大正4年4月には京都府衆議院議員選挙に立候補して落選するなど公私ともに多忙だったため、詩歌集の刊行が5年間空いたためでした。また啄木の急逝前後は鉄幹の外遊中でしたので、鉄幹は啄木逝去や葬儀にも立ち会えませんでした。

 啄木はまだ盛岡中学の学生だった明治33年には創刊間もない「明星」を愛読して新詩社詩友(準同人)になり(まだこの年啄木は14歳です)、明治35年(1902年、16歳)には学校を退学して上京、11月には与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問しています。翌明治35年(1903年、17歳)には帰郷して父の勤めていた寺院の手伝いをしながら「明星」に短歌が採用されるようになり、11月には新詩社同人に推挙され、12月には初めて啄木の雅号で「明星」に5篇の新体詩を発表、翌明治36年(1904年、18歳)には新進詩人として「明星」「帝國文學」「時代思潮」「太陽」「白百合」など主要な文芸詩に毎月のように新作詩を発表し、翌明治38年(1905年、19歳)5月には第一詩集『あこがれ』を発表して森鴎外を始めとする文壇全般からの絶賛を受け、6月には前年からの婚約者・堀合節子と結婚します。啄木生前のキャリアが順風だったのはこの頃までで、以降啄木は父の破産とともに一家離散と集合をくり返し、啄木自身の浪費癖・我の強さもあって職を転々とし、生計のために詩と小説を多作するも掲載されるのは地方紙ばかりで注目されず、やがて一家全員が不衛生と不摂生な住環境から結核に罹患してしまいます。『あこがれ』以降ようやく2冊目の単行本にして第一歌集『一握の砂』が刊行されようやく一流歌人として認められたのは長男・真一急死後の明治43年12月でしたが、すでに啄木は結核が進行し慢性腹膜炎まで患い、しばしば瀕死と回復をくり返し始めた頃でした。またこの頃には啄木は反体制的な民衆詩人となっていたので、交友は続いていても鉄幹・晶子の芸術至上主義的な「明星」~「スバル」からは離れた作風を確立していました。

 鉄幹の前詩歌集(鉄幹は明治29年=1896年の第一詩歌集『東西南北』以来短歌と新体詩を合わせた詩歌集か、純粋な歌集しか刊行しませんでした)『樫之葉』の詩はまだ文語詩でしたから、『鴉と雨』は鉄幹の口語自由詩が初めて収められた詩歌集になりましたが、以降鉄幹は没後刊行の拾遺詩集『采花集』を除いて生前には歌人・歌論家・エッセイの創作に徹することになります。「煙草」はまだ口語自由詩が定着していなかった、未熟な口語自由詩の試作しか出ていなかった明治43年の作品としては斬新な詠みぶりで、ほとんど行分けのエッセイのような口語散文ですが、鉄幹らしい大らかさが横溢した好作になっています。この詩の「車」は最終連で車夫が出てくるように人力車で、人力車5台だけの葬列ですから寂しい内輪だけのものです。勘所は「啄木はロマンチツクな若い詩人だ、/初めて生まれた男の児をどんなに喜んだらう、/初めて死なせた児をどんなに悲しんでるだらう、」で始まる第三連ですが、「自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、/一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。/併し啄木はあの幌の中で泣いてゐる、屹度(きつと)泣いてゐる。」というのは啄木より13歳年上の鉄幹は当事37歳で、28歳で再婚した5歳年下の晶子夫人とはこの時すでに三男・三女をもうけていました(前夫人とは一女を亡くした後離婚しています)。鉄幹と晶子夫人はいかにも明治の夫婦らしく子沢山で、鉄幹46歳・晶子41歳の大正8年までに五男・六女をもうけています。渡欧中にも後から合流した晶子夫人を妊娠させて先に帰国させているほどです。この詩の初出誌は明らかではないのですが、「自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、/一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。」という2行は生前の啄木には残酷ですから、もっと穏当な表現だったのを啄木没後の詩集収録時に改稿された部分かもしれません(詩歌集『鴉と雨』刊行時には鉄幹は四男・五女の父とさらに子沢山になっていました)。島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)と並ぶ明治30年代詩人の中で、この鉄幹の「煙草」ほどの平易な口語自由詩に進んだのは長命だった河井醉茗(1874-1965)くらいしかいないので、鉄幹が口語自由詩を『鴉と雨』を最初と最後に止めてしまったのは歌人としての大成を選んだとしても惜しまれ、「煙草」自体は石川啄木の長男の葬儀という題材以外は平凡な詩篇なのですが、この平明な口語自由詩は平凡で平明な日常詩だからこそ発展の可能性・将来性のあるものです。いかんせん詩集にまとめられるのが機を逸したと言うべきで、大正4年にはすでに高村光太郎萩原朔太郎室生犀星らの口語自由詩の世代の詩人が登場していました。鉄幹は明治期に刊行した詩歌集でもどこか詩の主流からは微妙にずれた位置にあり、もし明治43年から明治末年までの間に口語自由詩の創作に集中して早く詩集をまとめていたら高村や萩原、犀星らを置いて口語自由詩の本格的な創始者になれたかもしれない詩人です。その機会をみすみす逃したのも鉄幹らしい大らかさと思えるので、鉄幹もまた未だに正当な評価を得られないでいる明治詩人かもしれません。

