人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ジョン・レノン没後40周年

f:id:hawkrose:20201214090910j:plainジョン・レノン John Lennon - スターティング・オーヴァー (Just Like) Starting Over (John Lennon) (Geffen, 1980) : https://youtu.be/GGl8tHar-Ko

 命日の12月8日を逃しましたが、ちょうど40年前の今頃この曲がジョン・レノン(1940-1980)の急逝を受けて大ヒットしていたのを忘れることはできません。5年ぶりのカムバック・アルバム『Double Fantasy』はジョン・レノンとヨーコ・オノの共作として前月の11月に発表され、シングル「スターティング・オーヴァー」はアルバムより少し早めに先行発売されました。曲調にはロイ・オービソンの数々の名曲ややビーチ・ボーイズの「Don't Worry Baby」との類似が見られます。アルバム発売前にNHK-FMでアルバム収録曲からジョン・レノン分7曲がオン・エアされ、カセットテープに録ってくり返し聴き、シングル盤は発売当日に本厚木の有隣堂の隣にあったレコード店に学校が終わったあとで買いに行きました。アルバムの方は買うのをためらっていました。ラジオでエア・チェックした7曲以外はヨーコさんの曲でしたから。アメリカのビルボードのチャートでは1位のブルース・スプリングスティーン「ハングリー・ハート」がロング・ヒットを続けており、「スターティング・オーヴァー」はトップ3内にとどまっていた記憶があります。殺害事件の訃報を聞いたのはそれから半月も経たない頃でした。下校して家に着き自室のラジオを点けたら報道が流れてきて、茫然自失としてわけがわかりませんでした。まだ父は存命でしたが、父の訃報を聞いたらこんな気持になるんじゃないかと思いました(2年後に母を亡くした時にはそれどころではありませんでしたが)。1980年はジャズではビル・エヴァンスが亡くなった年ですが、春先に予定されていたポール・マッカートニーウィングスの来日公演がポールのマリファナ所持逮捕で流れたりと情けない事件もありましたから、ジョンのカムバックとその直後の殺害事件ほど劇的なクライマックスもありませんでした。2020年、もしジョン・レノンが長らえて年末を迎えて逝去していたら、世間の話題はその功績よりも経済効果ばかりになったでしょう。幸い1980年にはレノン急逝による経済効果などという浅ましい話題は起こりませんでした。40年間で人の心も変わったものです。生誕80周年・没後40周年でジョン・レノンが特に話題になるほどでもなく、今年も間もなく年が代わります。20年、30年、40年刻みで否応なしに風化していくものはあるものです。

悲しき天使

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メリー・ホプキン Mary Hopkin - 悲しき天使(ゾーズ・ワー・ザ・デイズ) Those Were the Days (Boris Fomin, Gene Raskin) (Apple, 1968) : https://youtu.be/9mac-TLucdo

 ビートルズの設立したアップル・レコーズ第一弾アーティストとして1968年8月26日アメリカ、1968年8月30日イギリス、1968年(昭和43年)12月5日日本発売。プロデュースはポール・マッカートニー。イギリスでは9月にチャート1位、アメリカでは11月にチャート2位、日本では1969年2月に1位(17週連続1位のピンキーとキラーズ恋の季節」を抜いて)。当時18歳のメリー・ホプキン(1950-)さんはその後、'70年代イギリスの大プロデューサー、トニー・ヴィスコンティ夫人になっています。特に冬とも関係ない望郷歌の歌詞なのにどこか冬っぽさを感じさせる哀愁メロディーなのはなんでかな、日本で大ヒットしたのが冬だったから冬にオン・エアされることが多いからかな、と特に好きでもない曲なので長年ぼんやり考えていましたが、「走れトロイカ」にもそっくりなこの曲、もともと19世紀末~20世紀初頭のロシア民謡をロシアの音楽家ボリス・フォーミン(1900-1948)が既成の詩人の詩に当てはめて、ユダヤ民謡(クレヅマー)・ジプシー民謡音階にメロディーを整理して歌曲化したのが原曲だそうです。もっとも著作権登録上メリーさんの英国詞ヴァージョンは当初イギリスの作曲家ジーン・ラスキンの作詞作曲とクレジットされて発売され、現在はフォーミンとラスキンがともに作詞作曲者として並記されるようになっているそうです。以上、もっと詳しい解説は日本海版・英国版ウィキペディアに載っていますので、気になる方はそちらをご覧ください。この曲は欧米・南米諸国でも軒並み大ヒットとなり各国語版のカヴァーが続出し、日本語詞でのカヴァー・ヴァージョンもあるので小中学生の頃の朝礼で合唱させられた覚えもあり、たぶんそれも冬の体育館だったりしたのでしょう。この曲はださい、特にリズム・ブレイクして「Those were the~」と歌いだす大サビの全然跳ねないシャッフルのリズムがださいと子供心に恥ずかしさに身もだえしながら嫌々合唱していたものですが、おそらくこの短調のメロディーは人類のDNAに否が応でも染みついたもので、それでなければ全世界的特大ヒットもスタンダード曲化もしていなかったでしょうから恥も外聞もない代物です。トィッギーの推薦でアップル社にスカウトしてプロデュースしたポール・マッカートニーさんもまたとんでもないセンスのミーハーだったことがわかる「天使の歌声」メリーさんの「悲しき天使」、冬の夜長にぜひお聴きください。

冬のラヴ・ソング

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ザ・ドアーズ The Doors - ウインタータイム・ラヴ Wintertime Love (Elektra, 1968) : https://youtu.be/tv4xzDV7SnI
From the album "Waiting For the Sun", Elektra Records EKS-74024, July 3, 1968

 冬のラヴ・ソングというとクリスマス・ソングにかこつけたもの以外には本当に少ないようで、詩歌俳句でも冬の季語を使って恋の句をなすものはごく稀でしょう。春・夏・秋がラヴ・ソングの背景になりやすいのと較べると仕方がないような気もします。この曲「ウインタータイム・ラブ」はザ・ドアーズのサード・アルバム『太陽を待ちながら(Waiting For the Sun、日本盤初発売時の邦題はご覧の通り『日の出を待って』)』のA面5曲目、A面ラストのシングル曲A6「名もなき兵士(The Unknown Soldier)」の前に地味に置かれた2分もない小品で、A4「夏は去り行く(Summer's Almost Gone)」に続いて歌詞内容ではメドレーをなしていますが、ドアーズのあか抜けたセンスを示す愛らしい楽曲です。ドアーズのリーダーはオルガン奏者のレイ・マンザレクで使用楽器はファルファッサ・オルガンかヴォックス・オルガンでしたが、この曲はワルツ・テンポのリズム・アレンジだからかバロック音楽風にヴォックス・オルガンにチェンバロをオーヴァーダビングしており、やはりチェンバロを導入したセカンド・アルバムからのシングル曲「ラブ・ミー・トゥー・タイムズ(Love Me Two Times)」が変形ブルースにバロック音楽風のチェンバロ演奏で異色な効果を出したのとは対照的な成果を果たしています。ドアーズはこのサード・アルバム直後のコンサート・ツアー中に「猥褻で扇情的なパフォーマンス」「警備妨害」の罪状で告訴され、人気絶頂中に公判集結まで1年半あまりのライヴ禁止を強いられてしまうので「ウインタータイム・ラブ」は一度もライヴ演奏されない曲になってしまいましたが、マンザレクはライヴではオルガン以外を使用しなかったのでオルガンのみのライヴ・アレンジによる「ウインタータイム・ラブ」の音源も聴いてみたかったものです。このあっさりした小品が実は大変な難曲かはカヴァーがまず不可能なことでもうかがわれ、アレンジをそのまま模してもコピーかパロディ以上の演奏にはならないでしょう。本物の個性というのは元来そういうものかもしれません。

サン・ラ Sun Ra and his Solar Myth Arkestra - ライフ・イズ・スプレンディド Life is Splendid (Total Energy, 1998)

サン・ラ - ライフ・イズ・スプレンディド (Total Energy, 1998)

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サン・ラ Sun Ra and his Solar Myth Arkestra - ライフ・イズ・スプレンディド Life is Splendid (Total Energy, 1998) : https://youtu.be/OWn27X9cYDU
Recorded live at Ann Arbor Blues and Jazz Festival, Ann Arbor, Michigan. September 10, 1972
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Originally Edit Version Released by Atlantic Records SD 2-502 as the 2LP album "Various Artists - Ann Arbor Blues & Jazz Festival 1972", Side D4.
Released by Total Energy Records NER3026 (CD & LP), 1998
Produced and Supervised by John Sinclair
All written & arranged by Sun Ra.
(Originally Atlantic Edit Version)
D4. Life is Splendid : https://youtu.be/ToZ7RjXKDZ0 - 6:05
(Side 1)
A1. Enlightenment - 2:11
A2. Love in Outer Space - 4:59
A3. Space is the Place/Untitled Improvisation - 13:56
(Side 2)
B1. Discipline 27-II~What Planet is This?~Life is Splendid~Immeasurable - 7:39
B2. Watusi - 7:04
B3. Outer Spaceways Incorporated - 1:48

