人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

薄田泣菫「破甕の賦」明治33年(1900年)

薄田泣菫明治10年(1877年)5月19日生~
昭和20年(1945年)10月4日没(享年68歳)
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破甕の賦


火の氣絶えたる廚(くりや)に、
古き甕(かめ)は碎けたり。
人の告ぐる肌寒(はださむ)を
甕の身にも感ずるや。

古き甕は碎けたり、
また顏圓(まろ)き童女(どうによ)の
白き腕に卷かれて、
行かんや、森の泉に。

裂けて散れる菱形に、
窓より落つる光の
靜かに這(は)ふを眺めて、
獨り思ひに耽(ふけ)りぬ。

渇く日誰か汝(いまし)を、
花の園にも交(か)ふべしや。
唇(くちびる)燃ゆる折々、
掬みしは吾が生命(いのち)なり。

清きものゝ脆(もろ)かるは、
詩歌の人に聞いたり。
善きも遂に同じきか、
古き甕は碎けたり。

あゝ土よりいでし人、
清き路を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。

古き甕は碎けたり、
壞片(こはれ)を足にふまへて、
心憂ひにえ堪へず、
暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。

(「明星」明治33年=1900年11月)


 岡山県出身の詩人・薄田泣菫こと本名淳介は明治10年(1877年)5月19日生まれ、明治30年(1897年)5月に文芸誌「新著月刊」に投稿した詩が第一席に入選し、20歳で華々しくデビューを飾りました。明治32年(1899年、22歳)の11月には第一詩集『暮笛集』を刊行、2か月で初版5000部を売り切る人気詩人の座を固め、版元の金尾文淵堂の刊行する文芸誌「小天地」の編集主任に迎えられます。明治34年(1901年、24歳)の10月には第二詩集『ゆく春』を刊行し与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で28ページもの巻頭特集を組まれます。明治38年(1905年、28歳)の5月には代表作「公孫樹下にたちて」(「小天地」明治35年1月)を含む第三詩集『二十五弦』、同年6月には詩文集『白玉姫』を刊行し、明治39年(1906年、29歳)の5月には泣菫最大の名作とされる「ああ大和にしあらましかば」(「中學時代増刊号」明治38年11月)を含む第四詩集『白羊宮』が刊行されました。以降は新作を含む選詩集こそ刊行されましたがオリジナルな詩集は『白羊宮』が最後になり、翌明治40年(1907年、30歳)以降は新聞社入社とともに児童詩や民謡詩、随筆や小説に転じて、大阪毎日新聞社に移ってからのコラム『茶話』は10年あまり続く人気連載になり、昭和20年(1945年)10月4日の逝去(享年68歳)までは随筆家として多数の著作を発表しています。明治末までに代表的な詩集を4冊前後刊行した島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)、蒲原有明(1976-1945)とともに当時「新体詩」と呼ばれた明治30年代~40年代の文語自由詩をリードしたのが藤村、晩翠、有明、泣菫であり、また河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1945)で、特に泣菫は柔軟で文語文法からも破格な文体と大胆に多数の造語を含んだ豊かな語彙、抒情に溺れない清新な情感によって、もっとも実験的で難解な作風だった蒲原有明と双璧をなす第一線の詩人とされていました。

 この「破甕の賦」は明治33年4月に刊行されたばかりの与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で、史上初の四号活字(約32ポイント)組みという破格の大活字で巻頭作品として掲載され大反響を呼び、のちに第二詩集『ゆく春』に収録された詩篇です。古い甕に「真・善・美」の一致を見出すのはイギリス19世紀初頭のロマン派詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)の代表作「ギリシャ古甕の歌」で詠まれて、和歌・漢詩の上に英文学の教養を採り入れようとした明治詩人には馴染みの題材でしたが、泣菫の本作では古甕は人知れず壊れてしまうはかない美として詠われています。明治33年は29歳の島崎藤村が6月発表の連作詩によって詩作を辞め、小説家に転じた年でしたが、藤村が「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情のうた」「胸より胸に」など最後に日本語のロマン派詩の頂点を極めたのと入れ代わりに、ロマン派の提唱する美の破綻をパロディ的に詠んだ泣菫の醒めた批評性は明治の詩を藤村の次の段階に進めたものでした。キーツや藤村の詩のパロディとして「破甕の賦」は軽みの中に辛辣な風諭を潜めていますが、藤村の詩の七・五律(明治33年作品で初めて五・七律を採用)に較べても泣菫の詩は五音・七音にしばしば変則的に偶数音律(四音・六音)を交え、藤村と並ぶ明治30年代詩人の先駆者、土井晩翠が後年まで七・五律を崩さなかったのと対照的に、文語詩でありながら柔軟な口語脈に接近したものでした。「破甕の賦」は寓意詩の形式を採ったロマン派詩のパロディですが、四行七連の構成も非常に明晰で連ごとの暗喩も巧みなヴァリエーションに富み、批評的でありながら自然な流露感に溢れる行文や多彩ながらテーマから逸れない想像力の豊さは、同世代のライヴァルだった蒲原有明の桔屈な文体・技法とも対照をなす泣菫ならではの理知的な技巧でした。

 なお蒲原有明は明治時代の四詩集を生涯改稿し続けましたが、有明ほど原型をとどめないほどの改稿ではないものの、泣菫ものちの全詩集『泣菫詩集』(大正14年=1925年、48歳)、自選詩集『泣菫詩抄』(岩波文庫昭和3年=1928年、51歳)でこの「破甕の賦」を改稿しています。全体にルビが減らされてひらがな表記が増え、反復記号(「ゝ」)が排され、第一連「火の氣絶えたる廚(くりや)に、/古き甕(かめ)は碎けたり。/人の告ぐる肌寒(はださむ)を/甕の身にも感ずるや。」は「火の氣も絶えし廚に、/古き甕は碎けたり。/人のかこつ肌寒を/甕の身にも感ずるや。」と全面的に、第二連では「行かんや、」が「行かめや、」に、第三連の「裂けて散れる菱形(ひしがた)に」は「くだけ散れる片われに、」、第四連の「花の園にも交(か)ふべしや。/唇(くちびる)燃ゆる折々、」は「花の園にも交(か)へめや。/くちびる燃ゆる折々、」に、第五連の「清きものゝ脆(もろ)かるは、/詩歌の人に聞いたり。/善きも遂に同じきか、」は「清きものの脆かるは、/いにしへ人(びと)に聞きにき。/汝(いまし)はた清かりき、」に、第七連の「古き甕は碎けたり、/壞片(こはれ)を足にふまへて、/心憂ひにえ堪へず、/暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。」は「古き甕は碎けたり、/壞片(こはれ)を手に拾ひて、/心憂ひにえ堪へず、/暮れゆく日をも忘れぬ。」と、第六連以外はどの連にも改稿が見られます。初稿にあった「告ぐる」「行かんや、」「菱形(ひしがた)に」「交(か)ふべしや、」「唇(くちびる)」「詩歌の人に聞いたり。/善きも遂に同じきか、」「壞片(こはれ)を足にふまへて、」「暮るゝ日をも忘れ去(さ)んぬ。」といった強い表現がことごとく和らげられ、もっと穏やか、または間接的な表現に置き換えられているのが目立ちます。特に「詩歌の人」が「いにしへ人」に、「足にふまえて」が「手に拾ひて」とは大きな違いです。この改稿も首尾が整っているので改稿版で全体の調子が乱れていることはありませんが、すでに完成度の高い初稿版からなるべく辛辣な面を柔らげようとした意図が見られ、この改稿版も成功しているだけに泣菫が明治42年(1909年、32歳)以降新作詩を書かなくなったのがなおさら惜しまれる気がします。

破甕の賦


火の氣も絶えし廚に、
古き甕は碎けたり。
人のかこつ肌寒を
甕の身にも感ずるや。

古き甕は碎けたり、
また顏圓き童女(どうによ)の
白き腕に卷かれて、
行かめや、森の泉に。

くだけ散れる片われに、
窓より落つる光の
靜かに這ふを眺めて、
獨り思ひに耽りぬ。

渇く日誰か汝(いまし)を
花の園にも交(か)へめや。
くちびる燃ゆる折々、
掬みしは吾が生命なり。

清きものの脆かるは、
いにしへ人(びと)に聞きにき。
汝(いまし)はた清かりき、
古き甕は碎けたり。

ああ土よりいでし人、
清き路を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。

古き甕は碎けたり、
壞片(こはれ)を手に拾ひて、
心憂ひにえ堪へず、
暮れゆく日をも忘れぬ。

(岩波文庫『泣菫詩抄』昭和3年=1928年5月刊所収)

マイルス・デイヴィス The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet - パリ・フェスティバル・インターナショナル In Paris Festival International De Jazz - May, 1949 (CBS, 1977)

マイルス・デイヴィス - パリ・フェスティバル (CBS, 1977)

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マイルス・デイヴィス The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet - パリ・フェスティバル・インターナショナル In Paris Festival International De Jazz - May, 1949 (CBS, 1977) : Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nke5EROMwwl1aevG-qdOc0_64tJkGFMk8
Recorded Live at Salle Pleyel, Paris, May 8, 1949 (Side 1), May 9, 1949 (Side 2), Date Unknown (Bonus track)
Released by CBS Records France, CBS 82100, July 1977
Produced by Bruce Lundvall, Henri Renaud
(Side 1)
A1. Rifftide (Coleman Hawkins) - 4:35
A2. Good Bait (William "Count" Basie, Tadd Dameron) - 5:30
A3. Don't Blame Me (Dorothy Fields - Jimmy McHugh) - 3:58
A4. Lady Bird (Tadd Dameron) - 4:55
(Side 2)
B1. Wahoo (Cliff Friend) - 4:21
B2. Allen's Alley (Wee) (Denzil Best) - 5:31
B3. Embraceable You (Ira Gershwin - George Gershwin) - 4:09
B4. Ornithology (Charlie Parker - Benny Harris) - 3:45
B5. All The Things You Are (Oscar Hammerstein II - Jerome Kern) - 4:19
(CD Bonus Track)
10. The Squirrel (Tadd Dameron) - 3:57
11. Lover Man (Roger Ramires - Jimmy Sherman - Jimmy Davis) : https://youtu.be/rjsIXNEuXl4 - 3:23

[ The Miles Davis/Tadd Dameron Quintet ]

Miles Davis - trumpet
James Moody - tenor saxophone
Tadd Dameron - piano
Barney Spieler - bass
Kenny Clarke - drums