ハンプトン・ホウズ Hampton Hawes - エブリバディ・ライクス・ハンプトン・ホウズ Everybody Likes Hampton Hawes, Vol.3; the trio (Contemporary, 1956)

エブリバディ・ライクス・ハンプトン・ホウズ (Contemporary, 1956)

f:id:hawkrose:20210103223433j:plain
ハンプトン・ホウズ Hampton Hawes - エブリバディ・ライクス・ハンプトン・ホウズ Everybody Likes Hampton Hawes, Vol.3; the trio (Contemporary, 1956) : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nf9g5OBguuq82tCTVPWZqqayI9Bz77f40
Recorded at Contemporary's Studio in Los Angeles, California, January 25, 1956
Released by Contemporary Records Contemporary C3523, 1956
Enginered by Roy DuNann
Produced by Lester Koenig
All compositions by Hampton Hawes except as indicated
(Side 1)
1. Somebody Loves Me (George Gershwin, Buddy DeSylva, Ballard MacDonald) - 5:32
2. The Sermon (Hampton Hawes) - 3:42
3. Embraceable You (George Gershwin, Ira Gershwin) - 4:58
4. I Remember You (Victor Schertzinger, Johnny Mercer) - 4:28
5. A Night in Tunisia (Dizzy Gillespie, Frank Paparelli) - 3:54
(Side 2)
1. Lover, Come Back to Me/Bean and the Boys (Sigmund Romberg, Oscar Hammerstein II; Coleman Hawkins) - 5:13
2. Polka Dots and Moonbeams (Jimmy Van Heusen, Johnny Burke) - 4:42
3. Billy Boy (Traditional) - 3:01
4. Body and Soul (Johnny Green, Frank Eyton, Edward Heyman, Robert Sour) - 4:17
5. Coolin' the Blues (Hampton Hawes) - 4:18

[ The Hampton Hawes Trio ]