[ Sun Ra and his Solar Myth Arkestra ]

Sun Ra - organ, Moog-synthesizer
Akh Tal Ebah - trumpet, fluegehorn
Lamont McClamb (Kwame Hadi) - trumpet
Marshall Allen, Danny Davis - alto saxophone, flute
Larry Northington - alto saxophone
John Gilmore - tenor saxophone
Pat Patrick - baritone saxophone
Danny Thompson - baritone saxophone, flute
Leroy Taylor (Eloe Omoe) - bass clarinet
Lex Humphries, Alzo Wright - drums
Stanley Morgan (Atakatune), Russell Branch - conga, percussion
Robert Underwood, Harry Richards -percussion
June Tyson, Judith Holton, Cheryl Banks, Ruth Wrigh - vocal, dance

(Original Total Energy "Life is Splendid" LP Liner Cover)
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 本作はヴァリアス・アーティストによる2枚組オムニバスLP『アン・アーバー・ブルース・アンド・ジャズフェスティバル』として1973年当時日本盤も出ていたサン・ラ・アーケストラも出演した黒人音楽フェスティヴァルからアーケストラの出演分を発掘したもので、オムニバス盤では各アーティストの19曲を収めたD面最後に「Life Is Splendid」として6分5秒だけアーケストラの演奏の編集抜粋が収められていました。このフェスティヴァルは政治活動家のジョン・シンクレアが主宰となって1969年から行われていたもので、当初はロック色・政治色が強かったものが1972年からジャズとブルース中心の黒人音楽フェスティヴァルに性質を変えたもので、サン・ラはほぼ毎年出演しており、翌1973年、翌々年の1974年の出演も発掘発売されています。この1972年のステージではアーケストラはトランペット2人、木管楽器7人、ドラマー2人、コンガ2人、パーカッション2人の16人編成に女性ヴォーカル&ダンサー4人の大編成で出演しており、オムニバス盤では「Discipline 27-II~What Planet is This?~Life is Splendid~Immeasurable」のメドレー・パートが「Life Is Splendid」として編集抜粋されていたのですが、発掘された約38分も欠損があるらしくアーケストラの持ち時間は約1時間だったそうですからほぼ20分が未収録(欠損または短縮)されています。全曲はシームレスのメドレー形式で演奏され、このフェスティヴァルが行われた月にスタジオ録音されたアルバム『Space is the Place』と『Discipline 27-II』の主要曲が演奏されています。いわば名盤『Space is the Place』『Discipline 27-II』がアルバム制作真っ最中のライヴ・ヴァージョンで聴けることから内容は非常に価値が高いのですが、ヴォーカルとパーカッションが前面にミックスされており管楽器の音がオフになっている録音上の不具合があり、ヴォーカル中心にミックスされているために元々の曲にあったブルース、ゴスペル色が強調されており、ジャズのリスナーよりもブルースやファンクのリスナーに強くアピールするサウンドになっているのが特色でもあります。また1972年のサン・ラ・アーケストラの発掘ライヴは数多いのですが、アーケストラ単独ライヴではパーカッション・アンサンブルだけで20分~30分続くようなパートがフェスティヴァル出演の時間的制約もあってスタジオ録音と同等程度にコンパクトに凝縮された演奏になっているのも親しみやすい点でしょう。

 本作の惜しむべくは、正式に大手のアトランティック・レコーズから発売れるためにライヴ収録されていたにしては音質・ミックスともに相当荒っぽいのですが、サン・ラとアート・アンサンブル・オブ・シカゴ(アート・アンサンブルのステージは独立してライヴ盤『Bap-tizm』として発売されました)以外の出演アーティストはマイルス・デイヴィス、マリオン・ブラウンら数組以外はモダン・ブルース、R&B、ファンク系のアーティストであり、サン・ラもあえて聴衆を意識したブルース~ファンク~ゴスペル色の強い、楽曲単位ではコンパクトなステージ構成で出演したものと思われます。ヴォーカルがオンすぎる荒っぽい録音もビッグバンド・ジャズではなくR&B系の音楽と思えばこのライヴでは納得いくものでしょう。この年6月・8月のニューヨークのジャズ・スポット、スラッグス・サルーンのライヴを発掘した6枚組CD『Live at Slug's Saloon』が1ステージCD3枚・3時間にもおよぶコアなマニア向けの内容なのに対して、本作はむしろビ・バップ系黒人主流ジャズよりもポップスやロックなどの広いリスナーにアピールするライヴ・アルバムになっています。60分のフル・ステージでも十分凝縮された密度の高い演奏だったでしょうから20分の欠損は残念ですが、9月9日と10日のフェスティヴァルで25組あまりものアーティストが出演したそうですから録音体制も万全ではなかったのでしょう。アーケストラのテーマ曲「Enlightenment」の前に長いパーカッション・アンサンブルで客席を沸かせてからステージが始まったと思われますが、その分はサン・ラの前に出演したハウリン・ウルフ(!)の撤収で録音し損ねた可能性が大きそうです。9月10日の大トリがサン・ラなら前日9日のトリはマイルス・デイヴィスだったろうと想像され、1988年の来日公演の野外コンサートでマイルスが大トリ、その前の出番はサン・ラとこの二者が意外なところで接点があり、1972年の時点ですでに音楽性も接近していたことを思うと悩ましくなります。本作は資料的な発掘ライヴ以上に楽しめる好ライヴで、せめて音質・ミックスさえもうちょっと良ければと惜しまれるアルバムです。

1中原中也「冬の長門峡」「渓流」昭和12年(1937年)

中原中也明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)、逝去1年前
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冬の長門峡


長門峡(ちやうもんけふ)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

あゝ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

(「文學界昭和12年=1937年4月)

渓流


渓流(たにがは)で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ。

ビシヨビシヨに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。

湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流の中で冷やされてゐた。

水を透かして瓶の肌へを見てゐると、
僕はもう、此の上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中(ねえさん)と話をした。
 (一九三七・七・五)

(未発表詩稿より)


 青年時代にイギリス留学で古典から最新の現代詩までを徹底的に学んだ西脇順三郎(1894-1982)は「日本人の詩の趣味は悪い。中原中也の詩などちっとも良くない」と放言してはばかりませんでしたが、西脇順三郎の詩集によって現代詩を書き始めた戦後詩人の鮎川信夫(1920-1986)も当初はまた同様の意見を持っていたようです。鮎川が一転して中原中也を高く評価する批評を発表したのが昭和50年(1975年)に刊行された思潮社の『現代詩文庫・中原中也詩集』の解説で、鮎川は同書を編集するとともに長文の巻末解説「中原中也論」を書き下ろし、「二十数年前にはじめて読んだときには、なんとも拙劣で、オッチョコチョイで、いい気な奴だと思い、それを読まされたことに閉口してしまったものであるが、私も変れば変るものである。」と率直に中原の詩を認め、「中原中也は、まだ現代詩の渦中に生きているのである。」と「中原中也論」を結んでいます。この鮎川信夫の「中原中也論」は中原の詩と心情に成心なく向き合った丁寧で理解に富んだ批評で、中原中也詩集は各社の文庫版詩集で出ていますが、鮎川信夫の「中原中也論」を読むためだけでも「現代詩文庫」版を読む価値はあります。鮎川は「中原中也論」冒頭で、

中原中也の詩集を読んだ人なら誰でも気がつくはずだが、どんなバカにでもわかる詩がある反面、どんなに怜悧な人でも、解くことができない詩がある。」
「また、出来、不出来の落差の烈しさという点でも、ちょっと類を見ない詩人である。」

 とし、鮎川が考える中原中也の全詩集からAクラスの詩を6篇、Bクラスの詩を33篇数えあげ、

「その他は、なくもがなと思われたものであった。」
「しかし、こうした分類があまり厳密なものでなかったことは別として、詩人自身が、作の出来、不出来にそれほど拘泥しなかったことを考えると、たいして意味がないかもしれない。」

 と面白い書き出し方をしています。青年時代の鮎川なら40篇ほどの中原中也の詩のタイトルを上げただけで一般的な中原の詩への過大評価を一蹴し、論ずるに値しないと切り捨てたでしょうが、ここでは鮎川自身がかつての中原中也への偏見を洗い流しているのです。そこで鮎川がもっとも紙幅を割いて丁寧に味読しているのが遺稿詩集『在りし日の歌』に収められた中原最晩年の作品「冬の長門峡」で、鮎川自身の中原中也再発見の感動が伝わってくるような名文です。この詩は長男の文也を亡くした後、「八歳の子供程度」と診断されるほどの朦朧とした精神疾患に陥って1か月間精神病院に入院し、退院後の翌々月に発表され、同年10月の急逝(結核性脳膜炎)までに発表された最後から二番目の詩篇に当たります。