(Original CBS "In Paris Festival International De Jazz - May, 1949" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Side A Label)
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 言わずもがなのジャズの巨人マイルス・デイヴィス(1926-1991)は1976年~1981まで一時引退していましたが、引退中にもマイルスの契約していたCBSコロムビア・レコーズはさまざまな時期の未発表音源を活動再開までの場つなぎとして正規リリースしていました。本作は中でももっとも初期のライヴ録音として話題となったアルバムで、CBSコロムビアからリリースされたマイルスの全アルバムを録音年代順にまとめた2009年発売のCD53作組ボックス・セット『The Complete Columbia Album Collection』でも1枚目に位置づけられたものです。当時マイルス・デイヴィスチャーリー・パーカー(1920-1955)・クインテットに在籍していましたが、1949年5月8日~15日の9日間に渡って行われたこのパリでのジャズ祭ではタッド・ダメロン(1917-1965)・クインテットのメンバーとして渡仏し、やはりこのジャズ祭に招かれたチャーリー・パーカークインテットのトランペット奏者はケニー・ドーハム(1924-1972)が代役参加し、帰国後ほどなくマイルスは正式にパーカー・クインテットを脱退、そのままドーハムが1949年秋までの短期間代役を勤めました(1949年11月からはレッド・ロドニーが正式加入し、1951年末までパーカー・クインテットのトランペット奏者を勤めます)。パリのプレイエル・ホールでの国際ジャズ祭は前年1948年から1953年に渡って開催され、1948年にはディジー・ガレスピー(1917-1993)のビッグバンドが招聘されています。フランスのバンドに混じって1949年にはパーカー・クインテット(パーカーas、ケニー・ドーハムtp、アル・ヘイグp、トミー・ポッターb、マックス・ローチds)、マイルス/ダメロン・クインテットマックス・ローチクインテット(ドーハム、ジェームス・ムーディーts、ヘイグで、パーカー・クインテットとマイルス/ダメロン・クインテットとの混成バンドでした)が招聘され、日替わりで1日4バンドの出演で最新のアメリカのビ・バップのバンドとフランスのバンドが競演しました。日程表は当時の文献がアルバムの見開きジャケットに転載されていますが、パーカー・クインテット在籍中のスター・ドラマー、マックス・ローチ(1924-2007)をリーダーとした臨時編成クインテットの出演はぎりぎりになって決まったらしく、インディー・レーベルの発掘アルバムによってこのジャズ祭での演奏が確認できますが日程表には掲載されていません。日程表によるとマイルス/ダメロン・クインテットは9日間のジャズ祭中7回分の出演を予定されたようですが(パーカー・クインテットは5回、初日と最後の2日のトリに予定されています)、ジャズ祭の全容を網羅した音源は発掘されていないので、マックス・ローチクインテットの参加からも推定されるように実際は予定された日程表通りに実施されなかったと思われます。しかしこのアルバムは(A面とB面の録音日は異なるものの)タッド・ダメロンとの共同リーダー(日程表にも「Miles Davis, Tadd Dameron Quintet」と表記されています)ながら、もっとも初期の22歳のマイルスの初めてのフルアルバムと見なせ、マイルスは1947年8月にパーカー・クインテットのメンバーそのままで初のマイルス名義の録音を4曲、1949年1月と4月にのちに『The Birth of the Cool』にまとめられるSPを録音していましたが、ことアルバムに関して言えばラジオ放送用音源の発掘ライヴとは言えこの『パリ・フェスティバル』がフルアルバム単位でマイルスを看板ソロイストとしたタッド・ダメロンのバンドが聴ける、ビ・バップ時代のジャズ・アルバムの逸品となっています。インディー盤からはこのジャズ祭でのパーカー・クインテット、ローチ・クインテットのラジオ放送用ライヴも発掘発売されていますが(マイルス/ダメロン・クインテットとメンバー兼任のため各バンドで「All The Things You Are (Prince Albert)」や「Ornithology (How High The Moon)」「Lady Bird (Half Nelson)」や「Allen's Alley」「Lover Man」など同一曲が演奏されており、聴き較べする面白さもあります)、正規のメジャー・レーベルからのリリースはマイルス/ダメロン・クインテットのこのアルバムだけです。また共同リーダー名義とは言えビ・バップ最盛期のダメロン・バンドがフルアルバムで聴けるのも本作だけで、後述の理由からダメロン・バンドの発掘ライヴ盤としてもマイルスの参加とともに絶大な稀少価値を誇ります。

 マイルスはパーカー・クインテットの若いトランペット・ヒーローでしたからこのジャズ祭ではマイルス/ダメロン・クインテットと併記されたのでしょうが、実際にバンドを仕切っているのはビ・バップの隠れた巨匠、タッド・ダメロンです。ダメロンの黄金時代は1944年~1950年のSPレコード時代、1955年以前の10インチLP時代にあり、全盛期のダメロン・バンドのレコードは抜群のフィーチャリング・ソロイストだったファッツ・ナヴァロワーデル・グレイクリフォード・ブラウンら夭逝ジャズマンのコンピレーションLPに分散収録されてしまったので、ビ・バップの名盤として輝くナヴァロやグレイ、ブラウンの遺作アルバムの収録曲の一部は実際はタッド・ダメロンのバンドのレコードだったのが閑却されています。またナヴァロやグレイのアルバムに分散収録されたために全盛期ダメロン・バンドだけを集めたアルバムが組まれていないので、ダメロン・バンドがフルアルバムで聴ける本作な非常に稀少なものです。このパリのジャズ祭のライヴでは、ダメロンのビッグバンドがクインテットに縮小していた時期に当たり、そろそろ1945年春以来在籍していたパーカー・クインテットから独立しようかと思案していたマイルスがパリのジャズ祭出演のためにダメロンのバンドに加わったというのが実情で、名義上はマイルス/ダメロン・クインテットですがバンドのリーダーはダメロンで、レパートリーもダメロンのバンドのものでした。バンドリーダー兼ピアニストとしてもダメロンはあくまで自分は出しゃばらずソロイストをフィーチャーするタイプでしたので、ナヴァロやグレイ、のちのクリフォード・ブラウンをフィーチャーしたのと同じようにマイルスがもっとも本領を発揮しやすい選曲とアレンジにバンドをチューンナップしています。当時のパーカーやガレスピーのバンドと共通するビ・バップ・スタンダードと言える名曲が全編ずらりと並んでいますが、マイルス在籍時からのパーカー・クインテットの定番曲B4「Ornithology」ではパーカー・クインテットのオリジナル以上に加速したテンポでぶっ飛ばし、バラードのB5「All The Things You Are」やB3「Embraceable You」ではマイルスはぎりぎり原曲のメロディーを残して崩しまくり、A3「Don't Blame Me」ではテーマ・メロディーもほとんど残らないアドリブから入っています。これらバラード演奏では後年のマイルスが得意とする一聴ミストーンのような半音階フレーズの萌芽が見られるのも注目されます。乗り乗りのバップ曲のA1「Rifftide」、B1「Wahoo」、B2「Allen's Alley (Wee)」ではパーカー・クインテット以上に奔放で、マイルスが「Half Nelson」に改作したダメロンのオリジナル曲A4「Lady Bird」は実際には「Half Nelson」のテーマ・メロディーで演奏されます。のちにジョン・コルトレーンの演奏でダメロン・オリジナルの人気曲となったA2「Good Bait」も快調で、ダメロンのリーダーとしての統率力の高さと初めての海外公演でスターとして遇されたマイルス(アメリカ国内とは比較にならない人気で、サルトルと会見の席が設けられたりジュリエット・グレコとのロマンスが芽生えたりで一躍パリの寵児となったことが晩年の自伝でも回想されています)の勢いが相乗効果となって、ベーシストだけフランス人ジャズマンながら素晴らしい演奏に結実しています。本作はフランスCBSで発掘・先行発売された後に全世界発売され、残されていた原盤がラジオ放送用のアセテート盤だったためデジタル・リマスタリングされてもアセテート盤由来の針音やアナウンサーの中継音声が除去できていませんが、ダビングも編集もない純粋なライヴ音源、しかも中味は極上で音質の限界以上の価値があり、ビ・バップ全盛期のモダン・ジャズの熱狂をそのまま伝えてくれる、言わずもがなの巨人マイルスの原点を知るにも過小評価の巨匠ダメロンの真価を知るにも最上の一枚となっています。現代の商業化されたスムーズ・ジャズとはまったく違う根源的なジャズの姿を思い知らされるこのほとばしり突っ走るようなジャズこそがビ・バップによって革新されたモダン・ジャズであり、もっと完成度の高い当時のスタジオ録音SP盤のコンピレーション・アルバムを差し置いても本作が今なお魅力を放つ、白熱と熱狂の必聴級ドキュメントたるゆえんです。

中原中也「無題」昭和5年(1930年)

中原中也明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)
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無題


 I

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよひ)の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みづか)ら信ずる!

 II

彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁さわぎはするが、
而(しか)もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

 III

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生(あ)れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

 IIII

私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

 V 幸福

幸福は厩(うまや)の中にゐる
藁(わら)の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

 頑なの心は、不幸でいらいらして、
 せめてめまぐるしいものや
 数々のものに心を紛らす。
 そして益々不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

 頑なの心は、理解に欠けて、
 なすべきをしらず、ただ利に走り、
 意気銷沈して、怒りやすく、
 人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

(「III」のみ同人誌「白痴群」創刊号昭和4年=1929年4月発表、原題「詩友に」。のち「白痴群」昭和5年=1930年4月に全篇発表)