Hampton Hawes - piano
Red Mitchell - bass
Chuck Thompson - drums

(Original Contemporary "Everybody Likes Hampton Hawes" LP Liner Cover & Side 1 Label)
f:id:hawkrose:20210103223509j:plain
f:id:hawkrose:20210103223557j:plain
 1950年代のモダン・ジャズ・ピアニストは名手に欠きませんでしたが、中でも誰がいいかと言うとロサンゼルスに生まれ、アメリカ西海岸のジャズ・シーンで活躍したピアニスト、ハンプトン・ホーズ(1928年11月13日生まれ-1977年5月22日没)になります。父は黒人長老派教会の牧師、母は教会のピアニストという恵まれた家庭に育ったホウズはハイスクール在学中からプロとして活動し、卒業したその日にはジェイ・マクニーリー楽団に押しかけ入団、2~3か月後には最新のビ・バップ・シーンで西海岸きってのバップ・トランペット奏者ハワード・マギーのバンドメンバーとなり、マギーのバンドで西海岸ツアーに来て約1年半ロサンゼルスに滞在したチャーリー・パーカーと共演しています(1947年3月)。白人ジャズマンの比率が高かったウエストコースト・ジャズにはアレンジ偏重や軟弱さなど先入観がつきまといがちですが、正統的なビ・バップ・ピアニストのホーズはバド・パウエル派ピアニストらしいスウィング感を誇りながらワーデル・グレイデクスター・ゴードンソニー・クリスらビ・バップ直球のサックス奏者とも、ショーティー・ロジャース(『Modern Sounds』1951年10月録音)やアート・ペッパー(『Surf Ride』1952年3月録音)ら白人ジャズマンのサイドマンとしても堅実な腕前を見せ、ロサンゼルス出身の黒人バップ・ピアニストとしては早くからニューヨークに進出したソニー・クラーク、夭逝したカール・パーキンスと並び、全米的なレコード売り上げによる人気の高さではクラークやパーキンスを抜く存在でした。1952年9月にはジョー・モンドラゴン(ベース)、シェリー・マン(ドラムス)とのトリオでインディー・レーベルのディスカバリーに初のリーダー録音4曲を吹きこみますが、1953年~1955年の2年間は兵役に取られ日本に駐屯して過ごします。麻薬癖からほとんど営倉に拘置されていましたが、外出許可時にはビ・バップ学習期にあった秋吉敏子渡辺貞夫ら日本の若手ジャズマンとジャムセッションして戦後の日本のモダン・ジャズ定着に大きな貢献をします。ようやく帰国して除隊した1955年にはシェリー・マンからロサンゼルスきってのインディー・レーベル、コンテンポラリーに紹介され、社主のレスター・ケーニッヒもホウズのアルバム制作を熱望していました。コンテンポラリーと契約を結んだ同日に常連出演していたクラブのオーナーからホウズと組みたいというベーシストを紹介され、そのベーシストがニューヨーク出身でレッド・ノーヴォ(ヴィブラフォン)・トリオでチャールズ・ミンガスの後任を勤めていたレッド・ミッチェルで、初対面のセッションから意気投合したホウズとミッチェルはさらに旧知のドラマー、チャック・トンプソンを迎えてハンプトン・ホウズ・トリオを結成し、2週間契約だったクラブ出演は8か月のロングラン公演となって大好評を収めます。トリオのファースト・アルバム『The Trio Vol.1』はクラブ出演の最中、1955年6月28日の夜中から朝までにロサンゼルス警察学校体育館で、プロデューサーのケーニッヒ、エンジニアのロイ・デュナン、トリオのメンバーの奥さんたちを交えて行われました。2か月後に発売されたアルバムはコンテンポラリー・レコーズきってのベストセラーとなり、ホウズの名を全米的に知らしめるヒット作になりました。1955年は12インチLPレコード普及の最初の年であり、SPレコードや10インチLPのコンピレーションではなく最初から12インチLPとして制作されたホウズのアルバムは1955年にあって最上の録音、秀逸なジャケット、素晴らしい内容でジャズのピアノ・トリオ・アルバムとして最高の完成度を誇るものでした。