「普通ならせいぜい紋切型の抒情詩にしかならないところだが、痩せても枯れても中也は中也で、情緒の本質を忘れてはいない。彼は、蜜柑のように夕陽のイメジを懐中にして帰った。寒い寒い日の小さな収穫だったが、いくらか心が慰められたと言っているのと同じである。目立たないようであるが、「やがても」の「も」に強い臨場感の喜びがこめられており、「こぼれたり」で夕陽が身近くたぐりよせられているのである。」
「この詩の初稿は、「やがて蜜柑の如き夕陽、/欄干に射しそひぬ」であったらしいが、これでは前の四連と同様、単なる叙景にしかならないので、とても決定稿のような効果は得られなかったろう。」

 この指摘はさすがで、中学生の頃から40年あまり詩作を続けてきた鮎川ならではの、詩の書き手だからこその精密な読解です。そして鮎川は、

「「冬の長門峡」に関連して思い出す詩として、『在りし日の歌』に収められていない「渓流」があるが、これもなかなかの秀作である。」

 と「渓流」全文を引いています。ちなみに中原中也が詩友の安原喜弘と長門峡を訪れたのは昭和7年(1932年)3月のことだそうですから、「冬の長門峡」も「渓流」も5年前の思い出を現在に引き寄せて詠った詩です。「渓流」は没後に発見された未発表詩稿ですが、末尾の「(一九三七・七・五)」が創作日だとすると「冬の長門峡」発表から3か月後、逝去3か月半前の作品になります。鮎川は「渓流」について、

「よくもまあ、同じような題材でこれだけ違った詩が書けるものだと感嘆するしかない。無技巧すら完全な技巧の一部と化しているこの詩の場合は、「冬の長門峡」とは詩意識においてもまったく対極をなしている。具体的な体験をまるごと紙の上にぶつけたような、とでも言ったらいいのだろうか。この口語による詩語の動き、率直さ、美しさは無類であり、悲しみが跳ねて躍っているような、それでいてあくまでも透きとおったゆるぎない現在感には、それこそこちらが泣き入りたくなるほどである。」
「そして、最終行で「女中(ねえさん)と話をした。」と書くだけで、泡立つような悲しみをぴたりと抑えてしまっている。その悲しさが、また無類なのだ。このような表現の大手腕を、彼はいったいどこから得てきたのだろうか。」

 と身も蓋もないほどの絶賛を寄せています。これにはかつての「橋上の人」や「繋船ホテルの朝の歌」の思想詩人だった鮎川が、「WHO I AM」を含む『宿恋行』(昭和53年=1978年)の詩人に変貌した自然な人生観の推移を思い合わせられますが、「冬の長門峡」と「渓流」を併せて味読する鮎川が「中原中也論」を「中原中也は、まだ現代詩の渦中に生きているのである。」と結んでいるのは鮎川自身に中原中也の詩が生きているのを確認したということで、これほど愛情と共感のこもった讃辞はめったにないでしょう。55歳になった鮎川氏が息子ほどの年で亡くなった中原中也論を「どんなバカにでもわかる詩がある反面、どんなに怜悧な人でも、解くことができない詩がある。」とわざと知識人ぶった露悪的で傲慢な書き出しから始めたのは、「冬の長門峡」と「渓流」への暖かく優しい理解で結ぶための一種の照れだったのがわかります。また中原中也の詩が鮎川信夫に見事な「中原中也論」を書かせるほどのものだったのは、伝記的興味によらず純粋に文学としての観点によるだけに、学ぶところの大きなものです。

ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・セカンド・アルバム The Fugs (ESP, 1966)

ザ・ファッグス・セカンド・アルバム (ESP, 1966)

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ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・セカンド・アルバム The Fugs (ESP, 1966) Full Album : https://youtu.be/OOsSgF18dnk
Recorded at RLA Studios, New York, January and February, 1967
Released by ESP Disk ESP 1028, May 1966
Engineerd by Richard Alderson
Produced by Ed Sanders and Richard Alderson
(Side A)
A1. Frenzy (Ed Sanders) - 2:04
A2. I Want to Know (Charles Olson, Sanders) - 2:00
A3. Skin Flowers (Pete Kearney, Sanders) - 2:20
A4. Group Grope (Sanders) - 3:40
A5. Coming Down (Sanders) - 3:46
A6. Dirty Old Man (Lionel Goldbart, Sanders) - 2:49
(Side B)
B1. Kill for Peace (Tuli Kupferberg) - 2:07
B2. Morning, Morning (Kupferberg) - 2:07
B3. Doin' All Right (Richard Alderson, Ted Berrigan, Lee Crabtree) - 2:37
B4. Virgin Forest (Alderson, Crabtree, Sanders) - 11:17

[ The Fugs ]

Tuli Kupferberg - maracas, tambourine, vocals
Ed Sanders - vocals
Ken Weaver - conga, drums, vocals
Pete Kearney - guitar
Vinny Leary - bass, guitar
John Anderson - bass guitar, vocals
Lee Crabtree - piano, celeste, bells
Betsy Klein – vocals

(Original ESP "The Fugs" LP Liner Cover & Side A Label)
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 ニューヨークの生んだ'60年代の偉大なアンダーグラウンド・ロックのバンド、ファッグスはビート詩人・ジャーナリストのトゥリ・カッファーバーグ(1923-2010)とエド・サンダース(1939-)、ドラムスとパーカッションのケン・ウィーヴァー(1940-)のグループでしたが、セカンド・アルバムの本作は先に『The Village Fugs Sing Ballads of Contemporary Protest, Point of Views, and General Dissatisfaction/The Fugs First Album』(Broadside/Folkways BR304, 1965/ESP 1018, 1966)、後に『Virgin Fugs』(バンド無許可・ESP 1038, 1967)、『Tenderness Junction』(Reprise RS6280, 1968)、『It Crawled Into My Hand, Honest』(Reprise RS6305, 1968)、『The Belle of Avenue A』(Reprise RS6359, 1969)、『Golden Filth (Live at Fillmore East, 1968)』(Reprise RS6396, 1970)と続く全7作でも最高傑作とされるもので、2013年にデイヴィッド・ボウイが音楽誌に発表したエッセイ「レコード・ジャンキーの告白」でも最愛のレコード25枚に唯一上げられているロック(ボウイが同エッセイで選んだアルバムのほとんどはワールド・ミュージックやドキュメンタリー・レコードでした)のアルバムです。本作のライナーノーツはアレン・ギンズバーグ(1926-1997)が書き下ろしており、A2「I Want to Know」はカッファーバーグやギンズバーグ、サンダースの師である大詩人チャールズ・オルソン(1910-1970)が詩の使用を許可しており、おそらくファッグスはすぐ後の1966年8月に2枚組LP『Freak Out !』でデビューするロサンゼルスのフランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンジョン、1966年4月に初レコーディングを行っていた(アルバム完成は5月、デビュー作『Velvet Underground & Nico』発売は大幅に遅れて1967年3月)同じニューヨークのヴェルヴェット・アンダーグラウンドと並んでロック史上初めて反体制派前衛アンダーグラウンド・ロックを始めた存在でした。カッファーバーグとサンダースはすでにニューヨークの反体制詩人として名をなしていたアンダーグラウンド・シーンの知識人であり、ウィーヴァーも軍楽隊でマーチング・バンドのドラムス経験がある程度の音楽的には素人集団だったファッグスは、ファースト・アルバムではやはりニューヨークのアンダーグラウンド・シーンで活動していたフォーク・デュオのホリー・モーダル・ラウンダース(スティーヴ・ウェヴァーとピーター・スタンフェル)、さらにラウンダース周辺のミュージシャンたちに力を借りており、このセカンド・アルバムではニューヨークでRLAスタジオを経営していたプロデューサーのリチャード・アルダーソンが招聘したミュージシャン(ギターとベースのヴィニー・リアリー、ベースのジョン・アンダーソンはファースト・アルバムに続く参加)をサポート・メンバーとしています。本作は新興インディー・レーベルの作品としては異例の全米チャート95位を記録し、ESPはデビュー・アルバムの残りテイクをファッグスには無断でまとめて次作『Virgin Fugs』をリリースしますが、ファッグスはワーナー傘下のフランク・シナトラリプリーズ・レコーズに移籍し、引き続きアルダーソンの協力のもとにダン・クーチマー(ギター)、ケン・パイン(ギター、キーボード)、チャールズ・ラーキー(ベース)、ボブ・メイソン(ドラムス)ら一流セッションマンがファッグスのレギュラー・サポート・メンバーとなります。