 山口県の医家に生まれた詩人・中原中也(1907-1937)は、没後編集された全集で主に初期に書かれた未発表詩篇、詩集未収録詩篇を合わせた合計現存詩篇が350篇に上るのが判明しましたが、生前に中原自身によって編集された詩集は生前唯一の詩集となった昭和9年(1934年)12月刊行の『山羊の歌』(収録詩篇44篇)、没後刊行の『在りし日の歌』(収録詩篇58篇)ほどにすぎません。『山羊の歌』『在りし日の歌』はほぼ同分量ですが『山羊の歌』の方が篇数が少ないのは、今回ご紹介した「無題」のような連作詩をやや多く含むからで、この「無題」も『在りし日の歌』の時点で完成されていたとしたら全五篇にそれぞれタイトルがつけられ分割されていたと思われます。中原中也は早熟な詩人でしたが本格的な作詩は19歳の大正15年(1926年)5月に創作された「朝の歌」からで、30歳で早逝した上に自選詩集も2冊にとどまるため作風に進展がないと批判されがちですが、25歳の昭和7年(1932年)6月にはまとめられて自費出版のため2年後まで発売延期となった『山羊の歌』と、30歳の逝去直前に編集が完了されて急逝のため遺稿詩集となった『在りし日の歌』では5年の間隔を経ており、ともに代表作を多く含むとはいえ詩集全篇の印象では『在りし日の歌』では一篇一篇が焦点が絞られすっきりとまとまっており、比較すると『山羊の歌』では(「サーカス」や「汚れつちまつた悲しみに……」などの代表作を含むものの)第一詩集ならではの意欲が先に立ってやや混乱した作品が目立ち、11年間・詩集2冊の詩歴ながら数次に渡る方法的模索と詩篇ごとの試み、深化が確かめられます。中原中也は人気の高い詩人ですので各種出版社の文庫版でも『山羊の歌』『在りし日の歌』は全篇を収め、それに詩集未収録詩篇から選抜した佳作を補遺として収められている編集方針が定着していますので、やはり生前刊行詩集が2冊しかない立原道造(1914-1939)とともに文庫版でほぼ全詩集が読める詩人として、日本の詩の読者にはもっとも親しまれている詩人でしょう。

 しかし詩の場合小説のように物語を追って楽しんで終わりとはいかないので、一見して甘美な青春の抒情詩のように読める中原中也立原道造の詩も実は読者の目をすり抜けて随所によくわからないことが潜んでいます。この詩「無題」も一見して失恋寸前の恋愛詩のようでいて語り手の位置や視点が章ごとに変わり、また一章の中でも視点の移動があります。「I」は「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と始まりますから心のすれ違いがある恋人へ詩人が歌いかけている詩に見えますが、「II」では「彼女の心は真つ直い!」から始まり「そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!」と自問自答しているのか第三者に愚痴をこぼしているのかわからない展開になります。「III」では「かくは悲しく生きん世に、なが心/かたくなにしてあらしめな。」とありますからこの文語体の章の「な(汝)」は自問自答でしょう。「IIII」では(通常ローマ数字では「IV」となるべきですが)「私はおまへのことを思つてゐるよ。」と再び「I」と同じく恋人に語りかけている叙述に戻りますが、「I」や「II」でのねちっこい語り口、また「III」の文語体から一転して意図的な猫なで声になり、「私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。/いろんなことが考へられもするが、考へられても/それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」と「それはどうにもならないことだしするから、」のような破格文法からするとこれも自問自答の章句の性格が強いのです。「V 幸福」ではいきなり「幸福は厩(うまや)の中にゐる/藁(わら)の上に。」とイエス・キリスト誕生の暗喩で心の平安が提示され、最終連で「されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。」と三人称の訓戒調になり、恋愛詩の調子は完全に払底されてしまいます。この「V 幸福」に行下げの連で「頑なの心は、不幸でいらいらして、」と示されるのは「I」の「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と照応していますから、結局この詩は「幸福」を防げる心の動きは「強情」「頑な」である、という内省で一貫はしているのですが、逆にそれが主題ならば「I」から「IIII」までの章ごとのややこしい語り口の転換は何のために必要だったかがこの詩に対する疑問になってきます。実際この詩から読者が受ける印象は内省の一貫した追究よりもあの手この手で拗ねている詩人の語り口の方が強いので、「それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」に集中するような投げやりな一方的断言の方に重点がかかります。中原中也の詩が明治・大正の抒情詩からはっきり昭和以降の詩の特色を示しているのはこの多層的な発想であり、『山羊の歌』ではその錯綜が目立つ詩が多く、『在りし日の歌』ではもっと簡素ですっきりとした形式の中にすっと詩篇全体を相対化する詩行が差し挟まれる技巧の冴えが見られます。中原が口語詩の中に文語脈、歌謡脈を差し挟む技巧は語りの次元の多層性をもたらしているので、中原の生前当時時代錯誤的と批判されたこの手法はローマ文学で中世から見られる多言語混淆(マカロニック)体の日本語的応用に近いのです。それは中原にとって原点だったダダイズム詩からの独自の発展でもあり、また求心的な漢詩・和歌の伝統から発生した明治・大正期の現代詩にあっては異質な日本語詩の発想でした。中原と平行するこの発想は逸見猶吉、伊東静雄立原道造にも異なる形で見られるので、昭和以降を現代詩、それ以前の明治・大正を近代詩と分ける一般的な呼称にはその点で根拠があります。この「無題」一篇からそこまで話を広げるのは牽強附会の気もありますが、そもそもこの詩を「無題」とする感覚そのものの大胆さは尋常ではないものです。

ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム The Fugs First Album (ESP, 1966)

ザ・ファッグス - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム (ESP, 1966)

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ザ・ファッグス The Fugs - ザ・ファッグス・ファースト・アルバム The Fugs First Album (ESP, 1966) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL8--pq2FCbFHlil9a0mLtpvof36_cvbcP
Recorded at Cue Recording Studio, NYC, April & September 22, 1965
Originally Released by Broadside/Folkways Records as BR 304 "The Village Fugs Sing Ballads of Contemporary Protest, Point of Views, and General Dissatisfaction", Late 1965
Reissued by ESP-Disk 1018, March 1966
Produced by Ed Sanders, Harry Smith
(Side A)
A1. Slum Goddess (Ken Weaver) - 1:58
A2. Ah, Sunflower, Weary of Time (William Blake, Ed Sanders) - 2:15
A3. Supergirl (Tuli Kupferberg) - 2:18
A4. Swinburne Stomp (A.C. Swinburne, Ed Sanders) - 2:50
A5. I Couldn't Get High (Ken Weaver) - 2:06
(Side B)
B1. How Sweet I Roamed (William Blake, Ed Sanders) - 2:11
B2. Carpe Diem (Seize The Day) (Tuli Kupferberg) - 5:07
B3. My Baby Done Left Me (I Feel Like Homemade Shit) - 2:18
B4. Boobs a Lot (Steve Weber) - 2:12
B5. Nothing (Tuli Kupferberg) - 4:18

[ The Fugs ]

Ed Sanders - vocals
Tuli Kupferberg - percussion, vocals
Ken Weaver - conga, drums, vocals
with April 1965 Session (A4, B2, B4)
Steve Weber - guitar, vocals
Peter Stampfel - fiddle, harmonica, vocals
with September 22 Session (A1-A3, A5, B1, B3, B5)
Steve Weber - guitar, vocals
John Anderson - bass guitar, vocals
Vinny Leary - bass, guitar, vocals

(Original Folkways "The Village Fugs~" LP Front Cover & ESP "First Album" LP Liner Cover, Side A/B Label)
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 本作は当初ザ・ファッグスのメンバー自身によって自主制作され、フォークのインディー・レーベル、ブロードサイド/フォークウェイズから最小プレス数が発売されましたが、レコード発売前からファッグスはニューヨークのアンダーグラウンド・シーンの顔役的存在でした。これに当時フリー・ジャズの新興レーベルだったESPディスクが目をつけ、アルバム第2作の制作・発売とともに『ザ・ファッグス・ファースト・アルバム』と改題して再発売したのが現行盤で1966年中に14回追加プレス、翌年にはスウェーデン盤(Sweden Debut)、オランダ・イギリス盤(Fontana)も発売され、ESPから同時発売の第2作『ファッグス・セカンド・アルバム (The Fugs)』が全米アルバム・チャート95位に上るとともに本作も全米142位の好セールスを記録しました。同時期にアルバム・デビューしたアメリカのバンドにはザ・ポール・バタフィールド・ブルース・バンド('65年10月)を先駆的存在にラヴ、ザ・ブルース・プロジェクト('66年3月)、ザ・シーズ、ザ・シャドウズ・オブ・ナイト('66年4月)、フランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンジョン('66年6月)、ジェファーソン・エアプレイン('66年8月)、ザ・ディープ、ブルース・マグース、ザ・13thフロア・エレヴェーターズ('66年10月)、バッファロー・スプリングフィールド('66年12月)、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド('67年3月)、ザ・ドアーズ、グレイトフル・デッド、エレクトリック・プリューンズ('67年4月)などが上げられますが、本作は制作・発売時期・内容、またいち早い評判と商業的成功からも「世界初のアンダーグラウンド・ロックのアルバム」と名高いものです。全10曲27分半と収録曲の少なさは自主制作ならではですが、実際は1965年4月のアコースティック・セッションで23曲、同年9月のエレクトリック・セッションで9曲が録音されており、アコースティック・セッションから3曲、エレクトリック・セッションから7曲を選び抜いた濃厚な選曲で、これがローリング・ストーンズの『アウト・オブ・アワー・ヘッズ』('65年7月)や『ディッセンバーズ・チルドレン』('65年11月)、ボブ・ディランの『追憶のハイウェイ61』('65年8月)、ビートルズの『ヘルプ!』('65年8月)、『ラバー・ソウル』('65年12月)と同時期に制作され、ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』('66年5月)、ストーンズの『アフターマス』('66年6月)、ビートルズの『リヴォルヴァー』('66年8月)に先立って発売されていたと思うと驚愕に値いするほどの先進的内容のアルバムです。ファッグスの創設メンバー、エド・サンダース(1939-)とトゥリ・カッファーバーグ(1923-2010)は元々詩人・ジャーナリストの著名作家で、ドラマーのケン・ウィーヴァー(1940-)が加入して活動を始めた時点ですでに50~60曲のオリジナル曲があったそうです。本作のアウトテイクはのちに編集盤やCD化追加曲で明らかになりますが、1969年の解散までの6作のアルバムの収録曲がバンド結成時にほとんど揃っていたほどで、ESPディスクはファッグスの成功からゴッズ('66年9月録音)、パールズ・ビフォア・スワイン('67年5月録音)ら、アンダーグラウンドロック系アルバムの制作に乗り出します。