 コンテンポラリーは続いて1955年12月3日・1956年1月25日録音の『The Trio Vol.2』、1956年1月26日録音の『Everybody Likes Hampton Hawes, Vol.3; the trio』を同一メンバーで制作し、1956年11月12日~13日にはドラマーがエルドリッチ・フリーマンに交替、さらにギタリストのジム・ホール(元チコ・ハミルトン・クインテット、のちジミー・ジュフリー・トリオ、ソニー・ロリンズ・カルテット、アート・ファーマー・カルテット)を加えたカルテットで全16曲をスタジオ・ライヴ形式で録音し、演奏順・未編集で『All Night Session Vol.1』『Vol.2』『Vol.3』の3枚に分けて発売しました。『The Trio』の三部作で全米的な人気ピアニストになっていたホウズは『All Night Session』三部作で名声を決定的なものにし、1957年初夏にはニューヨークで先にニューヨーク進出していた親友ソニー・クラークと同居生活しながら『Curtis Fuller And Hampton Hawes with French Horn』(プレスティッジ、5月録音)、チャールズ・ミンガス唯一のピアノ・トリオ作『Mingus Three』(ジュビリー、7月録音)に参加しますが、ジャズマン激戦区のニューヨークではクラークともどもレコーディング以外の仕事はなく、ロサンゼルスに戻ってバーニー・ケッセル(ギター)、ミッチェル、マンとのカルテットで『Four!』(コンテンポラリー、1958年1月録音)、ハロルド・ランド(テナーサックス)、スコット・ラファロ(ベース、レッド・ミッチェルの弟子)、フランク・バトラー(ドラムス)のカルテットで『For Real』(コンテンポラリー、1958年3月録音)、ソニー・ロリンズの『コンテンポラリー・リーダース』(コンテンポラリー、1958年10月録音)の参加を経てルロイ・ヴィネガー(ベース)、スタン・リーヴィー(ドラムス)とのトリオで『The Sermon』(コンテンポラリー、1958年11月録音)を制作しますが、1959年には麻薬取締法で懲役10年の実刑判決を受けてしまいます。J・F・ケネディの暗殺による恩赦で5年の刑期に短縮され1964年には釈放されましたが、1960年代にはコンテンポラリーから4作のアルバムを発表するもアメリカ国内では保釈扱いのためライヴ活動はできず、'60年代後半からはドイツ、フランスに渡って本格的なアルバム制作とライヴ活動をようやく再開します。1970年代には・ビバップ再評価の風潮に乗って再び人気を取り戻し、晩年の作風は1歳年少のビル・エヴァンスから逆影響を受けたものでした。

 ホウズはマグマのたぎるようなバド・パウエルドライアイスのようなレニー・トリスターノとは違い、天才型でも際立った個性派でも超絶技巧型でもイノヴェーターでもないジャズマンでしたが、節度と品格があり軽やかで、抜群にスウィングもすればしっとりとしたバラード演奏にも優れ、洗練されたブルース感覚とリズム感には天稟の資質の良さがあり、中庸的な作風の中で最良の演奏が聴ける、波乱に富んだ生涯が演奏を損ねることがなかった素晴らしいジャズ・ピアニストでした。ホウズのアルバムは初期から順に聴いていくのが良く、出来映えからもデビューへの意欲からも最初のフルアルバム『The Trio Vol.1』が極めつけで、ロサンゼルスのジャズ界に不況が訪れ一度ニューヨークに進出して戻ってくるまで(両都市は交互に好況と不況をくり返していたした)の『The Trio』三部作、『All Night Session』三部作はどれも良く、1958年いっぱいまでの『Four!』『For Real』『The Sermon』と徐々に下降線をたどりますが、今回はホウズのキャリアの概略とともに『The Trio』三部作の3作目『エブリバディ・ライクス・ハンプトン・ホウズ』を上げました。1956年、昭和で言うと昭和31年にしてこの洒落たジャケットはニューヨークではないロサンゼルスの西海岸ジャズならではのセンスで、再発盤以降拝見が白地ではなくマリンブルーのものもありますが、ジャズのイラストのワニジャケと言えば本作です。ロサンゼルスの戦後の西海岸ジャズは1946年のチャーリー・パーカーの滞在に始まり、1955年と1956年にピークを迎えました。その2年間に西海岸(ロサンゼルス、ハリウッド)で制作されたモダン・ジャズのアルバムは名盤とされているものだけでも優に4~5ダースはあり、ニューヨーク中心の戦後モダン・ジャズ史からは見過ごされがちな埋もれた秘宝に満ちています。エキセントリックな、またはインパクトの強いニューヨーク・ジャズと較べると本作の軽やかな良さは別世界ですが、これもまたジャズの本流をなしているのです。