 音楽的には素人の詩人二人をリーダー兼ヴォーカリストとしたバンドというとせいぜい気の効いた詩の朗読に頼った素人くさい音楽しか作れなさそうですが、カッファーバーグやサンダースの場合は別でした。楽曲こそシンプルなガレージ・ロックや民謡・童謡的なアシッド・フォーク程度ではあるもののヴォーカルが実に様になっており、音楽的な統一性は稀薄な代わりにバンドの演奏がヴォーカル中心にまとまっているため散漫な印象は受けません。デビュー・アルバムの制作は20数曲を4時間で終わらせて選曲したそうですが、ファースト・アルバムではラウンダースの役割が大きく戦前アメリカ流行歌(いわゆる「グッドタイム・ミュージック」)風の曲にひねった歌詞を乗せてダーティーに演奏した作風になっていました。ESPとファッグスの契約は収入配分ではファッグスに不利だったもののESPによる定期コンサート会場と練習場所を確保することを条件としたもので、ファッグスは1作きりの契約として本作の制作契約を結び、このセカンド・アルバムは1966年1月~2月の定期コンサートに平行して当時最新の4トラック・レコーダーと2トラック・レコーダーによるオーヴァーダビングを駆使して4週間をかけて制作されており、演奏はシンプルながら混沌とした分厚いサウンドに仕上がっています。また楽曲も前作のウィーヴァーの名曲「Sun Goddess」、カッファーバーグの名曲「Supergirl」「Carpe Diem」「Nothing」から全10曲中サンダースが6曲を単独または共作で書いており、サンダースの名曲「Frenzy」「Group Grope」、カッファーバーグの名曲「Kill For Peace」「Morning Morning」、サンダースがプロデューサーのアルダーソン、ピアノ奏者のリー・クラブツリーと共作した11分17秒におよぶアルバム最後のミュージック・コンクレート(サウンド・コラージュ)組曲「Virgin Forest」など粒ぞろいです。ファッグスのサンダースとカッファーバーグ、ウィーヴァーはアカデミックな意味での経験を積んだミュージシャンではありませんでしたが音楽センスは優れていたので、プロのミュージシャンのバンドでは思いつかない発想から非商業的反体制前衛ロックを実現した先駆的な存在になりました。その辺りが当時全米各地にあふれ返っていたガレージ・ロックのバンドとは違うので、むしろファッグスは体制批判を旗印にしたパンク・ロックに近く、シニカルでクールなブラック・ユーモアに満ちた点ではパンク以前にパンクとポスト・パンクの両方を兼ねたような挑発性を持っていました。

 デビュー・アルバムの発売前後から活発にライヴ活動を行っていたファッグスは本作制作中のESPによる定期コンサートが話題を呼んでいたためFBIにマークされており、のちにサンダースの調査によってFBIによる調書が発見されました。FBIによる見解は「ザ・ファッグスはニューヨークで活動中の音楽グループであり、ビートニクで自由思想家、フリー・ラヴと麻薬解放を表明しているが、レコードは猥褻物と断定できないため立件保留とするのが妥当であろう」というもので、エド・サンダースは「FBI公認だったぜ!」と欣喜雀躍したそうです。ステージでのファッグスはアルバム収録曲よりももっと過激に観客をアジテーションしていたようですが、ティーン層の観客は少なく観客にインテリ層が多かったことからパフォーマンスもそれほど煽動的なものには映らなかったのでしょう。教養と人生経験のある大人向けのロック(もちろん大人向けの落ちついたポップスでもありません)という点でもファッグスは異色で、ファッグスの支持者や客層は前衛詩人の詩の朗読会を聞きにくるようなややスノビッシュな知識人たちだったということでもあります。ファッグスに先んじてボブ・ディランがいましたが、ディランの場合は若い世代の代弁者としての人気が大きかったので、詩人であるより前にミュージシャンであり、その意味では正統的にブルースマンロックンローラーの系譜から登場した存在でした。ファッグスのロックはポップスやロックのパロディであり、パロディによる詩的挑発であることに意義がありました。ディランやジョン・レノンがステージで観客を煽動したらその煽動はエンタテインナーとしては観客にとっても逸脱行為だったでしょうが、ファッグスの挑発は煽動のパロディであることによって一種の詩的パフォーマンスになっており、アルバム内容もあわせて演劇的趣向としてFBIが光らせる眼もすり抜ける性格のものだったでしょう。表向き自由の国アメリカでこれを取り締まればFBIの側が批判にさらされるようなものなので立件保留とされたです。ファッグスの体制批判はそうしたミュージシャン的発想にとどまらない知的戦略に基づいたものでした。フランク・ザッパマザーズともヴェルヴェット・アンダーグラウンドとも違うファッグスの立ち位置はそこにあります。政治批判を下品なブラック・ユーモアに託したファッグスのステイトメントはアメリカ本国ではデッド・ケネディーズの先駆者とされています

 ザッパ&マザーズやヴェルヴェットはメンバー自身が優れたミュージシャンの集まりだったのですが、ファッグスの場合はパフォーマンス担当のファッグスのメンバー三人にバックバンドがついた形で、普通こうした活動形態のポップスのグループでは音楽は職人的なものになりがちです。ファッグスが一貫して良いアルバムを作れたのは参加ミュージシャンもサンダースやカッファーバーグのコンセプトがレギュラー・バンドに匹敵する高い理解を示しているからで、本作のメンバーはファースト・アルバムの4人からホリー・モーダル・ラウンダースの二人が抜けギターのピート・キーニー、キーボードのリー・クラブツリーが加わった編成ですが、このアルバムだけの編成なのがもったいないほどの一体感があります。特にアルバム最終曲のB4「Virgin Forest」をサンダースやプロデューサーのアルダーソンと共作したクラブツリーの貢献が大きく、1966年5月発売のアルバムにして11分17秒の大作、しかもミュージック・コンクレート(サウンド・コラージュ)を交えた組曲形式なのはザッパやヴェルヴェットに先駆けた試みでした。キャッチーな曲ではサンダースのA1「Frenzy」とカッファーバーグのB1「Kill For Peace」がガレージ・ロックの前衛的解釈でもあればプロト・パンクロック曲としてディランやマザーズ、ヴェルヴェットにもない笑殺的痛快さに満ちており、表現やメッセージは屈折しているのにエモーションはストレートなファッグスならではの良さがあります。リプリーズ移籍後のダン・クーチマーとチャールズ・ラーキーを中心としたバックバンドも良いのですが、リプリーズでの次作『Tenderness Junction』以降はロック・シーンの時世柄サイケデリック・ロックをパロディ化したサウンドに変化し、しかも腕前の達者なメンバーに替わるので割合サイケデリック・ロックそのものに近づいてしまいます。フランク・ザッパマザーズがファッグスのバックバンドに就いたら天下無敵になったかもしれませんが、その場合ファッグスをヴォーカル陣に迎えたザッパの音楽になってしまうと思われ、リプリーズからのアルバムは一段上の力量のバンドがついた分ファッグス本体の個性はやや主流ロックに呑みこまれている感があります。ファッグスが日本であまり聴かれないのは、ファッグスが日本で言えばフォーク・クルセダース(ファッグスより穏健ですが)に相当する位置のバンドであり、フォークルが日本の音楽シーンで異端だったようにファッグスの異端性を理解するのは'60年代半ばのアメリカの音楽シーンについてかなりの理解を要するという事情にもあるかもしれません。フォークルが日本のドメスティックな音楽を裏返して登場したようにファッグスは'60年代アメリカ文化の音楽シーンにおける裏番長的な地位にあり、1985年に復活したファッグスはカッファーバーグ没後の現在もサンダース中心のプロジェクトとして現役活動中です。2017年には大統領官邸(ホワイトハウス)の前で反戦抗議集会パフォーマンスを行ってMVを制作・発表し話題を呼びました。50年以上におよぶ持続的な活動はファッグスの存在が今なおアメリカにおいて支持されていることの証です。その原点として本作はファッグスのステイトメントを示すアルバムです。
◎ザ・ファッグス THE FUGS -「ホワイトハウスの悪魔払い」 "Exorcism of the White House" (2017, Official Video) : https://youtu.be/sRgVXPaEdJs

薄田泣菫「破甕の賦」明治33年(1900年)

薄田泣菫明治10年(1877年)5月19日生~
昭和20年(1945年)10月4日没(享年68歳)
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破甕の賦


火の氣絶えたる廚(くりや)に、
古き甕(かめ)は碎けたり。
人の告ぐる肌寒(はださむ)を
甕の身にも感ずるや。

古き甕は碎けたり、
また顏圓(まろ)き童女(どうによ)の
白き腕に卷かれて、
行かんや、森の泉に。

裂けて散れる菱形に、
窓より落つる光の
靜かに這(は)ふを眺めて、
獨り思ひに耽(ふけ)りぬ。

渇く日誰か汝(いまし)を、
花の園にも交(か)ふべしや。
唇(くちびる)燃ゆる折々、
掬みしは吾が生命(いのち)なり。

清きものゝ脆(もろ)かるは、
詩歌の人に聞いたり。
善きも遂に同じきか、
古き甕は碎けたり。

あゝ土よりいでし人、
清き路を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。

古き甕は碎けたり、
壞片(こはれ)を足にふまへて、
心憂ひにえ堪へず、
暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。

(「明星」明治33年=1900年11月)