 ESPディスクのフリー・ジャズアンダーグラウンド・ロックのアーティスト発掘は目覚ましい成果を上げましたが、 このインディー・レーベルは弁護士バーナード・ストールマンがサイド・ビジネスとして始めたもので(アメリカの音楽・舞台・映画などの娯楽ビジネスはほとんど弁護士資格のあるプロデューサーに掌握されています)、アーティストにアルバム内容の全面的自由を与える代わりに賃金は音楽家組合規定の最低額(契約金63ドル、録音賃金10ドルをアルバム発売半年後に支払い、版権は会社とアーティストで折半、アルバム1枚の売り上げにつき印税25セント)という条件で、しかも実際にはほとんどのアーティストが契約金の半額程度を前払いされただけで印税未払いのまま版権もESPが独占しました。ファッグスですら3%の印税しか支払われず、ファッグスに続いてESPからデビューしたゴッズ、デビュー・アルバムがインディー・レーベルでは驚異的な25万枚を売り上げたパールズ・ビフォア・スワインも原盤権を詐取された上にまったくギャラが支払われなかったと証言しています。ファッグスのカッファーバーグ、サンダースらは著書もある作家でしたからアルバム原盤の版権はバンド側が確保していましたが、ファッグスがメジャーのワーナー傘下のリプリーズ(のちにパールズも移籍)に移籍するとESPはファースト・アルバム、セカンド・アルバム時の未発表テイクをバンドに無断で次々とアルバム化しました。ESPから発売されたファッグス自身の公認アルバムは本作とセカンド・アルバムの2作きりなので、バンド側はリプリーズ移籍後の4作のアルバムをセカンド・アルバムに続く公式アルバムとしています。現行CDの版権もしっかりファッグス自身が管理しています。またファッグスは80年代半ばに再結成し、カッファーバーグ亡き後の現在でも作家の余技どころではないライフワークとして、エド・サンダースは再結成ファッグスの活動を継続しています。

 ファッグスはもともと文筆家で楽器のできない2人のソングライター兼ヴォーカリストが軍楽隊上がりのドラマーと組んだバンドで、初期のパフォーマンスはドラムスをバックに弾けないピアノやギターを乱打しながら自作詩を朗読するようなものだったそうですが、カッファーバーグもサンダースも筋金入りの反体制作家だったので市民運動反戦集会などに精力的に出演し、常にFBIからマークされている存在だったそうです。ESPディスクのフリー・ジャズ・アルバムは国際的に注目され、日本でも'60年代当初から発売されていましたが、ファッグスを始めとするアンダーグラウンドロック系作品は日本発売が見送られ、ようやく2010年代に一部の作品が日本でもインディー・レーベルからCD発売されました。ESPのロック・アルバム自体が素人のやっているような代物だろうと最初から敬遠されていた上に、日本のロックのリスナーには受けそうもない音楽性だったからですが、ファッグスは欧米での高い評価だけが伝わってきて実際に聴いていた日本の輸入盤リスナーすら少なかったのです。しかし思いきってアルバムを聴くと、歌詞の過激さや風刺性まで理解できなくてもサウンドだけで実にしっかりしたスタイルを築いていたバンドなのがわかる。確かに詩人の裏芸くさい素人らしさはあるのですが、単純な構成の楽曲ながらどの曲も筋が通っている、自信の溢れた歌と演奏です。このファースト・アルバムではフォーク・デュオのホリー・モーダル・ラウンダースのメンバー(スティーヴ・ウェバーとピーター・スタンフェル)が演奏メンバーに加わっていますが、ラウンダースも素人ミュージシャン同然なのにアルバムの1曲1曲に魅力的なアイディアがちゃんと実現されています。楽曲も童謡みたいに素朴で素人っぽいのにメロディーやリズムにキャッチーな魅力がある。これは本人たちにやりたい音楽のヴィジョンがしっかり見えているからで、一見すると安直で雑に見えて実は相当高度な狙いを見事に射抜いた、完成度の高い音楽作品になっています。ロサンゼルスのフランク・ザッパは叩き上げの熟達した天才音楽家でしたから音楽性は変態的でも方法は正統的なミュージシャンでしたが、このニューヨークの詩人の素人バンドは直観の鋭さとセンスの良さでザッパにも劣らない高度な表現力を発揮していたのをアルバムの出来が堂々と実証しています。

 年長のカッファーバーグ(当時すでに42歳!)もサンダースも、本来ミュージシャンたるには遅すぎるデビューでした。ファッグスの場合はバンドを組む前からすでに個性は確立していたので、あとは音楽としてそれをどう表現するかにまっすぐに向かうことができたのでしょう。本作は1965年4月の録音と9月の録音が混在していますが、4月の時点で風変わりなフォーク・ロックだったスタイルが9月のセッションでは楽器のエレクトリック化によってガレージ・ロックに変化し、プロト・パンクでもあればプロト・サイケな音楽性にもなっている。セカンド・アルバムではさらにロック色が強まり、ファッグスに一時的に参加したことからホリー・モーダル・ラウンダースもサイケデリック・ロックに接近していきます。ファッグスの強みは中心メンバーがもう青年でも何でもない年輩だったことからビートルズにもボブ・ディランにもストーンズにもバーズにも影響されなかったことで、ファッグスのガレージ・スタイルやサイケデリック化は他のバンドからの影響の痕跡がまったくない、突然変異的なものです。同時代のロックに超然としながらニューヨークのアンダーグラウンド・ロックを牽引する存在足り得たのはファッグスの強靭な一貫的姿勢に基づく幸徳でしょう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはファッグスがいなくてもデビューできたでしょうが、ファッグスとの関わりなしにホリー・モーダル・ラウンダースの転機はなかったでしょうしゴッズやパールズ・ビフォア・スワインのデビューはあり得ませんでした。ニューヨーク・パンクが生まれてくる土壌も培われなかったでしょうしニューヨーク・パンクなしにロンドン・パンクは起こらなかったと思うと、ファッグスの立ち位置は驚異的に広範囲の間接的影響力があります。ファッグスを原点とした裏ロック史をたどればまるで古代の生命創生のような進化系図か物理学的に複雑を極めた核分裂式としてすら描くことができるわけで、通常そんな大それたバンドとは認知されていないだけにファッグスの出現は歴史の特異点だったとも見なせます。サンダースもカッファーバーグもファッグスはロック・バンドというよりも一種の文化的・政治的パフォーマンスの形態で、プロのミュージシャンとかそういう存在ではないとわきまえていたでしょう。しかしこれは強烈な自信と意志に裏打ちされた音楽であり、たかが音楽が高い精神性と気迫でどれだけの衝撃力と不滅の生命力を勝ち得たかを実証してみせた産物です。そして本来ロック・ミュージックの真価とはファッグスの音楽のようなものを指すのではないでしょうか。「Slum Goddess」「Supergirl」「Swinburne Stomp」「Carpe Diem」「Nothing」のような名曲がそれを実証しています。ファッグスの7枚の名盤――『The Fugs First Album』、『The Fugs』、『Virgin Fugs』(バンド無許可・ESP 1038, 1967)、『Tenderness Junction』(Reprise RS6280, 1968)、『It Crawled Into My Hand, Honest』(Reprise RS6305, 1968)、『The Belle of Avenue A』(Reprise RS6359, 1969)、『Golden Filth (Live at Fillmore East, 1968)』(Reprise RS6396, 1970)は不朽の価値を誇る、知られざる(聴かれざる)'60年代ロックの金字塔と言えるものです。

島崎藤村「髮を洗へば」「君がこゝろは」「傘のうち」明治29年(1896年)

島崎藤村・明治5年(1872年)3月25日生~
昭和18年(1943年)8月22日没(享年72歳)
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若菜集明治30年(1897年)8月29日・春陽堂

髮を洗へば


髮を洗へば紫の
小草(をぐさ)のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥(はなとり)の
われに隨ふ風情(ふぜい)あり

目にながむれば彩雲(あやぐも)の
まきてはひらく繪卷物(ゑまきもの)
手にとる酒は美酒(うまざけ)の
若き愁(うれひ)をたゝふめり

耳をたつれば歌神(うたがみ)の
きたりて玉(たま)の簫(ふえ)を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ

あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな

(初出原題「相思」

君がこゝろ


君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の
風にさそはれ鳴くごとく
朝影(あさかげ)清きよき花草(はなぐさ)に
惜しき涙をそゝぐらむ

それかきならす玉琴(たまこと)の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ

あゝなどかくは觸れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾(わが)こひに
觸れたまはぬぞ恨みなる

(初出原題「一得一失」)

傘のうち


二人ふたりしてさす一張(ひとはり)の
傘に姿をつゝむとも
情(なさけ)の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな

顏と顏とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花(ばいくわ)の油黒髮の
亂れて匂ふ傘のうち

戀の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間(ま)や
染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの
雨になやめる足まとひ

歌ふをきけば梅川よ
しばし情なさけを捨てよかし
いづこも戀に戲(たはふ)れて
それ忠兵衞の夢がたり

こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾(ほ)さぬ間まに
手に手をとりて行きて歸らじ

(以上三篇初出「文學界明治29年=1896年11月、総題「秋の夢」八篇より)


 大学卒業以来東京の女学校で学校教諭をしていた島崎藤村(1872-1943)は女生徒との恋愛から自主退職して一時期放浪し、明治29年(1896年)9月から翌明治30年(1897年)7月まで仙台の東北学院作文教師として地方赴任していましたが、収録作品51篇の第1詩集『若菜集』(明治30年8月刊)はほとんどがこの10か月ほどの仙台赴任時代に書かれたものです。『若菜集』収録予定詩篇は藤村が創刊同人だった同人誌「文學界」に仙台赴任前の明治28年(1895年)明治29年7月発表の総題「ことしの夏」9篇以外は明治29年9月から毎月のように発表され、明治29年9月の「文學界」には総題「草影蟲語」として七篇、10月には「まだあげ初めしまえがみの(……)」の書き出しで知られる「初戀」を含む総題「一葉集」として18篇、11月には総題「秋の夢」として八篇、12月にはのちに「六人の處女」に改題される六篇の連作「うすごほり」、と明治30年3月まで連続発表されました。藤村の詩集は29歳の明治34年までに明治30年(1897年)8月刊の第一詩集『若菜集』、明治31年(1898年)6月刊の第二詩集『一葉集』(詩文集)、明治31年12月刊の第三詩集『夏草』、明治34年(1901年)8月刊の第四詩集『落梅集』があり、これら四詩集は藤村が小説家に転じたのちの明治37年(1904年)9月に全詩集『藤村詩集』としてまとめられ、さらに大正元年(1912年)12月に『改版藤村詩集』として普及版になり戦前の昭和期まで愛読されるロングセラーになりました。今回ご紹介した三篇のうち「髮を洗へば」「君がこゝろは」は初出誌と『若菜集』では「相思」「一得一失」という原題だったもので、『改版藤村詩集』以降「髮を洗へば」「君がこゝろは」に改題されたものです。原題は詩のテーマを簡素に表したものですが、初出誌・『若菜集』とも最初から原題通りの「傘のうち」というタイトルで連続して収められた三篇として抜粋すると(または個別の詩篇としてのタイトルとしては)、「髮を洗へば」「君がこゝろは」という柔らかいタイトルに改題したのは成功していると思います。