与謝野鉄幹「人を戀ふる歌」明治32年(1899年)

与謝野鉄幹明治6年(1873年)2月26日生~
昭和10年(1935年)3月26日没(享年62歳)
f:id:hawkrose:20210102231048j:plain

人を戀ふる歌

 (三十年八月京城に於て作る)

妻をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱

戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む

くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る

あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらはん業平(なりひら)が
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ

見よ西北にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火ひとたび降らん時

妻子をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕を摩す
ガリバルヂイや今いかん

玉をかざれる大官は
みな北道(ほくどう)の訛音(なまり)あり
慷慨よく飲む三南(さんなん)の
健兒(けんじ)は散じて影もなし

四たび玄海の浪をこえ
韓(から)のみやこに來てみれば
秋の日かなし王城や
むかしにかはる雲の色

あゝわれ如何にふところの
劍は鳴をしのぶとも
むせぶ涙を手にうけて
かなしき歌の無からんや

わが歌ごゑの高ければ
酒に狂ふと人は云へ
われに過ぎたる希望(のぞみ)をば
君ならではた誰か知る

「あやまらずやは眞ごころを
君が詩いたくあらはなる
むねんなるかな燃ゆる血の
價すくなきすゑの世や

おのづからなる天地(あめつち)を
戀ふるなさけは洩すとも
人を罵り世をいかる
はげしき歌を秘めよかし

口をひらけば嫉みあり
筆をにぎれば譏りあり
友を諌めに泣かせても
猶ゆくべきや絞首臺

おなじ憂ひの世にすめば
千里のそらも一つ家
おのが袂と云ふなかれ
やがて二人のなみだぞや」

はるばる寄せしますらをの
うれしき文(ふみ)を袖にして
けふ北漢の山のうへ
駒たてて見る日の出づる方(かた)

(「伽羅文庫」「国文學」明治32年=1899年12月、「よしあし草」明治33年2月、初出原題「友を戀ふる歌」)


 京都生まれの歌人・詩人、与謝野寛こと鉄幹(1873-1935)は1歳年長の島崎藤村(1872-1943)より文壇への登場は早く、第1詩歌集『東西南北』は藤村の『若菜集』(明治30年8月刊)より1年早い明治29年(1896年)7月に刊行されています。藤村が『若菜集』収録詩篇を一気に書き始めたのは明治29年秋からですから、大反響を呼んだ与謝野鉄幹の『東西南北』に刺激された可能性は大いにありますが、鉄幹の詩歌集は短歌と新体詩をほぼ半々に収録した、まだ明治20年代の現代詩の過渡期を反映したものでした。また鉄幹自身に歌人としても詩人としても大成したい欲があり、鉄幹は明治年間の間はその後も短歌と新体詩を併載した詩歌集を発表していくことになります。鉄幹が主宰した詩歌誌「明星」からのちに有力な専門歌人、専門詩人が輩出されると、鉄幹はほぼ短歌と散文に創作を移すことになります。鉄幹の詩歌集は第2詩歌集『天地玄黄』明治30年(1897年)1月、合同詩集『この花』明治30年3月と続き、明治32年(1899年)の「新詩社」設立を経て明治33年4月に「明星」創刊、同年秋から門下の女弟子・鳳晶子、山川登美子と密接に交際が始まり、明治34年(1901年)3月刊の第3詩歌集『鉄幹子』刊行の頃に鉄幹と女弟子の交友をハーレム関係に見立てた新聲社刊行の匿名文『文壇照魔鏡』によるスキャンダルが起こります。鉄幹は明治32年に生後1か月で亡くした子供への失意から夫人と離別しており、戸籍上は離別した夫人と入籍したままでした。鉄幹は新聲社を告訴しますが敗訴に終わります。4月には鳳晶子との恋愛を背景にした第4詩歌集『紫』が刊行されます。同年秋には前夫人との離婚が正式に成立し、鉄幹は鳳晶子、つまり与謝野晶子(1878-1942)と結婚しました。