 岡山県出身の詩人・薄田泣菫こと本名淳介は明治10年(1877年)5月19日生まれ、明治30年(1897年)5月に文芸誌「新著月刊」に投稿した詩が第一席に入選し、20歳で華々しくデビューを飾りました。明治32年(1899年、22歳)の11月には第一詩集『暮笛集』を刊行、2か月で初版5000部を売り切る人気詩人の座を固め、版元の金尾文淵堂の刊行する文芸誌「小天地」の編集主任に迎えられます。明治34年(1901年、24歳)の10月には第二詩集『ゆく春』を刊行し与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で28ページもの巻頭特集を組まれます。明治38年(1905年、28歳)の5月には代表作「公孫樹下にたちて」(「小天地」明治35年1月)を含む第三詩集『二十五弦』、同年6月には詩文集『白玉姫』を刊行し、明治39年(1906年、29歳)の5月には泣菫最大の名作とされる「ああ大和にしあらましかば」(「中學時代増刊号」明治38年11月)を含む第四詩集『白羊宮』が刊行されました。以降は新作を含む選詩集こそ刊行されましたがオリジナルな詩集は『白羊宮』が最後になり、翌明治40年(1907年、30歳)以降は新聞社入社とともに児童詩や民謡詩、随筆や小説に転じて、大阪毎日新聞社に移ってからのコラム『茶話』は10年あまり続く人気連載になり、昭和20年(1945年)10月4日の逝去(享年68歳)までは随筆家として多数の著作を発表しています。明治末までに代表的な詩集を4冊前後刊行した島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)、蒲原有明(1976-1945)とともに当時「新体詩」と呼ばれた明治30年代~40年代の文語自由詩をリードしたのが藤村、晩翠、有明、泣菫であり、また河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1945)で、特に泣菫は柔軟で文語文法からも破格な文体と大胆に多数の造語を含んだ豊かな語彙、抒情に溺れない清新な情感によって、もっとも実験的で難解な作風だった蒲原有明と双璧をなす第一線の詩人とされていました。

 この「破甕の賦」は明治33年4月に刊行されたばかりの与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で、史上初の四号活字(約32ポイント)組みという破格の大活字で巻頭作品として掲載され大反響を呼び、のちに第二詩集『ゆく春』に収録された詩篇です。古い甕に「真・善・美」の一致を見出すのはイギリス19世紀初頭のロマン派詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)の代表作「ギリシャ古甕の歌」で詠まれて、和歌・漢詩の上に英文学の教養を採り入れようとした明治詩人には馴染みの題材でしたが、泣菫の本作では古甕は人知れず壊れてしまうはかない美として詠われています。明治33年は29歳の島崎藤村が6月発表の連作詩によって詩作を辞め、小説家に転じた年でしたが、藤村が「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情のうた」「胸より胸に」など最後に日本語のロマン派詩の頂点を極めたのと入れ代わりに、ロマン派の提唱する美の破綻をパロディ的に詠んだ泣菫の醒めた批評性は明治の詩を藤村の次の段階に進めたものでした。キーツや藤村の詩のパロディとして「破甕の賦」は軽みの中に辛辣な風諭を潜めていますが、藤村の詩の七・五律(明治33年作品で初めて五・七律を採用)に較べても泣菫の詩は五音・七音にしばしば変則的に偶数音律(四音・六音)を交え、藤村と並ぶ明治30年代詩人の先駆者、土井晩翠が後年まで七・五律を崩さなかったのと対照的に、文語詩でありながら柔軟な口語脈に接近したものでした。「破甕の賦」は寓意詩の形式を採ったロマン派詩のパロディですが、四行七連の構成も非常に明晰で連ごとの暗喩も巧みなヴァリエーションに富み、批評的でありながら自然な流露感に溢れる行文や多彩ながらテーマから逸れない想像力の豊さは、同世代のライヴァルだった蒲原有明の桔屈な文体・技法とも対照をなす泣菫ならではの理知的な技巧でした。

 なお蒲原有明は明治時代の四詩集を生涯改稿し続けましたが、有明ほど原型をとどめないほどの改稿ではないものの、泣菫ものちの全詩集『泣菫詩集』(大正14年=1925年、48歳)、自選詩集『泣菫詩抄』(岩波文庫昭和3年=1928年、51歳)でこの「破甕の賦」を改稿しています。全体にルビが減らされてひらがな表記が増え、反復記号(「ゝ」)が排され、第一連「火の氣絶えたる廚(くりや)に、/古き甕(かめ)は碎けたり。/人の告ぐる肌寒(はださむ)を/甕の身にも感ずるや。」は「火の氣も絶えし廚に、/古き甕は碎けたり。/人のかこつ肌寒を/甕の身にも感ずるや。」と全面的に、第二連では「行かんや、」が「行かめや、」に、第三連の「裂けて散れる菱形(ひしがた)に」は「くだけ散れる片われに、」、第四連の「花の園にも交(か)ふべしや。/唇(くちびる)燃ゆる折々、」は「花の園にも交(か)へめや。/くちびる燃ゆる折々、」に、第五連の「清きものゝ脆(もろ)かるは、/詩歌の人に聞いたり。/善きも遂に同じきか、」は「清きものの脆かるは、/いにしへ人(びと)に聞きにき。/汝(いまし)はた清かりき、」に、第七連の「古き甕は碎けたり、/壞片(こはれ)を足にふまへて、/心憂ひにえ堪へず、/暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。」は「古き甕は碎けたり、/壞片(こはれ)を手に拾ひて、/心憂ひにえ堪へず、/暮れゆく日をも忘れぬ。」と、第六連以外はどの連にも改稿が見られます。初稿にあった「告ぐる」「行かんや、」「菱形(ひしがた)に」「交(か)ふべしや、」「唇(くちびる)」「詩歌の人に聞いたり。/善きも遂に同じきか、」「壞片(こはれ)を足にふまへて、」「暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。」といった強い表現がことごとく和らげられ、もっと穏やか、または間接的な表現に置き換えられているのが目立ちます。特に「詩歌の人」が「いにしへ人」に、「足にふまえて」が「手に拾ひて」とは大きな違いです。この改稿も首尾が整っているので改稿版で全体の調子が乱れていることはありませんが、すでに完成度の高い初稿版からなるべく辛辣な面を柔らげようとした意図が見られ、この改稿版も成功しているだけに泣菫が明治42年(1909年、32歳)以降新作詩を書かなくなったのがなおさら惜しまれる気がします。

破甕の賦


火の氣も絶えし廚に、
古き甕は碎けたり。
人のかこつ肌寒を
甕の身にも感ずるや。

古き甕は碎けたり、
また顏圓き童女(どうによ)の
白き腕に卷かれて、
行かめや、森の泉に。

くだけ散れる片われに、
窓より落つる光の
靜かに這ふを眺めて、
獨り思ひに耽りぬ。

渇く日誰か汝(いまし)を
花の園にも交(か)へめや。
くちびる燃ゆる折々、
掬みしは吾が生命なり。

清きものの脆かるは、
いにしへ人(びと)に聞きにき。
汝(いまし)はた清かりき、
古き甕は碎けたり。

ああ土よりいでし人、
清き路を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。

古き甕は碎けたり、
壞片(こはれ)を手に拾ひて、
心憂ひにえ堪へず、
暮れゆく日をも忘れぬ。

(岩波文庫『泣菫詩抄』昭和3年=1928年5月刊所収)

マイルス・デイヴィス The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet - パリ・フェスティバル・インターナショナル In Paris Festival International De Jazz - May, 1949 (CBS, 1977)

マイルス・デイヴィス - パリ・フェスティバル (CBS, 1977)

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マイルス・デイヴィス The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet - パリ・フェスティバル・インターナショナル In Paris Festival International De Jazz - May, 1949 (CBS, 1977) : Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nke5EROMwwl1aevG-qdOc0_64tJkGFMk8
Recorded Live at Salle Pleyel, Paris, May 8, 1949 (Side 1), May 9, 1949 (Side 2), Date Unknown (Bonus track)
Released by CBS Records France, CBS 82100, July 1977
Produced by Bruce Lundvall, Henri Renaud
(Side 1)
A1. Rifftide (Coleman Hawkins) - 4:35
A2. Good Bait (William "Count" Basie, Tadd Dameron) - 5:30
A3. Don't Blame Me (Dorothy Fields - Jimmy McHugh) - 3:58
A4. Lady Bird (Tadd Dameron) - 4:55
(Side 2)
B1. Wahoo (Cliff Friend) - 4:21
B2. Allen's Alley (Wee) (Denzil Best) - 5:31
B3. Embraceable You (Ira Gershwin - George Gershwin) - 4:09
B4. Ornithology (Charlie Parker - Benny Harris) - 3:45
B5. All The Things You Are (Oscar Hammerstein II - Jerome Kern) - 4:19
(CD Bonus Track)
10. The Squirrel (Tadd Dameron) - 3:57
11. Lover Man (Roger Ramires - Jimmy Sherman - Jimmy Davis) : https://youtu.be/rjsIXNEuXl4 - 3:23

[ The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet ]

Miles Davis - trumpet
James Moody - tenor saxophone
Tadd Dameron - piano
Barney Spieler - bass
Kenny Clarke - drums