 詩集『若菜集』は連作「六人の處女」に代表されるように女性、しかも若い女性の一人称を借りた詩篇が印象に残り、それも女性に自立した人権が認められなかった当時にあっては画期的なことでした。「秋の夢」八篇からのこの三篇も一見すると女性の一人称による恋愛詩のように見えますが、「髪を洗へば」は「髮を洗へば紫の/小草(をぐさ)のまへに色みえて」と第三連まで女性の一人称のように見えて、第四連「あゝかくまでにあやしくも/熱きこゝろのわれなれど/われをし君のこひしたふ/その涙にはおよばじな」と男性側の一人称に反転する仕掛けになっています。「君がこゝろは」はもっとわかりづらく、第一連の「君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の/風にさそはれ鳴くごとく」、第二連の「それかきならす玉琴(たまこと)の/一つの糸のさはりさへ」を聴いている「われ」は男性かと思われますが、鳴くコオロギは雄ですし、第四連の「かくばかりなる吾(わが)こひに/觸れたまはぬぞ恨みなる」という結句は女性の一人称と読む方が妥当でしょう。「傘のうち」は第二連の「梅花(ばいくわ)の油黒髮の/亂れて匂ふ傘のうち」は男性側の視点を感じさせますが、第三連では「染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの/雨になやめる足まとひ」と詠まれていることから語り手は女性に移っているように見えます。しかし第四連の「歌ふをきけば梅川よ/しばし情なさけを捨てよかし/いづこも戀に戲(たはふ)れて/それ忠兵衞の夢がたり」に出てくる「梅川」「忠兵衞」は近松門左衛門人形浄瑠璃の主人公たちですから、教養からするとこの語り手は男性詩人のように思えます。最終連の第五連でも「こひしき雨よふらばふれ/秋の入日の照りそひて/傘の涙を乾(ほ)さぬ間まに/手に手をとりて行きて歸らじ」と語り手が男女どちらかの決め手になる語句は出てこないので、結局この詩も語り手の性別は判然としません。

 この三篇はいずれも島崎藤村が『若菜集』で初めて果たした詩の改革で、洗髪、秋風、相合傘といずれも今日では当たり前のように使われる題材ですが、悲憤慷慨や立身、史事など従来の漢詩系統ではない、また江戸文学(上方文学では西鶴近松らの市民恋愛悲劇の達成がありましたが)のように遊廓遊戯ではない市井の恋愛詩を発明したことで、画期的な役割を明治の日本文学に果たしたものです。恋愛そのものが文学としては語るに値しないものと目されていた当時にあっては『若菜集』は題材、修辞、文体ともに破格のもので、これは藤村の年長の盟友・北村透谷が論壇において提唱していた(そして透谷自身の自殺によって挫折した)文芸思潮を初めて作品に定着することに成功したものでした。洗髪、秋風、相合傘が藤村以降どれほどの恋愛詩や恋愛小説に使われてきたかを思えば『若菜集』は120年前の詩集どころか現代文化の源泉にもなっているのです。しかし一見古めかしいながら内容は平易で単純に見えるこれら「髮を洗へば」「君がこゝろは」「傘のうち」が人称の上で連ごとの混乱を含んだ詩なのが藤村自身の意図か失策かはにわかに断定できず、藤村の詩でも『若菜集』の「初戀」や連作「六人の處女」、『落梅集』の「小諸なる古城のほとり(千曲川旅情のうた)」、連作「胸より胸に」などではこうした混乱は見られないことから、これら「髮を洗へば」「君がこゝろは」「傘のうち」は効果と印象を狙ってあえて人称的混乱を残した詩篇と見られ、『若菜集』の段階ではまだ藤村の手法は実験的段階にあったとも、また当時の読者にもこの人称の不統一が不審とは思われなかった、前提として男性側からの視点が女性側の人称を包括した形式と読まれていたとも考えられます。一応この三篇もふと女性側の人称と思われる連があっても詩篇全体を男性側の視点によるものとすれば押し通せるのですが、ご紹介するために詩集から詩篇を書き出してみると前述したような視点の混乱、もしくは移動や錯覚が感じられるのです。藤村からさらに現代詩の改革を進めた薄田泣菫蒲原有明の詩ではそうした視点の移動に明確な実験意識と成果が認められるので、これも現代からさかのぼって『若菜集』を読むからこそ感じられる錯誤かもしれません。

ローウェル・ダヴィッドソン Lowell Davidson Trio - ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio (ESP, 1965)

ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ (ESP, 1965)

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ローウェル・ダヴィッドソン Lowell Davidson Trio - ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio (ESP, 1965) : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nujqv2upK7cOttY2Jr71c4iSvCjno51oM
Recorded in NYC, July 27, 1965.
Released ESP Disk - ESP 1012, 1965 / Reissued ESP Disk - ESP 1012-2, ZYX Music - ESP 1012-2 (CD, Germany), 1993
All Compositions by Lowell Davidson.
(Side A)
A1. "L" - 8:10
A2. Stately 1 - 11:05
A3. Dunce - 4:29
(Side B)
B1. Ad Hoc - 12:15
B2. Strong Tears - 8:30

[ Lowell Davidson Trio ]

Lowell Davidson - piano
Gary Peacock - bass
Milford Graves - percussion

(Original ESP "Lowell Davidson Trio" LP Liner Cover & Side A Label)
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 ローウェル・ダヴィッドソン(1941~1990)はマサチューセッツ州ボストン出身でハーヴァード大学を卒業して生化学者になり、このアルバムは1964年創設のフリージャズ専門インディーズ・レーベルESPに、オーネット・コールマンの推薦でオーディションなしで制作が決定して録音・リリースされた。ベースのゲイリー・ピーコック(1935~)、ドラムスのミルフォード・グレイヴス(1941~)はこのアルバムのために起用されたメンバーになる。ダヴィッドソンは活動初期のニューヨーク・アート・カルテットにドラムス、ベース、オルガン奏者として参加していたこともあった。ダヴィッドソンは化学実験中の事故で1990年に49歳で逝去した。
(英語版ウィキペディア全文)

 このピアニストの活動については英語版ウィキペディアの全文に載せられている事柄以上はほとんど知られていないようです。ESPからの本作が唯一のアルバムで、このアルバムがなかったらジャズの歴史に名前が残らなかった人でもあります。このアルバムにしてもリーダー以外のメンバーの方が出世してリーダーは無名に終わった典型的な例で(皮肉なことにジャズではよくある話ですが)、ピーコックやグレイヴスは巨匠になりましたがダヴィッドソンは生涯に1枚アルバムを残した、本職は化学者のアマチュア・ジャズ・ピアニストにすぎませんでした。ピーコックとグレイヴスの演奏はこのアルバムを聴いてもリーダーのピアノと同等以上に鮮やかで、素晴らしいベースとドラムスに恵まれたからこそダヴィッドソンもジャズ史の片隅に名を留めることになったと言えます。

 米音楽サイトallmusic.comのアルバム評価でも本作は星四つですが、歴史的な重要性からも見逃せないアルバムとしています。ローウェル・ダヴィッドソンは1941年生まれで神学者中流家庭に育ち、学生時代は吹奏楽団でチューバを吹いていたそうで、大学進学して化学の学士号を取得しているくらいですから大学進学率が30パーセント程度だった当時では家庭も裕福、学業も優秀だったと想像されます。セロニアス・モンクとハービー・ニコルスの影響の下にジャズ・ピアノを始め、ドラムスも叩けたのでラズウェル・ラッドとジョン・チカイのニューヨーク・アート・カルテットの初期メンバーにドラムスで参加した(レコーディングはなし)のを経て最初で最後のアルバムを新興レーベルESPに吹き込みました。ダヴィッドソン24歳、全曲がダヴィッドソン自身の書き下ろしオリジナル曲で、ベースにゲイリー・ピーコック、ドラムスにミルフォード・グレイヴスという極上のサポートを得た録音です。仕上がりは、フリー・ジャズ・レーベルのESPの中ではフリー・ジャズのピアノ・トリオではくくれない珠玉のアルバムになりました。内容はやはりピーコックとグレイヴスの貢献の高さが注目され、フリー・ジャズのピアノとしてセシル・テイラーと比較すると冒頭の「"L"」で顕著なように調性はもっと明快で、マル・ウォルドロン的な打楽器的奏法とセロニアス・モンクやウォルドロン以上に極端に簡素な演奏に特徴があり、ポール・ブレイとの類似は顕著ですが、見過ごされがちなフリー・ジャズ・ピアニストとしてヴァルド・ウィリアムズ、バートン・グリーン、エリック・ワトソンらと同格の評価が与えられるべき秘宝的存在だろうとされています。

 ヴァルド・ウィリアムズ(Valdo Williams, 1933~2010)、バートン・グリーン(1937~)、エリック・ワトソン(Eric Watson, 1955~)らはマル・ウォルドロン(1925~2002)やセシル・テイラー(1929~2018)、ポール・ブレイ(Paul Bley, 1932~2019)とは格段に知名度が落ちるジャズ・ピアニストで、エリック・ワトソンはすでにフリー・ジャズが歴史的スタイルになった後でデビューしたジャズマンですし、バートン・グリーンがフリー・ジャズのピアニストだったのはデビュー当初だけで'70年代以降はシンセサイザーによる実験音楽に転向しています。マル・ウォルドロンポール・ブレイはどちらかといえばメインストリームのジャズ界で活動していた時期のアルバムで知られますが、'60年代半ばにはともにセシル・テイラーと並ぶフリー・ジャズのピアニストとして尖鋭的なジャズを演奏していました。アンドリュー・ヒル(Andrew Hill, 1929~2007)をこのリストに含めてもいいでしょう。テイラーとヒルはデビュー当初から晩年までアメリカの黒人フリー・ジャズを代表したピアニストで、テイラーが牽引車とすればヒルは裏番長のような存在でした。