 今回ご紹介した「人を戀ふる歌」は雑誌発表時の原題通り友人たちの近況を思って詠った詩篇ですが、一行目の強い印象から「明星」門下の一番弟子の女性、鳳晶子を詠った詩篇と誤解されて世間に広まりました。京都生まれの鉄幹は自身を国士と持って任じ、青年時代の当時には実際に日本から朝鮮半島までを活動の場とする政治活動家の友人を多く持っていました。本作は明治34年3月15日刊行の第3詩歌集『鉄幹子』に収録されましたが、発表されたのは2年前の「伽羅文庫」明治33年2月5日号と早く、まだ鳳晶子との面識のない、「明星」創刊2か月前になります。「伽羅文庫」での原題は「友を戀ふる歌」で「あやまらずやは眞ごころを」から「猶ゆくべきや絞首臺」までの三連がなく、同月25日号の「国文學」で「人を戀ふる歌」に改題され、さらに1年後の「よしあし草」明治33年2月号に再発表される際に上記の三連が追加されて詩集収録型の通りになります。明治38年の改版では多少の字句の異動がありますが、連の増減や文意の変更ほどの改稿ではなく表記上の異動にとどまるものです。鉄幹は明治29年9月に母を亡くし、明治31年8月には僧侶の父を亡くして家督を相続していますから(鉄幹は四男ですが、年長の兄たちは親族の家督相続のため養子縁組していて鉄幹が父の家督を相続したと思われます)、鉄幹は事業として「新詩社」「明星」を設立・創刊したこともあり、家督相続者として20代前半までのように国士の友人たちのように実践的な政治活動への関わりは断念せざるを得なかったのがこの詩の背景になっている、と読むのが妥当と思われます。

 この詩は詩集収録前に3度も雑誌掲載されたように『鉄幹子』収録前から文学青年に限らず広く愛唱され、明治40年代からは学生寮歌の節に乗せて最初の三連が歌曲として普及したとされます。「妻をめどらば才たけて/顔うるはしくなさけある/友をえらばば書を讀んで/六分の俠氣四分の熱」との第一連だけでも心当たりのある人は多いでしょう。実際には「妻をめどらば才たけて/顔うるはしくなさけある」はつかみの文句で、「友をえらばば書を讀んで/六分の俠氣四分の熱」からがこの詩の本題となります。「妻をめどらば」の方がひとり歩きしてしまったのは怪文書『文壇照魔鏡』以来これが鉄幹の晶子とのおのろけとして読まれるようになってしまったからで、また唱歌として冒頭三連だけが切り離された型では政治活動家の友人たちに思いを寄せた内容に踏みこまないからですが、全篇を読む機会があっても鉄幹の詩には調子の良い軽さが目立つために鉄幹自身の挫折感はほとんど伝わってこないのです。「明星」は高村光太郎石川啄木北原白秋吉井勇谷崎潤一郎佐藤春夫らのちの大才を多く輩出しましたが、いずれも鉄幹の門下にあった頃には一種のハイカラな軽薄さから出発した点で共通しており、鉄幹自身が真に優れた創作家となるのは新人たちからはるかに時代遅れになり、孤立した流派の歌人として作歌に集中するようになってからでした。しかし他方に島崎藤村土井晩翠らを置けば鉄幹が優れた門弟に恵まれたのもその軽い青春性にあり、鉄幹自身は青年のミイラのような歌人として独自の成熟を迎えることになります。ただし与謝野鉄幹の明治期の詩歌集は文学的感興というよりは、鉄幹という詩人の伝記的註釈として読んだ時にようやく面白く読めるようなもので、鉄幹の果たした文学史的な役割の大きさに反して作品として実りあるものとはいい難いのはいたしかたないでしょう。しかし歌人としての鉄幹の業績は裏表のすっぽり欠けたスケールの大きさによって古典的な風格を備え、夫人の晶子の短歌よりもはるかに面白いものです。