(Original CBS "In Paris Festival International De Jazz - May, 1949" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Side A Label)
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 言わずもがなのジャズの巨人マイルス・デイヴィス(1926-1991)は1976年~1981まで一時引退していましたが、引退中にもマイルスの契約していたCBSコロムビア・レコーズはさまざまな時期の未発表音源を活動再開までの場つなぎとして正規リリースしていました。本作は中でももっとも初期のライヴ録音として話題となったアルバムで、CBSコロムビアからリリースされたマイルスの全アルバムを録音年代順にまとめた2009年発売のCD53作組ボックス・セット『The Complete Columbia Album Collection』でも1枚目に位置づけられたものです。当時マイルス・デイヴィスチャーリー・パーカー(1920-1955)・クインテットに在籍していましたが、1949年5月8日~15日の9日間に渡って行われたこのパリでのジャズ祭ではタッド・ダメロン(1917-1965)・クインテットのメンバーとして渡仏し、やはりこのジャズ祭に招かれたチャーリー・パーカークインテットのトランペット奏者はケニー・ドーハム(1924-1972)が代役参加し、帰国後ほどなくマイルスは正式にパーカー・クインテットを脱退、そのままドーハムが1949年秋までの短期間代役を勤めました(1949年11月からはレッド・ロドニーが正式加入し、1951年末までパーカー・クインテットのトランペット奏者を勤めます)。パリのプレイエル・ホールでの国際ジャズ祭は前年1948年から1953年に渡って開催され、1948年にはディジー・ガレスピー(1917-1993)のビッグバンドが招聘されています。フランスのバンドに混じって1949年にはパーカー・クインテット(パーカーas、ケニー・ドーハムtp、アル・ヘイグp、トミー・ポッターb、マックス・ローチds)、マイルス/ダメロン・クインテットマックス・ローチクインテット(ドーハム、ジェームス・ムーディーts、ヘイグで、パーカー・クインテットとマイルス/ダメロン・クインテットとの混成バンドでした)が招聘され、日替わりで1日4バンドの出演で最新のアメリカのビ・バップのバンドとフランスのバンドが競演しました。日程表は当時の文献がアルバムの見開きジャケットに転載されていますが、パーカー・クインテット在籍中のスター・ドラマー、マックス・ローチ(1924-2007)をリーダーとした臨時編成クインテットの出演はぎりぎりになって決まったらしく、インディー・レーベルの発掘アルバムによってこのジャズ祭での演奏が確認できますが日程表には掲載されていません。日程表によるとマイルス/ダメロン・クインテットは9日間のジャズ祭中7回分の出演を予定されたようですが(パーカー・クインテットは5回、初日と最後の2日のトリに予定されています)、ジャズ祭の全容を網羅した音源は発掘されていないので、マックス・ローチクインテットの参加からも推定されるように実際は予定された日程表通りに実施されなかったと思われます。しかしこのアルバムは(A面とB面の録音日は異なるものの)タッド・ダメロンとの共同リーダー(日程表にも「Miles Davis, Tadd Dameron Quintet」と表記されています)ながら、もっとも初期の22歳のマイルスの初めてのフルアルバムと見なせ、マイルスは1947年8月にパーカー・クインテットのメンバーそのままで初のマイルス名義の録音を4曲、1949年1月と4月にのちに『The Birth of the Cool』にまとめられるSPを録音していましたが、ことアルバムに関して言えばラジオ放送用音源の発掘ライヴとは言えこの『パリ・フェスティバル』がフルアルバム単位でマイルスを看板ソロイストとしたタッド・ダメロンのバンドが聴ける、ビ・バップ時代のジャズ・アルバムの逸品となっています。インディー盤からはこのジャズ祭でのパーカー・クインテット、ローチ・クインテットのラジオ放送用ライヴも発掘発売されていますが(マイルス/ダメロン・クインテットとメンバー兼任のため各バンドで「All The Things You Are (Prince Albert)」や「Ornithology (How High The Moon)」「Lady Bird (Half Nelson)」や「Allen's Alley」「Lover Man」など同一曲が演奏されており、聴き較べする面白さもあります)、正規のメジャー・レーベルからのリリースはマイルス/ダメロン・クインテットのこのアルバムだけです。また共同リーダー名義とは言えビ・バップ最盛期のダメロン・バンドがフルアルバムで聴けるのも本作だけで、後述の理由からダメロン・バンドの発掘ライヴ盤としてもマイルスの参加とともに絶大な稀少価値を誇ります。

 マイルスはパーカー・クインテットの若いトランペット・ヒーローでしたからこのジャズ祭ではマイルス/ダメロン・クインテットと併記されたのでしょうが、実際にバンドを仕切っているのはビ・バップの隠れた巨匠、タッド・ダメロンです。ダメロンの黄金時代は1944年~1950年のSPレコード時代、1955年以前の10インチLP時代にあり、全盛期のダメロン・バンドのレコードは抜群のフィーチャリング・ソロイストだったファッツ・ナヴァロワーデル・グレイクリフォード・ブラウンら夭逝ジャズマンのコンピレーションLPに分散収録されてしまったので、ビ・バップの名盤として輝くナヴァロやグレイ、ブラウンの遺作アルバムの収録曲の一部は実際はタッド・ダメロンのバンドのレコードだったのが閑却されています。またナヴァロやグレイのアルバムに分散収録されたために全盛期ダメロン・バンドだけを集めたアルバムが組まれていないので、ダメロン・バンドがフルアルバムで聴ける本作な非常に稀少なものです。このパリのジャズ祭のライヴでは、ダメロンのビッグバンドがクインテットに縮小していた時期に当たり、そろそろ1945年春以来在籍していたパーカー・クインテットから独立しようかと思案していたマイルスがパリのジャズ祭出演のためにダメロンのバンドに加わったというのが実情で、名義上はマイルス/ダメロン・クインテットですがバンドのリーダーはダメロンで、レパートリーもダメロンのバンドのものでした。バンドリーダー兼ピアニストとしてもダメロンはあくまで自分は出しゃばらずソロイストをフィーチャーするタイプでしたので、ナヴァロやグレイ、のちのクリフォード・ブラウンをフィーチャーしたのと同じようにマイルスがもっとも本領を発揮しやすい選曲とアレンジにバンドをチューンナップしています。当時のパーカーやガレスピーのバンドと共通するビ・バップ・スタンダードと言える名曲が全編ずらりと並んでいますが、マイルス在籍時からのパーカー・クインテットの定番曲B4「Ornithology」ではパーカー・クインテットのオリジナル以上に加速したテンポでぶっ飛ばし、バラードのB5「All The Things You Are」やB3「Embraceable You」ではマイルスはぎりぎり原曲のメロディーを残して崩しまくり、A3「Don't Blame Me」ではテーマ・メロディーもほとんど残らないアドリブから入っています。これらバラード演奏では後年のマイルスが得意とする一聴ミストーンのような半音階フレーズの萌芽が見られるのも注目されます。乗り乗りのバップ曲のA1「Rifftide」、B1「Wahoo」、B2「Allen's Alley (Wee)」ではパーカー・クインテット以上に奔放で、マイルスが「Half Nelson」に改作したダメロンのオリジナル曲A4「Lady Bird」は実際には「Half Nelson」のテーマ・メロディーで演奏されます。のちにジョン・コルトレーンの演奏でダメロン・オリジナルの人気曲となったA2「Good Bait」も快調で、ダメロンのリーダーとしての統率力の高さと初めての海外公演でスターとして遇されたマイルス(アメリカ国内とは比較にならない人気で、サルトルと会見の席が設けられたりジュリエット・グレコとのロマンスが芽生えたりで一躍パリの寵児となったことが晩年の自伝でも回想されています)の勢いが相乗効果となって、ベーシストだけフランス人ジャズマンながら素晴らしい演奏に結実しています。本作はフランスCBSで発掘・先行発売された後に全世界発売され、残されていた原盤がラジオ放送用のアセテート盤だったためデジタル・リマスタリングされてもアセテート盤由来の針音やアナウンサーの中継音声が除去できていませんが、ダビングも編集もない純粋なライヴ音源、しかも中味は極上で音質の限界以上の価値があり、ビ・バップ全盛期のモダン・ジャズの熱狂をそのまま伝えてくれる、言わずもがなの巨人マイルスの原点を知るにも過小評価の巨匠ダメロンの真価を知るにも最上の一枚となっています。現代の商業化されたスムーズ・ジャズとはまったく違う根源的なジャズの姿を思い知らされるこのほとばしり突っ走るようなジャズこそがビ・バップによって革新されたモダン・ジャズであり、もっと完成度の高い当時のスタジオ録音SP盤のコンピレーション・アルバムを差し置いても本作が今なお魅力を放つ、白熱と熱狂の必聴級ドキュメントたるゆえんです。

中原中也「無題」昭和5年(1930年)

中原中也明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)
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無題


 I

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよひ)の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みづか)ら信ずる!