 ダヴィッドソンと同時期にフリー・ジャズ、または折衷的スタイルの新人ピアニストとしてデビューしたジャズマンはデイヴ・バレル、ラン・ブレイク、スタンリー・カウエル、ドン・プーレンなどESP周辺のミュージシャンでしたし、セシル・テイラービル・エヴァンスは同年生まれ・同年デビューの宿命のライヴァルでした。エヴァンス系のピアニストも影響源はエヴァンスに限定はされず(ほとんどエヴァンスの影武者のようなピアニストも続出しましたが)、マッコイ・タイナーハービー・ハンコックチック・コリアらもエヴァンスとテイラー双方からの技法を摂取していました。エヴァンスやテイラーは一貫して自己のスタイルを貫いていましたから不自然ではありませんが、'70年代にはかつてフリー・ジャズの新人だったピアニストたちはほとんど全員がメインストリーム・ジャズに向かいます。エリック・ワトソンが時代錯誤的なデビューをしたのはそんな時期でした。だからこそ、'60年代半ばに不思議な音楽を1枚きり残して消えたダヴィッドソンやヴァルド・ウィリアムズといったジャズマンが未知のままの可能性を暗示する存在としていつまでも解けない謎を投げかけてきます。

 主流ジャズからフリーに移った白人ピアニスト、ポール・ブレイは後輩ビル・エヴァンスの逆影響をくぐってきた人でしたが、ダヴィッドソンもモンク、ハービー・ニコルスの名を上げながらエヴァンスのヴォイシングから相当学んだ節があり、セシル・テイラーやアンドリュー・ヒルを始めとする黒人の尖鋭的ピアニストの渦巻くような加速感のある演奏とは違った、思索的で沈鬱な印象派的作曲と極端に簡素な演奏に趣味の良さが光ります。音数は最小限に少なく、オスティナート(リフレイン)やブロック・コードもほとんど弾かないのに持続した定則リズムを感じさせるのはベースとドラムスとの息が合い、しっかりした体内ビートをキープしているからで、非常に将来性のあるピアニストでした。また偶然でしょうが、本作のダヴィッドソンのオリジナル曲と演奏スタイルはクシシュトフ・コメダ(1931-1969)と並ぶポーランドのジャズ・ピアニスト、アンジェイ・ツァスコウスキ(Andrzej Trzaskowski, 1933-1998)の『Polish Jazz Vol. 4: The Andrzej Trzaskowski Quintet』(1965, Muza 0258)でスコット・ラファロホレス・シルヴァーに捧げられたピアノ・トリオ曲「Requiem For Scotty」「A Ballad with Cadence In Horace Silver's Style」に酷似しています。
◎Andrzej Trzaskowski Trio - Requiem For Scotty (Musa, 1965) : https://youtu.be/SqFxmsaUG4Y - 2:53

 このアルバム発表後にダヴィッドソンはクラブ出演の契約を獲得しますが、精神疾患の発症から契約をキャンセルし、アルバムも本作きりのままジャズ界から姿を消しました。このアルバムが初CD化されたのは'92年ですが、その際にようやくダヴィッドソンの消息が調査され、前年の'91年に勤務先の化学実験中の火災事故で逝去していたのが判明しました。化学者の仕事に専任しながらも闘病に明け暮れた生涯だったようです。日本盤CDは廃盤ですが輸入盤ともども入手は難しくなく、フリー・ジャズながら異色の抒情的印象派ピアノ・トリオ作品として一度聴けばたまに無性に聴き返したくなるアルバムです。やはり1作きりで消息を断った謎の不遇ピアニスト、ヴァルド・ウィリアムズと並んで、こういうオブスキュアなジャズマンこそが歴史の厚みを担っているようにも思えます。

蒲原有明「あだならまし」明治34年(1901年)

蒲原有明明治9年=1876年3月15日生~
昭和27年=1952年2月3日没(享年76歳)
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あだならまし


道なき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途(みち)倦みて行くによるか。
星影(ほしかげ)夜天(やてん)の宿(しゆく)にかがやけども
時劫(じごふ)の激浪(おほなみ)刻む柱見えず、
ましてや靡(しな)へ起き伏す靈の野のべ
沁しみ入るさびしさいかで人傳へむ。

君今いのちのかよひ路(ぢ)馳せゆくとき
夕影(ゆふかげ)たちまち動き涙涸れて、
短かき生(せい)の泉は盡き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌聲(うたごゑ)ともにあだならまし。

(初出・明治34年=1901年8月「明星」、第二詩集『獨弦哀歌』収録)


 東京都麹町生まれの詩人、蒲原有明(1876-1952)は明治期に第一詩集『草わかば明治35年(1902年)1月刊、第二詩集『獨弦哀歌』明治36年(1903年)5月刊、第三詩集『春鳥集』明治38年(1905年)7月刊、第四詩集『有明集』明治41年(1908年)1月刊で明治30年代~明治40年代最大の詩人になりましたが、最高の達成を見せた第四詩集『有明集』は当時台頭してきた自然主義派の若手口語詩人たちに酷評を受け、私生活上の煩悶もあって以降有明は自分から詩の世界の第一線から身を引くことになります。有明に続く北原白秋三木露風ら有力な新進詩人は有明有明の盟友・薄田泣菫(1877-1945)の詩法に学び、むしろ装飾的な技法に意を凝らして新時代にもてはやされたものでしたが、与謝野鉄幹の「明星」~「スバル」や永井荷風の「三田文學」に依った白秋や露風は耽美主義の新鋭詩人とされたのです。鉄幹の門下から出た北原白秋の「朱欒」から遅れて大正時代にデビューした萩原朔太郎は師の白秋以上に蒲原有明を生涯尊敬していましたし、森鴎外有明を激賞して変わらず萩原朔太郎の『月に吠える』をいち早く認めた人でしたが、詩作の激減した有明はその後引退状態も同然になり、14年ぶりの新詩集『自畫像』と訳詩集を含む全詩集『有明詩集』を北原白秋の経営するアルス社から刊行した大正11年(1922年)6月には過去の詩人と見なされていました。

 全詩集『有明詩集』が過去のものとされたのは萩原朔太郎の第二詩集『青猫』の刊行が翌大正12年(1923年)1月、高橋新吉の第一詩集『ダダイスト新吉の詩』が『青猫』の翌月の2月ですから無理もないのですが、有明は全詩集『有明詩集』で既刊の全詩集の改稿を始め、その後に『増訂有明詩集』を大正14年(1925年)5月に、岩波文庫有明詩抄』を昭和3年(1928年)12月に、新潮社『現代詩人全集第三巻=蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集』を昭和5年(1930年)7月に、新潮文庫蒲原有明集』を昭和10年(1935年)8月に、『春鳥集・改訂版』を昭和22年(1947年)8月に、酣燈社『有明全詩抄』を昭和25年(1950年)7月に、そして没後翌月の昭和27年(1952年)3月刊行になった新潮文庫新版『蒲原有明詩集』まで全詩集の改稿を止めませんでした。『有明集』刊行の翌年明治42年(1909年、33歳)を最後にほとんど作品発表をしなくなった有明は『有明詩集』の新詩集分『自畫像』と訳詩集のあと76歳の享年まで40年間以上過去の自作の改稿を続けていたのです。没後さらに有明生前の最終改稿型と改稿過程を収録した全詩集『定本蒲原有明全詩集』が昭和32年(1957年)2月に刊行されましたが、有明は没後刊行になった創元社『現代詩人全集』収録の『蒲原有明集』に許可を出すまで、ついに初版詩集そのままの形で詩集の翻刻を許しませんでした。

 この「あだならまし」は第一詩集『草わかば』刊行に先立って明治34年(1901年、有明25歳)8月の与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」の巻頭に掲載され、第二詩集『獨弦哀歌』でも巻頭詩として収められたものです。『獨弦哀歌』収録作品の頃に有明は盟友の薄田泣菫と並んで西洋詩のソネット(14行詩)を試みており、有明はさらに音律を四・七・六音による一行とする独自の音律方法に依っていました。これは明治20年代に讃美歌の日本語訳詞から採り入れた音律であり、また五・七ではない四・六の偶数音律については明治22年(1889年)「國民之友」夏季付録の森鴎外を中心とする新聲社訳編の訳詩集『於母影』に先例がありました。現代詩が漢詩や短歌、俳句と異なる独自の詩体であることが認められるまでは、音数律が非常に重視されたのです。与謝野鉄幹有明の新作ソネットを同時に三篇「明星」巻頭に掲載し、有明が50篇のソネット連作構想を持っていることを喧伝して、この詩型は「獨弦調」として大きな反響を得ました。実際に第二詩集『獨弦哀歌』に収録された四・七・六音律の「獨弦調」ソネットは15篇にとどまりましたが、それらは薄田泣菫の諸作と並んで明治30年(1897年)の島崎藤村詩集『若菜集』から着実に現代詩を進めたものでした。明治38年(1905年)5月の石川啄木(1886-1912)の第一詩集『あこがれ』はほとんど泣菫、有明の偶数音律の影響を巧みに模倣したものです。

 一度は詩作から引退した有明はその後も生涯本作を改作し続けることになりました。大正11年(1922年、46歳)6月刊の全詩集『有明詩集』をさらに改訂した大正14年(1925年、有明49歳)5月刊の『増訂有明詩集』ではこの作品は二連から四連に分けられ、タイトルともども全篇が改作されています。「あだならまし」が「艶ならまし」ではなく「空(あだ)ならまし」ではないことも明確にされ、原型にあったキリスト教信色も払底されています。この改作は原作を下敷きにしているとはいえ、まったく異なる詩に一新されたと言ってよいほどです。

さまよひのうた


をぐらき森の常蔭(とかげ)に、うそびき入る
汝(な)がさまよひの歌こそこだましぬれ、
うたふは胸の火、なほも燻ゆるがため、
迷ふは世の途(みち)を倦みて行くによるか。

天(あめ)なる宿(やどり)星はかがやけども
時劫(じごふ)のおほ浪(なみ)刻む柱見えず、
人にも知らで果つる魂(たま)と身との
悶えと、その寂しさの、況(ま)して、あはれ。

さはあれ、まぎれ入りぬる懈怠(けたい)のかげ、
いぶせき鬱憂(うついう)の夜に、命極り、
短かき生涯の途(みち)かへりみなむ

その時夢のうつろと知らむもうし、
浄(きよ)まる信のめぐみを仰がざれば、
胸の火、歌ごゑ、ともに空(あだ)ならまし。

(全詩集『増訂有明詩集』大正14年=1925年5月刊)

 さらに昭和3年(1928年、有明52歳)12月刊の岩波文庫版『有明詩抄』でもこの詩はタイトルごと『有明詩集』の「さまよひのうた」からさらに改作され、第一連~第三連まではさらに陰鬱で内省的な表現に改められています。