 II

彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁さわぎはするが、
而(しか)もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

 III

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生(あ)れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

 IIII

私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

 V 幸福

幸福は厩(うまや)の中にゐる
藁(わら)の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

 頑なの心は、不幸でいらいらして、
 せめてめまぐるしいものや
 数々のものに心を紛らす。
 そして益々不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

 頑なの心は、理解に欠けて、
 なすべきをしらず、ただ利に走り、
 意気銷沈して、怒りやすく、
 人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

(「III」のみ同人誌「白痴群」創刊号昭和4年=1929年4月発表、原題「詩友に」。のち「白痴群」昭和5年=1930年4月に全篇発表)


 山口県の医家に生まれた詩人・中原中也(1907-1937)は、没後編集された全集で主に初期に書かれた未発表詩篇、詩集未収録詩篇を合わせた合計現存詩篇が350篇に上るのが判明しましたが、生前に中原自身によって編集された詩集は生前唯一の詩集となった昭和9年(1934年)12月刊行の『山羊の歌』(収録詩篇44篇)、没後刊行の『在りし日の歌』(収録詩篇58篇)ほどにすぎません。『山羊の歌』『在りし日の歌』はほぼ同分量ですが『山羊の歌』の方が篇数が少ないのは、今回ご紹介した「無題」のような連作詩をやや多く含むからで、この「無題」も『在りし日の歌』の時点で完成されていたとしたら全五篇にそれぞれタイトルがつけられ分割されていたと思われます。中原中也は早熟な詩人でしたが本格的な作詩は19歳の大正15年(1926年)5月に創作された「朝の歌」からで、30歳で早逝した上に自選詩集も2冊にとどまるため作風に進展がないと批判されがちですが、25歳の昭和7年(1932年)6月にはまとめられて自費出版のため2年後まで発売延期となった『山羊の歌』と、30歳の逝去直前に編集が完了されて急逝のため遺稿詩集となった『在りし日の歌』では5年の間隔を経ており、ともに代表作を多く含むとはいえ詩集全篇の印象では『在りし日の歌』では一篇一篇が焦点が絞られすっきりとまとまっており、比較すると『山羊の歌』では(「サーカス」や「汚れつちまつた悲しみに……」などの代表作を含むものの)第一詩集ならではの意欲が先に立ってやや混乱した作品が目立ち、11年間・詩集2冊の詩歴ながら数次に渡る方法的模索と詩篇ごとの試み、深化が確かめられます。中原中也は人気の高い詩人ですので各種出版社の文庫版でも『山羊の歌』『在りし日の歌』は全篇を収め、それに詩集未収録詩篇から選抜した佳作を補遺として収められている編集方針が定着していますので、やはり生前刊行詩集が2冊しかない立原道造(1914-1939)とともに文庫版でほぼ全詩集が読める詩人として、日本の詩の読者にはもっとも親しまれている詩人でしょう。

 しかし詩の場合小説のように物語を追って楽しんで終わりとはいかないので、一見して甘美な青春の抒情詩のように読める中原中也立原道造の詩も実は読者の目をすり抜けて随所によくわからないことが潜んでいます。この詩「無題」も一見して失恋寸前の恋愛詩のようでいて語り手の位置や視点が章ごとに変わり、また一章の中でも視点の移動があります。「I」は「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と始まりますから心のすれ違いがある恋人へ詩人が歌いかけている詩に見えますが、「II」では「彼女の心は真つ直い!」から始まり「そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!」と自問自答しているのか第三者に愚痴をこぼしているのかわからない展開になります。「III」では「かくは悲しく生きん世に、なが心/かたくなにしてあらしめな。」とありますからこの文語体の章の「な(汝)」は自問自答でしょう。「IIII」では(通常ローマ数字では「IV」となるべきですが)「私はおまへのことを思つてゐるよ。」と再び「I」と同じく恋人に語りかけている叙述に戻りますが、「I」や「II」でのねちっこい語り口、また「III」の文語体から一転して意図的な猫なで声になり、「私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。/いろんなことが考へられもするが、考へられても/それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」と「それはどうにもならないことだしするから、」のような破格文法からするとこれも自問自答の章句の性格が強いのです。「V 幸福」ではいきなり「幸福は厩(うまや)の中にゐる/藁(わら)の上に。」とイエス・キリスト誕生の暗喩で心の平安が提示され、最終連で「されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。」と三人称の訓戒調になり、恋愛詩の調子は完全に払底されてしまいます。この「V 幸福」に行下げの連で「頑なの心は、不幸でいらいらして、」と示されるのは「I」の「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と照応していますから、結局この詩は「幸福」を防げる心の動きは「強情」「頑な」である、という内省で一貫はしているのですが、逆にそれが主題ならば「I」から「IIII」までの章ごとのややこしい語り口の転換は何のために必要だったかがこの詩に対する疑問になってきます。実際この詩から読者が受ける印象は内省の一貫した追究よりもあの手この手で拗ねている詩人の語り口の方が強いので、「それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」に集中するような投げやりな一方的断言の方に重点がかかります。中原中也の詩が明治・大正の抒情詩からはっきり昭和以降の詩の特色を示しているのはこの多層的な発想であり、『山羊の歌』ではその錯綜が目立つ詩が多く、『在りし日の歌』ではもっと簡素ですっきりとした形式の中にすっと詩篇全体を相対化する詩行が差し挟まれる技巧の冴えが見られます。中原が口語詩の中に文語脈、歌謡脈を差し挟む技巧は語りの次元の多層性をもたらしているので、中原の生前当時時代錯誤的と批判されたこの手法はローマ文学で中世から見られる多言語混淆(マカロニック)体の日本語的応用に近いのです。それは中原にとって原点だったダダイズム詩からの独自の発展でもあり、また求心的な漢詩・和歌の伝統から発生した明治・大正期の現代詩にあっては異質な日本語詩の発想でした。中原と平行するこの発想は逸見猶吉、伊東静雄立原道造にも異なる形で見られるので、昭和以降を現代詩、それ以前の明治・大正を近代詩と分ける一般的な呼称にはその点で根拠があります。この「無題」一篇からそこまで話を広げるのは牽強附会の気もありますが、そもそもこの詩を「無題」とする感覚そのものの大胆さは尋常ではないものです。

ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム The Fugs First Album (ESP, 1966)

ザ・ファッグス - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム (ESP, 1966)

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ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム The Fugs First Album (ESP, 1966) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL8--pq2FCbFHlil9a0mLtpvof36_cvbcP
Recorded at Cue Recording Studio, NYC, April & September 22, 1965
Originally Released by Broadside/Folkways Records as BR 304 "The Village Fugs Sing Ballads of Contemporary Protest, Point of Views, and General Dissatisfaction", Late 1965
Reissued by ESP-Disk 1018, March 1966
Produced by Ed Sanders, Harry Smith
(Side A)
A1. Slum Goddess (Ken Weaver) - 1:58
A2. Ah, Sunflower, Weary of Time (William Blake, Ed Sanders) - 2:15
A3. Supergirl (Tuli Kupferberg) - 2:18
A4. Swinburne Stomp (A.C. Swinburne, Ed Sanders) - 2:50
A5. I Couldn't Get High (Ken Weaver) - 2:06
(Side B)
B1. How Sweet I Roamed (William Blake, Ed Sanders) - 2:11
B2. Carpe Diem (Seize The Day) (Tuli Kupferberg) - 5:07
B3. My Baby Done Left Me (I Feel Like Homemade Shit) - 2:18
B4. Boobs a Lot (Steve Weber) - 2:12
B5. Nothing (Tuli Kupferberg) - 4:18

[ The Fugs ]

Ed Sanders - vocals
Tuli Kupferberg - percussion, vocals
Ken Weaver - conga, drums, vocals
with April 1965 Session (A4, B2, B4)
Steve Weber - guitar, vocals
Peter Stampfel - fiddle, harmonica, vocals
with September 22 Session (A1-A3, A5, B1, B3, B5)
Steve Weber - guitar, vocals
John Anderson - bass guitar, vocals
Vinny Leary - bass, guitar, vocals

(Original Folkways "The Village Fugs~" LP Front Cover & ESP "First Album" LP Liner Cover, Side A/B Label)
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 本作は当初ザ・ファッグスのメンバー自身によって自主制作され、フォークのインディー・レーベル、ブロードサイド/フォークウェイズから最小プレス数が発売されましたが、レコード発売前からファッグスはニューヨークのアンダーグラウンド・シーンの顔役的存在でした。これに当時フリー・ジャズの新興レーベルだったESPディスクが目をつけ、アルバム第2作の制作・発売とともに『ザ・ファッグス・ファースト・アルバム』と改題して再発売したのが現行盤で1966年中に14回追加プレス、翌年にはスウェーデン盤(Sweden Debut)、オランダ・イギリス盤(Fontana)も発売され、ESPから同時発売の第2作『ファッグス・セカンド・アルバム (The Fugs)』が全米アルバム・チャート95位に上るとともに本作も全米142位の好セールスを記録しました。同時期にアルバム・デビューしたアメリカのバンドにはザ・ポール・バタフィールド・ブルース・バンド('65年10月)を先駆的存在にラヴ、ザ・ブルース・プロジェクト('66年3月)、ザ・シーズ、ザ・シャドウズ・オブ・ナイト('66年4月)、フランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンジョン('66年6月)、ジェファーソン・エアプレイン('66年8月)、ザ・ディープ、ブルース・マグース、ザ・13thフロア・エレヴェーターズ('66年10月)、バッファロー・スプリングフィールド('66年12月)、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド('67年3月)、ザ・ドアーズ、グレイトフル・デッド、エレクトリック・プリューンズ('67年4月)などが上げられますが、本作は制作・発売時期・内容、またいち早い評判と商業的成功からも「世界初のアンダーグラウンド・ロックのアルバム」と名高いものです。全10曲27分半と収録曲の少なさは自主制作ならではですが、実際は1965年4月のアコースティック・セッションで23曲、同年9月のエレクトリック・セッションで9曲が録音されており、アコースティック・セッションから3曲、エレクトリック・セッションから7曲を選び抜いた濃厚な選曲で、これがローリング・ストーンズの『アウト・オブ・アワー・ヘッズ』('65年7月)や『ディッセンバーズ・チルドレン』('65年11月)、ボブ・ディランの『追憶のハイウェイ61』('65年8月)、ビートルズの『ヘルプ!』('65年8月)、『ラバー・ソウル』('65年12月)と同時期に制作され、ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』('66年5月)、ストーンズの『アフターマス』('66年6月)、ビートルズの『リヴォルヴァー』('66年8月)に先立って発売されていたと思うと驚愕に値いするほどの先進的内容のアルバムです。ファッグスの創設メンバー、エド・サンダース(1939-)とトゥリ・カッファーバーグ(1923-2010)は元々詩人・ジャーナリストの著名作家で、ドラマーのケン・ウィーヴァー(1940-)が加入して活動を始めた時点ですでに50~60曲のオリジナル曲があったそうです。本作のアウトテイクはのちに編集盤やCD化追加曲で明らかになりますが、1969年の解散までの6作のアルバムの収録曲がバンド結成時にほとんど揃っていたほどで、ESPディスクはファッグスの成功からゴッズ('66年9月録音)、パールズ・ビフォア・スワイン('67年5月録音)ら、アンダーグラウンドロック系アルバムの制作に乗り出します。

 ESPディスクのフリー・ジャズアンダーグラウンド・ロックのアーティスト発掘は目覚ましい成果を上げましたが、 このインディー・レーベルは弁護士バーナード・ストールマンがサイド・ビジネスとして始めたもので(アメリカの音楽・舞台・映画などの娯楽ビジネスはほとんど弁護士資格のあるプロデューサーに掌握されています)、アーティストにアルバム内容の全面的自由を与える代わりに賃金は音楽家組合規定の最低額(契約金63ドル、録音賃金10ドルをアルバム発売半年後に支払い、版権は会社とアーティストで折半、アルバム1枚の売り上げにつき印税25セント)という条件で、しかも実際にはほとんどのアーティストが契約金の半額程度を前払いされただけで印税未払いのまま版権もESPが独占しました。ファッグスですら3%の印税しか支払われず、ファッグスに続いてESPからデビューしたゴッズ、デビュー・アルバムがインディー・レーベルでは驚異的な25万枚を売り上げたパールズ・ビフォア・スワインも原盤権を詐取された上にまったくギャラが支払われなかったと証言しています。ファッグスのカッファーバーグ、サンダースらは著書もある作家でしたからアルバム原盤の版権はバンド側が確保していましたが、ファッグスがメジャーのワーナー傘下のリプリーズ(のちにパールズも移籍)に移籍するとESPはファースト・アルバム、セカンド・アルバム時の未発表テイクをバンドに無断で次々とアルバム化しました。ESPから発売されたファッグス自身の公認アルバムは本作とセカンド・アルバムの2作きりなので、バンド側はリプリーズ移籍後の4作のアルバムをセカンド・アルバムに続く公式アルバムとしています。現行CDの版権もしっかりファッグス自身が管理しています。またファッグスは80年代半ばに再結成し、カッファーバーグ亡き後の現在でも作家の余技どころではないライフワークとして、エド・サンダースは再結成ファッグスの活動を継続しています。

 ファッグスはもともと文筆家で楽器のできない2人のソングライター兼ヴォーカリストが軍楽隊上がりのドラマーと組んだバンドで、初期のパフォーマンスはドラムスをバックに弾けないピアノやギターを乱打しながら自作詩を朗読するようなものだったそうですが、カッファーバーグもサンダースも筋金入りの反体制作家だったので市民運動反戦集会などに精力的に出演し、常にFBIからマークされている存在だったそうです。ESPディスクのフリー・ジャズ・アルバムは国際的に注目され、日本でも'60年代当初から発売されていましたが、ファッグスを始めとするアンダーグラウンドロック系作品は日本発売が見送られ、ようやく2010年代に一部の作品が日本でもインディー・レーベルからCD発売されました。ESPのロック・アルバム自体が素人のやっているような代物だろうと最初から敬遠されていた上に、日本のロックのリスナーには受けそうもない音楽性だったからですが、ファッグスは欧米での高い評価だけが伝わってきて実際に聴いていた日本の輸入盤リスナーすら少なかったのです。しかし思いきってアルバムを聴くと、歌詞の過激さや風刺性まで理解できなくてもサウンドだけで実にしっかりしたスタイルを築いていたバンドなのがわかる。確かに詩人の裏芸くさい素人らしさはあるのですが、単純な構成の楽曲ながらどの曲も筋が通っている、自信の溢れた歌と演奏です。このファースト・アルバムではフォーク・デュオのホリー・モーダル・ラウンダースのメンバー(スティーヴ・ウェバーとピーター・スタンフェル)が演奏メンバーに加わっていますが、ラウンダースも素人ミュージシャン同然なのにアルバムの1曲1曲に魅力的なアイディアがちゃんと実現されています。楽曲も童謡みたいに素朴で素人っぽいのにメロディーやリズムにキャッチーな魅力がある。これは本人たちにやりたい音楽のヴィジョンがしっかり見えているからで、一見すると安直で雑に見えて実は相当高度な狙いを見事に射抜いた、完成度の高い音楽作品になっています。ロサンゼルスのフランク・ザッパは叩き上げの熟達した天才音楽家でしたから音楽性は変態的でも方法は正統的なミュージシャンでしたが、このニューヨークの詩人の素人バンドは直観の鋭さとセンスの良さでザッパにも劣らない高度な表現力を発揮していたのをアルバムの出来が堂々と実証しています。

 年長のカッファーバーグ(当時すでに42歳!)もサンダースも、本来ミュージシャンたるには遅すぎるデビューでした。ファッグスの場合はバンドを組む前からすでに個性は確立していたので、あとは音楽としてそれをどう表現するかにまっすぐに向かうことができたのでしょう。本作は1965年4月の録音と9月の録音が混在していますが、4月の時点で風変わりなフォーク・ロックだったスタイルが9月のセッションでは楽器のエレクトリック化によってガレージ・ロックに変化し、プロト・パンクでもあればプロト・サイケな音楽性にもなっている。セカンド・アルバムではさらにロック色が強まり、ファッグスに一時的に参加したことからホリー・モーダル・ラウンダースもサイケデリック・ロックに接近していきます。ファッグスの強みは中心メンバーがもう青年でも何でもない年輩だったことからビートルズにもボブ・ディランにもストーンズにもバーズにも影響されなかったことで、ファッグスのガレージ・スタイルやサイケデリック化は他のバンドからの影響の痕跡がまったくない、突然変異的なものです。同時代のロックに超然としながらニューヨークのアンダーグラウンド・ロックを牽引する存在足り得たのはファッグスの強靭な一貫的姿勢に基づく幸徳でしょう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはファッグスがいなくてもデビューできたでしょうが、ファッグスとの関わりなしにホリー・モーダル・ラウンダースの転機はなかったでしょうしゴッズやパールズ・ビフォア・スワインのデビューはあり得ませんでした。ニューヨーク・パンクが生まれてくる土壌も培われなかったでしょうしニューヨーク・パンクなしにロンドン・パンクは起こらなかったと思うと、ファッグスの立ち位置は驚異的に広範囲の間接的影響力があります。ファッグスを原点とした裏ロック史をたどればまるで古代の生命創生のような進化系図か物理学的に複雑を極めた核分裂式としてすら描くことができるわけで、通常そんな大それたバンドとは認知されていないだけにファッグスの出現は歴史の特異点だったとも見なせます。サンダースもカッファーバーグもファッグスはロック・バンドというよりも一種の文化的・政治的パフォーマンスの形態で、プロのミュージシャンとかそういう存在ではないとわきまえていたでしょう。しかしこれは強烈な自信と意志に裏打ちされた音楽であり、たかが音楽が高い精神性と気迫でどれだけの衝撃力と不滅の生命力を勝ち得たかを実証してみせた産物です。そして本来ロック・ミュージックの真価とはファッグスの音楽のようなものを指すのではないでしょうか。「Slum Goddess」「Supergirl」「Swinburne Stomp」「Carpe Diem」「Nothing」のような名曲がそれを実証しています。ファッグスの7枚の名盤――『The Fugs First Album』、『The Fugs』、『Virgin Fugs』(バンド無許可・ESP 1038, 1967)、『Tenderness Junction』(Reprise RS6280, 1968)、『It Crawled Into My Hand, Honest』(Reprise RS6305, 1968)、『The Belle of Avenue A』(Reprise RS6359, 1969)、『Golden Filth (Live at Fillmore East, 1968)』(Reprise RS6396, 1970)は不朽の価値を誇る、知られざる(聴かれざる)'60年代ロックの金字塔と言えるものです。