無信


をぐらき森の常蔭(とかげ)にうそびき入る
汝(な)がさまよひの歌こそ反響(こだま)しぬれ、
人をも世をも恨みて疑へねども、
胸の火なほも燻ゆれや歌ひやまず。

行方(ゆくへ)にやがて奇(あや)しき眞洞(まほら)ありて、
まじこる凶(まが)の蝙蝠(かはほり)内に棲めば、
時劫(じごふ)の浪だち、星のまたたきさへ
通はぬ奥所(おくが)や無為の眠(ねむり)の床。

さもあれ、まぎれ入りぬる懈怠(けたい)の蔭(かげ)、
いぶせき鬱憂(うついう)の夜に命極り、
短かき生涯の途(みち)かへりみなむ

その時夢のうつろと知らむもうし、
根ぶかき信のめぐみを仰がざれば、
胸の火、歌ごゑ、共に空(あだ)ならまし。

(岩波文庫有明詩抄』昭和3年=1928年12月刊)

 昭和5年(1930年、有明54歳)7月刊の新潮社『現代詩人全集第三巻=蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集』を定本にしてさらに改作した、昭和10年(1935年、有明59歳)8月刊の新潮文庫蒲原有明集』ではこの「あだならまし」~「さまよひのうた」~「無信」は未収録ですが、戦後の昭和25年(1950年、有明74歳)7月刊の酣燈社盤『有明全詩抄』ではこの詩は再び原題「あだならまし」に戻されて収録されています。助詞や句読点の変更もありますが、第三連二行目の「いぶせき鬱憂の夜に玉の緒絶え、」とさらに内観が増し、タイトルや最終行も「あだならまし」に戻されているのが注目されます。

あだならまし


をぐらき森の常蔭(とかげ)にうそびき入る
汝(な)がさまよひ歌こそ反響(こだま)しぬれ。
人をも世をも恨みて疑へども、
胸の火なほも燻ゆれか歌ひやまず。

行方(ゆくへ)にやがて奇(あや)しき眞洞(まほら)ありて、
まじこる凶(まが)の蝙蝠(かはほり)内に棲めば
時劫(じごふ)の波だち、星のまたたきさへ、
通はぬ奥所(おくが)や、無為の眠(ねむり)の床。

さもあれ、まぎれ入りぬる懈怠(けたい)の蔭(かげ)、
いぶせき鬱憂(うついう)の夜に玉の緒絶え、
短き生涯の途(みち)かへりみなむ、

その時夢のうつろと知らむもうし。
根ぶかき信のめぐみを仰がざらば、
胸の火、歌ごゑ、共にあだならまし。

(酣燈社『有明全詩抄』昭和25年=1950年7月刊)

 有明最後の自作改は没後翌月の昭和27年(1952年、享年76歳)3月刊行になった新潮文庫新版『蒲原有明詩集』でした。酣燈社『有明全詩抄』とは第一連四行目の「胸の火なほも燻ゆれか歌ひやまず。」が「胸の火なほも燻ゆればか歌ひやまず。」に変更されただけですが、これが河出書房から昭和32年(1957年)2月に刊行された有明没後の全詩集『定本蒲原有明全詩集』の最終型になりました。

 あだならまし

をぐらき森の常蔭(とかげ)にうそびき入る
汝(な)がさまよひの歌こそ反響(こだま)しぬれ。
人をも世をも恨みて疑へども、
胸の火なほも燻ゆればか歌ひやまず。

行方(ゆくへ)にやがて奇(あや)しき眞洞(まほら)ありて、
まじこる凶(まが)の蝙蝠(かはほり)内に棲めば
時劫(じごふ)の波だち、星のまたたきさへ、
通はぬ奥所(おくが)や、無為の眠(ねむり)の床。

さもあれ、まぎれ入りぬる懈怠(けたい)の蔭(かげ)、
いぶせき鬱憂(うついう)の夜に玉の緒絶え、
短き生涯の途(みち)かへりみなむ、

その時夢のうつろと知らむもうし。
根ぶかき信のめぐみを仰がざらば、
胸の火、歌ごゑ、共にあだならまし。

(新潮文庫新版『蒲原有明詩集』昭和27年=1952年3月刊)

 一人の詩人が25歳で書いた詩を76歳までの50年間に渡って改作し続けた例などめったにあることではなく、25歳の時に書かれた「あだならまし」は46歳・49歳の「さまよひのうた」、52歳の「無信」、74歳の「あだならまし」ではまったく異なる印象の詩に改作され続けています。有明の明治時代の四詩集はすべてこのように有明の最晩年まで改作を重ねられました。新作詩こそ激減したとはいえ、有明が生涯をかけて詩を手放さなかったのはこうした絶え間ない改作によるものでした。たとえ再三の改作が改悪と謗られようとも、この「あだならまし」について言えば改作はその都度有明にとっては新作詩と同等以上の労力を費やしたと思われるものです。

フェアポート・コンベンション Fairport Convention - フェアポート・コンベンション Fairport Convention (Polydor, 1968)

フェアポート・コンベンション (Polydor, 1968)

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フェアポート・コンベンション Fairport Convention - フェアポート・コンベンション Fairport Convention (Polydor, 1968) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLP59Fs_hB7C1av_6noDzB7xWsHhPhsEGm
Recorded at Sound Techniques, London, November 1967
Released by Polydor Records 582035, June 1968
Engineerd by John Wood
Produced by Joe Boyd, Tod Lloyd for Witchseason Productions
(Side A)
A1. Time Will Show the Wiser (Emitt Rhodes) - 3:05
A2. I Don't Know Where I Stand (Joni Mitchell) - 3:45
A3. If (Stomp) (Ian MacDonald, Richard Thompson) - 2:45
A4. Decameron (Paul Ghosh, Andrew Horvitch, Thompson) - 3:42
A5. Jack O'Diamonds (Bob Dylan, Ben Carruthers) - 3:30
A6. Portfolio (Judy Dyble, Tyger Hutchings) - 2:00
(Side B)
B1. Chelsea Morning (Joni Mitchell) - 3:05
B2. Sun Shade (Ghosh, Horvitch, Thompson) - 3:50
B3. The Lobster (George Painter, Hutchings, Thompson) - 5:25
B4. It's Alright Ma, It's Only Witchcraft (Hutchings, Thompson) - 3:12
B5. One Sure Thing (Harvey Brooks, Jim Glover) - 2:50
B6. M.1 Breakdown (Hutchings, Simon Nicol) - 1:22
(2003 reissue bonus tracks)
13. Suzanne (Leonard Cohen) - 5:48
14. If I Had a Ribbon Bow (Hughie Prince, Lou Singer) - 2:44
15. Morning Glory (Larry Beckett, Tim Buckley) - 3:13
16. Reno, Nevada (Richard Farina) - 7:43

[ Fairport Convention ]

Judy Dyble - lead vocals, electric and acoustic autoharps, recorder, piano
Ian MacDonald (Iain Matthews) - lead vocals, Jew's harp
Richard Thompson - vocals, lead electric and acoustic guitars, mandolin
Simon Nicol - vocals, electric 12 and 6 string and acoustic guitars
Ashley Hutchings - bass guitar, jug, double bass
Martin Lamble - percussion, violin
(Additional personnel)
Claire Lowther – cello

(Original Polydor "Fairport Convention" LP Liner Cover & Side A Label)
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Allmusic Rating ★★★★1/2
User Rating ★★★★1/2
AllMusic Review by Richie Unterberger
 初期のフェアポート・コンベンションのアルバでも群を抜いてロック指向の強いこのデビュー作は、女性ヴォーカリストにサンディ・デニーが加入する前に制作されました。本作ではジュディ・ダイブルが女性ヴォーカリストとして参加しています。デニー加入前のフェアポートを重視しないリスナーに不当に見落とされている本作は、伝統的な英国のフォークよりもはるかに多くの着想を'60年代アメリカのウエストコースト・ロックのサウンドから取り入れた素晴らしいフォーク・ロックの成果です。この初期の時点でのフェアポートの主な強みは、特に男女ヴォーカリストのハーモニーを生かした、ジョニ・ミッチェルボブ・ディラン、エミット・ローズ、ジム&ジーンなどのアメリカのソングライターによる、あまり知られない曲のバンドによる解釈でした。メンバーの自作曲はカヴァー曲ほどの高い水準には達していませんが、特に「Decameron」と「Sun Shade」がメランコリックなムードを素晴らしく捉えており、当時見過ごされたよりもずっと優れたものでした。ダイブルに代わってデニーが加入した後でフェアポートがより独創的なスタイルを考案するのは事実ですが、このデビュー作のアメリカのフォーク・ロックのスタイルをこなしたメンバーの実力はすでに一流のものであり、過小評価されるべきではありません。
(allmusic.comより、全文)

 本作はリチャード・トンプソン(リード・ギター)を含むオリジナル・メンバーによって1967年に結成されたバンド、フェアポート・コンベンションのデビューアルバムです。メンバーにはサイモン・ニコル、アシュリー・"タイガー"・ハッチングス(ベース)がおり、ドラマーのショーン・フレイターは、最初のライヴの後にマーティン・ランブルに交替しました。その後まもなく、ジュディ・ダイブル(ヴォーカル)が加わり、ビートルズのマネジメントだったブライアン・エプスタイン主宰の日曜日コンサートでロンドンのメジャー・シーンにステージ・デビューを果たした後、さらに男性ヴォーカルのイアン・マクドナルド(のちにイアン・マシューズと改名)が加わりました。
 本作で聴ける当初のフェアポートはジェファーソン・エアプレインの最初の2枚のアルバムの影響を強く受けたアプローチで、後にバンドのトレードマークとなったイギリスの伝統的なフォークのエレクトリック化とは対照的に、アルバムにはエミット・ローズ(ザ・メリー・ゴー・ラウンド)、ジョニ・ミッチェル、ジム&ジーンの曲、ジョージ・ペインターの詩の改作、ボブ・ディラン、そして数曲のオリジナル曲が含まれています。
 また本作はジュディ・ダイブルが女性ヴォーカリストとして参加した唯一のフェアポート・コンベンションのスタジオ・アルバムになりました。ダイブルは1968年に脱退し、後任の女性ヴォーカルはサンディ・デニーに代わりましたが、ダイブルはバンドのステージで短時間に、特にヴォーカルを担当しない曲の時に布巾やスカーフを編むパフォーマンスで観客に印象を残しました。
 アメリカではフェアポート・コンベンションのアルバムはA&Mレコードからセカンド・アルバム『What We Did On Our Holidays』が『Fairport Convention』と改題されて先に発売されたので混同されがちですが、イギリス・ポリドールからリリースされたファースト・アルバムの本作はワーナー傘下のコティリオン・レコーズから1970年に初めてアメリカ発売されました。
(英語版ウィキペディア全文)

室生犀星「兇賊TICRIS氏」・萩原朔太郎「殺人事件」大正3年(1914年)

室生犀星明治22年(1889年)8月1日生~
昭和37年(1962年)3月26日没(享年72歳)
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兇賊TICRIS氏


TICRISはふくめんを為す。
TICRISは思ひなやみ、
盗むことを念ず。
盗むことを念ずるとき光を感じ
心神を感ず。
ぴすとるを磨き、
天をいだき、
妹には熱き接吻を与へ、
林檎を与へ、
TICRISは地下室のドアにもたれる。
べるりんの深夜。

宝石商レブランの仮名。
あさゆふの食卓うしろに
君は君の終るべき陥穽をしつらへ、
さかさまに墜ち砕ける。
自殺の陥穽であり、
をはりの君の住家だ。

君はまたカフエエの卓にもたれ、
つくづくおもへば
指は鳴る。
時計商店内部の光輝、
あさるべきスペクトオルの層密。
君の手にふれむことを祈り、
ときならぬ鈴を鳴らしめむ。
ああTICRISは又た思ひなやみ
瞳をくもらし、
十字を切り
哀しき夜行をおもふ。

露しげき深夜。
夜のびろうどの上を
一台の自動車はすべりゆく。
べるりん午前二時。
まあぶるの建物をするすると舉ずるもの、
黒曜石の昇天
ぴあの鳴る。
あはれふくめんの黒。
まなこは三角。
手にはあまたの宝石(いし)をささげ
するすると窓より下る。

金曜日午前チグリス氏在宅。
すずしき秋のあしたなり。
妹は紅茶を兄ぎみにまゐらす。
妹はチグリスの肩にもたれ
にくしんの接吻を為す。
いもうとよ
おんみはなにごとも知らず。
またとこしへに知ることなかれ。
おんみの坐し
おんみの臥すところの室内の器具。
すべては動き
すべては舞ひはじめるとき
わが兄の終りなり。
それまでは何ごとも兄を信ぜよ。

(「アララギ大正3年=1914年10月)


 この「兇賊TICRIS氏」は室生犀星(1889-1962)の明治42年(1909年、20歳)~大正3年(1914年、25歳)までの抒情詩を集めた第二詩集『抒情小曲集』初版(大正7年=1918年9月刊)には未収録になり、同詩集の大正12年(1923年)の再版で補遺詩篇「卓上噴水」の部に初めて収録されました。ただし犀星は再版詩集の「再刊小言」で「兇賊チグリス氏は原稿が散逸してゐて本集収録の末行十行ばかり見当らなかつた。あらたに作つて添付するの純を欠くため、わざと心ならずもその欠行の儘にして置いた」と注記しています。この「兇賊TICRIS氏」は室生犀星逝去直前の昭和37年(1962年)2月に全詩集を選抜・改稿・改訂の上で完成・刊行された『室生犀星全詩集』にも収録されましたが、句読点をすべて排し全篇に渡って大きく改作されています。ただし末行は「それまでは何ごとも兄を信ぜよ」で終わっていますので、散佚した結末部分の補訂はありません。

 この詩は室生犀星が親友の萩原朔太郎(1886-1942)とともに当時流行のサイレント時代のフランスの連続犯罪活劇映画を浅草で観て想を得た作品ですが、萩原もまた同時期(1か月前)に犀星とともに観た活劇映画に想を得た作品を発表しています。萩原の作品は大正6年(1917年)2月刊の第1詩集『月に吠える』のうちでも口語自由詩に着手した初期の1篇ですが、すでに独自の発想とスタイルを持つ見事な作品です。

殺人事件

 萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

(大正3年=1914年9月「地上巡禮」)

 同じ犯罪活劇映画を観て書かれた詩でも、犀星の作品は場面場面を追って味読するように書かれているのに対して、萩原の作品は映画全体の印象から新たな幻想を再創造するように書かれていてはっきりとした対照を見せています。「兇賊TICRIS氏」はより長く周密に書けばどこまでも拡張していける詩ですが、「殺人事件」はこの三連・16行で完結しています。「兇賊TICRIS氏」も面白い詩ですから、これは資質の違いではあっても優劣の問題ではないでしょう。この場合、資質というのは単なる嗜好にとどまらず、ほとんど感覚自体の体質の差異となって表れているように思われます。

トゥリーズ Trees - オン・ザ・ショア On the Shore (CBS, 1971)

トゥリーズ - オン・ザ・ショア (CBS, 1971)

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トゥリーズ Trees - オン・ザ・ショア On the Shore (CBS, 1971) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLAFB20OoL0eb5dEeRSCxzTjLUEmCqOLPR
Recorded at at Sound Techniques,
Chelsea, London, October 1970
Released by CBS Records S 64168, January, 1971
Engineered by Vic Gramm
Produced by Tony Cox
Sleeve design by Hipgnosis
(Side 1)
A1. Soldiers Three (traditional) - 1:51
A2. Murdoch (Bias Boshell) - 5:10
A3. Streets of Derry (traditional) - 7:32
A4. Sally Free and Easy (Cyril Tawney) - 10:11
(Side 2)
B1. Fool (Bias Boshell, David Costa) - 5:21
B2. Adam's Toon (A. Della Halle) - 1:10
B3. Geordie (traditional) - 5:06
B4. While the Iron is Hot (Bias Boshell) - 3:21
B5. Little Sadie (traditional) - 3:11
B6. Polly on the Shore (traditional) - 6:08

[ Trees ]

Celia Humphris - vocals
Barry Clarke - lead guitar, dulcimer
David Costa - acoustic and electric 12-string guitar, mandolin
Bias Boshell - bass, vocals, piano, acoustic 12-string guitar
Unwin Brown - drums, vocals, tambourine

(Original CBS "On the Shore" LP Liner Cover & Side 1 Label)
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 イギリスのブリティッシュ・トラッド・フォーク・ロックのバンド、トゥリーズのセカンド・アルバムの本作もイギリス本国発売の直後に日本盤が出ていますが、トゥリーズのCBSとの契約は本作で打ち切りになり、バンドは翌1972年までライヴ活動を続けサード・アルバムのデモテープを制作するも同年中には解散してしまいます。デビュー作『ジェーン・ドゥロウニーの庭(The Garden of Jane Delawney)』ともどもトゥリーズの2作はイギリスの復刻レーベル、Decalから1987年にアナログLP再発売されるまで廃盤になり、1993年にドイツの復刻レーベルBGOから初CD化されています。オリジナル盤、日本盤、Decalからの少数プレスの復刻盤ともにアナログLP時代には本作は入手難で、CBS(SONY/BMG)からのリマスターCD化も2000年代まで遅れたためトゥリーズの2作、ことにヒプノシスのストーム・ファーガソンのデザインによる印象的なジャケットの本作はマニア人気の高いものでした。2007年には本作を2枚組にし、アルバム全曲にメンバー自身がオーヴァーダビングとリミックスを施してBBC放送でのライヴ2曲、2007年の新曲2曲を収録したボーナス・ディスクつきの再リマスター盤も発売されています。ただしボーナス・ディスクの方は、幻のサード・アルバム収録予定曲だった未発表曲2曲の放送用ライヴや新録音2曲はともかく、オーヴァーダビングとリミックスは改悪と不評なもので、アルバム本編の新規リマスターが好評だっただけに賛否両論といったところでした。トゥリーズは再リマスター盤の発売を記念して2008年には一時的再結成コンサートと新録音を行い、新録音の残りは2020年11月発売のバンド・デビュー50周年記念の自主制作コンピレーション盤『Trees』で陽の目を見ることになりました。

 本作のヒプノシスのジャケット・アートはピンク・フロイドやヴァージン・レコーズの諸作と並んで人気があり、ウィッシュボーン・アッシュの『百眼の巨人アーガス(Argus)』1972のジャケットに匹敵する印象的なものです。アルバム内容もデビュー作同様LPのAB面でトータル50分近い力作で、ギターの音色やピアノ、キーボードの導入を始めバンドの演奏力もアレンジの洗練もデビュー作からの進展がうかがえます。またプログレッシヴ・ロックのリスナーからも本作の方がデビュー作よりはるかに人気が高く、フェアポート・コンベンションやペンタングル、スティーライ・スパンらブリティッシュ・トラッド・フォーク・ロックの一流バンドよりも本作の方を上とするマニアも多いのですが、バンドの力量が向上した分本作はフェアポートら一流バンドにはおよばない、という気もします。デビュー作はちょっとミスマッチではないかと思われるようなサイケデリック・ロック色丸出しのリード・ギターといい、凝ったリズム・チェンジに挑んだアレンジがバンドの演奏力には手に余ったり、声質は可愛いらしく雰囲気のある女性ヴォーカルもかなり音程の危なっかしいところが愛嬌になっていました。1989年にリリースされた音質の悪いアナログ・ブート『Trees Live!』がありましたが、おそらく公式録音されていても正規盤の発掘フル・ライヴ・アルバムは出せないだろうなというほど海賊盤で聴けるライヴもあまり上手くなく、実力的にも2枚のアルバムきりで解散したのはやむなしと思われるものでした。二流以下と言うほどではないとしても一流とは言えないトゥリーズの資質はアンサンブルや演奏力に稚拙さを残したデビュー作の方が素直に出ていて、セカンド・アルバムの本作はもっと入念なプロデュースで完成度を高めたものの、バンドの個性は後退してしまい、翌年デビュー作1作だけを出して解散したメロウ・キャンドルの『抱擁の歌(Swaddling Songs)』のようにアルバム1作で個性、実力、完成度とも完備した作品にはなっていない感想を抱きます。トゥリーズのようにアルバム2作で解散したバンドの作品に優劣をつけても仕方なく、デビュー作きりだったらもっと歴史の闇に埋没していたかもしれませんが、このバンドの良さ(面白さ、と言ってもいいですが)はデビュー作『ジェーン・ドゥロウニーの庭(The Garden of Jane Delawney)』に無加工に表れていて、本作はジャケットのインパクトの強さがなければアニー・ハズラムを擁したルネッサンスにはおよばない、トラッド・フォーク・ロックとクラシカル・ロックの標準作という印象を受けます。筆者の好みばかりで感想文を書いてきましたが、ついでに言えばジャケットも本作よりデビュー作の方が筆者には好ましく感じます。